9.わたくしは、前途多難の気配を感じました。
「ようこそ、アイル嬢。来てくれて嬉しいよ」
これから五年間という長い時間を過ごすために、ツォルン公爵邸を訪れたリーリアを迎えたのは、彼女に花嫁という役割を与えた屋敷の主、ツォルン公爵であるクラキオ・ツォルンその人だった。黒いトラウザーズに、品を損なわない程度に肌蹴たシャツというラフな格好にも関わらず、見ているこちらが息苦しくなるような色気を纏った彼は、ごく自然な素振りでリーリアの手を取り、その指先に口付けを落とす。ちゃり、と彼の身に着けていた真っ黒な宝石の首飾りが音を立てた。貴族の男性としては、ごく一般的な挨拶だが、するりと上げられた視線が、うっそりとした、あまりに妖艶なそれで、リーリアは思わずたじろいでしまった。先日、女性からの期待に満ちた眼差しが苦手なのだと彼は言っていたが、こういうことをするから女性たちも勘違いをするのではないだろうか。思い、そう告げれば、クラキオは一瞬驚いたような顔になって。ふっと、困ったような笑みを零した。
「俺自身は、あまり意味のある行為だとは思っていないんだけどね。まあ、自分からは女性たちには近づかないようにしているから」
「今のような視線一つでもそうだけど、言葉が、仕種が、俺の知らない所で誇大解釈されてしまう場合もあるからね……」と言う彼は、どこか疲れたような顔をしていた。過去の経験談なのだろう。「容姿が優れているというのも、大変ですわね」と同情するように言えば、クラキオは何故かぽかんとした顔になって。
「あはは」と、急に声を上げて笑いだした。無邪気なその笑みに、リーリアはきょとんと瞬く。
「王国の金の薔薇にそんなことを言われるとは思っていなかったよ」
「君、面白いんだね」と彼は言うけれど、一体何が面白いのか分からず、リーリアはただ頭の上に疑問符を飛ばすしかなかった。
玄関ホールを抜けて、奥には大きなサロンが広がり、食堂、小さなサロンが左右に配置されている。一階には他にも、図書室やギャラリー、サンルームなどがあり、さすがは公爵邸というべきか、広さはリーリアの住むカイネス侯爵邸よりも、全て一回りほど広く感じた。二階は主寝室、寝室と並んでおり、客室は別棟に配置されているらしい。
「では、わたくしはそちらの客室をお借りすることになるのですね」
本館の内部を、クラキオ自ら説明を受けながら歩いていたリーリアは、クラキオが普段使っているという主寝室の隣の部屋を覗き込みながら、そう呟いた。花嫁とはいえ、あくまで役割である。聖石の調整が主な仕事だと聞いているので、クラキオの傍にいる必要もない。
一人納得していたリーリアだが、クラキオは当たり前のように「いや、この部屋が君の部屋だよ」と言った。思わず、ぴたりと固まる。彼は今、何と言っただろうか。
……この部屋が、わたくしの部屋と仰ったのかしら……? でも、この部屋って……。
「わたくしの思い違いでなければ、ツォルン公爵様の寝室と扉一枚で繋がっているように見えるのですけど……」
おそらくは、先ほどのクラキオの寝室が公爵夫妻の寝室だろう。大きめの窓が二つと、壁際に沢山の本が並べられた本棚、大きな丸テーブルと、広いベッドの傍には小さめのテーブルが置かれている。この部屋は元々寝室ではなく、私室のような物だろう。そこにベッドを置いて、寝室としている形だ。だからこそ、扉一枚で寝室に行けるようになっている。それは分かる。だが、しかし。
わたくしがこの部屋を使ってはいけないと思うのだけど……!
