1.わたくしは、夢を見ただけなの。

 そもそもの事の発端は、半月ほど前に遡る。

 十四カ月ある一年のうち、七番目にあたる熊の月の十八日に、ここ、ダズィル王国の第一王子、キースリール殿下が、リーリアの居宅であるカイネス侯爵家のタウンハウスを訪れることになったのが、全ての始まりだった。

 カイネス侯爵家は、ダズィル王国の中でも王家に次ぐほどの歴史を持ち、現在とある例外的な公爵家以外に公爵家のないダズィル王国の中では、筆頭と呼ばれるほど力のある貴族である。

 現カイネス侯爵であるトーキアロン・アイル氏は、柔らかな茶色の髪と鋭く鮮やかな緑の眼を持つ