心の中で声を上げるリーリアとは裏腹に、クラキオは平然とした顔で「うん、そうだね」と応えた。
そうだね、ではない。
思わず真顔でそう詰め寄りたくなった自分を抑えつつ、リーリアはにっこりと微笑む。困った時こそ淑女の笑みだ。
「ツォルン公爵様。こういったお部屋は、公爵様の奥方様やご婚約者様だけに許されるお部屋ですわ。形だけの花嫁であるわたくしがこのお部屋を使うのはどうかと思うのですが……」
訊ねるように、それでいて言い聞かせるようにリーリアはクラキオに告げる。どう考えても未婚の令嬢に相応しいとは言えない部屋なのだ。魔物とはいえ、社交界に身を置くクラキオも、さすがにその辺りは分かってくれると思うのだが。
クラキオはリーリアの言葉を聞いた後、少し困ったような顔で笑った。「そうしてあげたいとは思うんだけどね」と、彼は口を開いた。
「この部屋が、一番護りやすいんだ。俺が隣の部屋にいることもそうだけど、屋敷の者たちも特に意識を向けている場所だからね」
「だから歴代の花嫁たちは、皆この部屋を使っていたよ」と、彼は続けるけれど。
その言葉の内容に、リーリアは僅かに首を傾げる。「護りやすい、ですか?」と問い返せば、クラキオはこくりと頷いていた。
「魔公の花嫁というのは、魔公である俺が選ぶほどに強い聖力を持つ聖女のことだからね。魔物にとっては、ご馳走のような物だ。自分の魔力よりも強い聖力を持つ聖女の心臓は、魔物の魔力の限界値を大幅に上げることが出来る。魔核の色が変わる程にね」
「だから、君は花嫁になった時点で、常に狙われているようなものなんだよ」と、彼はにこやかに言うけれど。
ひくりと、リーリアは頬を引きつらせていた。自分の置かれた状況を、ここに来て初めて理解した気がしたから。
ちょっと待って。何それ、聞いてない……。
いつの間にか、魔物に狙われる格好の的になっていた、なんて。
「君の聖力の本当の強さを知っている者は俺たち以外にはいないから、今までの子たちよりは大丈夫だろうけれどね。……知られたら間違いなく、狙われる。君の心臓を食べれば、とても強い魔力を得ることが出来そうだから」
「長いこと生きているけれど、君ほど聖力が強い聖女は初めて見るからね」と、クラキオが言うのに、ただただリーリアは呆然とするしかなかった。
全然、嬉しくない。
せっかくツォルン公爵様とお近づきになれたから、何とか彼の暴走の回避とか、戦いの回避とか、彼とわたくしの心中する未来を回避とか、そんなこと考えてたのに……。
ここに来て、自分の聖力の強さが邪魔をすることになるとは。こんなことで命の危機にさらされるなんて、思ってもいなかった。
クラキオは、彼を凝視したまま動きを止めたリーリアを少し面白そうに眺めた後で、ぽすりと頭を撫でて来た。「大丈夫」と呟きながら。
「花嫁になってくれた以上、激情の魔公の名にかけて、君は俺が護るよ。そのためにも、この部屋に住むことを了承して欲しいんだけど、いいかい?」
問いかけるような口調で、しかし有無を言わせぬ声音でクラキオが言うのに、リーリアはひくりと頬を引きつらせ、「お願いしますわ」と呟いてこくりと頷いた。
一通り屋敷の中を案内した後、クラキオは仕事があるからと書斎に向かって行った。魔公の花嫁としての仕事は明日から始めると言われたので、手持無沙汰になったリーリアは、自らの部屋として割り当てられたクラキオの寝室の隣の部屋へと向かった。
クラキオの言っていた通り、最初からリーリアはこの部屋に来ることが決まっていたようで。リーリアが持参した荷物はすでに、彼の寝室の隣の部屋へと運び込まれていた。丸テーブルの方に近づいて、ぐるりと部屋の中を改めて見渡す。埃一つない部屋は、主人の部屋の隣であることもあり、普段から手入れが行き届いているのであろうことが覗えた。
家具は全てチョコレートのように濃い茶色の木材で造られており、四隅に彫り込まれた模様を飾るように金の精緻な金具が飾られている。おそらく全て同じ職人の手のものなのだろう。
本棚に近付いてその模様に視線を向けたリーリアは、なるほどと一人その模様に納得した。どの家具にも描かれるその模様の中央にあったのが、ツォルン公爵邸の家紋で見たことのある凛々しい狼の横顔に、大きな宝石を飾った一振りの剣だったからである。その周囲に緻密に刻まれているのは、その形だけでは判別できないが、何かの花と丸い物。花の実であろうか。
花嫁の部屋としては落ち着き過ぎかもしれないけれど、わたくしとしてはとても心地が良い部屋だわ。
見た目に反して華美な空間が苦手なリーリアは、思いながら本棚に並んだ書物へと視線を向けた。背表紙に書かれた文字は、『聖石の扱い方』や、『聖女の歴史』など、聖女や聖力について書かれているであろう物から、『魔物と魔族』や、『魔公と世界』と言った、魔物についても物まで、本棚をびっしりと埋めるように並んでいた。文字の形も大きさも、本そのものの色もばらばらの本達だったが、その全てに等しく共通していることがあるとするならば、リーリアが今まで見たことのない本ばかりだ、ということだろうか。侯爵であり、宰相という父の立場上、リーリアの家にも大量の本が置かれている。もちろんその中には、ここにある物と同じように、聖女や聖力、魔物についてなどの本も大量にあったにも関わらず。リーリアもまた、幼い頃からそれを手に取り、学んできているのだが、ここにある本に見覚えがある物は何一つなかったのだ。本を読むのが好きなリーリアにとっては、有り難い話である。
その内の一冊に、『魔物というもの』と書かれた物が有り、リーリアは手を伸ばした。ただ黒いだけの革表紙の本はとても読み込まれているようで、まばらに色褪せしていた。
屋敷にある魔物の本は全て読んでしまったけれど、魔力の枯渇による暴走についてはまだ分からないまま……。ここにある本はまだ読んだことがないものばかりだから、時間を見つけて読んでみようかしら。
夢で見たあの物語が始まるまでに、少しでも手掛かりを見つけなければならない。決定的なものではないにしても、まずはクラキオの暴走を防がなければならないのだから。
思いながら本の表紙を捲り、ぺらりとページを捲る。目次を見るからに、書かれているのは、魔物の基本的な生態のようだった。
さすがにこの辺りは屋敷にある本と同じ内容ね。
ぺらぺらと、流し見るようにして読み進めて行く。
ダズィル王国でも信仰している大地の神と時の神。二柱の負の感情から生まれた、負の宝石。それを核として生まれたのが、魔物である。その核は魔核と呼ばれ、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七種類の色を持っている。
緑、青、藍、紫の色の魔核を持つ魔物は人間の姿を取ることが出来、魔族と呼ばれる。その数は少なく、世界の魔物の内、魔族は一割に満たないと言われていた。
そんな魔族の中でも、現在、紫の魔核を持っているのは、魔公と呼ばれる七人だけ。うん。やっぱり同じだわ。
魔核の色はそのまま、魔力の強さを示している。特に紫の魔核を持つ魔族は敵なしとされ、藍の魔核を持つ魔族が束で挑んでも片手で事足りるとされていた。
何度も読んだ文章と同じような意味合いのその文字列に、リーリアは深く息を吐く。クラキオもまた、それほどまでに強い、紫の魔核を持つ魔公。その魔力の量もまた他の魔物や魔族を遥かに凌ぐというのに。
「リーリアお嬢様。そのような所で立ったままお読みにならず、こちらにお座りになってくださいませ。お茶も用意いたしましたから」
ふと、背後から声をかけられてそちらに顔を向ける。いつの間にか、丸テーブルの傍らにワゴンと共に、侍女のお仕着せを着た一人の女性が立っていた。栗色の髪をお団子にしてまとめた、青い目のその人物に、リーリアはふわりと笑みを浮かべながら、「ナール」と呼びかけた。
「一緒にお屋敷に来たかと思ったら、いつの間にかいなくなっていたものだから、心配していたのよ?」
「それは申し訳ありませんでした。色々と把握しておこうかと思いまして」
テーブルの方へと歩み寄れば、ナールは自然な動作で椅子を引き、リーリアをそこに座るように促す。本を机の上に広げ、ナールが入れてくれた紅茶のカップに手を伸ばした。鼻腔を擽る香りに目を細め、口をつける。おっとりとした性格がゆえに表情の乏しい彼女だが、その紅茶の味は幼い頃から慣れ親しんだもので。ほっと、知らず詰めていたらしい息を吐き出した。やはり彼女が共にこの屋敷に来てくれてよかったと、リーリアは素直にそう思った。
ナールはもともと、カイネス侯爵家の侍女である。リーリアよりも五歳年上の二十一歳で、リーリアが十歳の頃から専属の侍女として傍にいた。彼女の母親は、リーリアの母、ササラの侍女であり、父親は侯爵邸の庭を美しく整えてくれている庭師である。親子二代に渡ってカイネス侯爵家に仕えてくれているため、リーリアの専属侍女となる前から、リーリアは彼女に懐いていた。
そんな彼女に、今回ツォルン公爵家に共に来て欲しいと願い出た時には、すでに彼女はそのつもりだったようで。不思議そうな顔をして、「もう用意は済んでおりますけど……」と言われた時にはほっとして飛びついてしまった。すぐに行儀が悪いと困ったような表情で注意されてしまったが。
他にも四人、カイネス侯爵邸からついてきてもらった侍女たちがいるが、やはり付き合いの長い彼女は特別である。他の侍女たちもそれを理解しているらしく、今もおそらくリーリアたちに遠慮してこの場を離れているのだろうと、リーリアもそれを分かっていたから、ナールに彼女たちの行方を聞こうとは思わなかった。もっとも、皆それぞれ仕事熱心な侍女たちばかりなので、それほど心配もしていない。何かあったら戻って来ることだろう。
「そういえば先ほど、ツォルン公爵様の侍従の方にお会いしまして。夕食は共に、とのことでした。ツォルン公爵様からの伝言らしいですわ」
「分かったわ。……ということは、それまでは空き時間ね。この本一冊くらいならば読めそうだわ」
言いながら、紅茶のカップを戻し、早速本の方へと手を伸ばす。「栞はこちらを」と、慣れた様子で水色のリボンを手渡してくるナールに礼を言い、再びリーリアは本の内容へと意識を移していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます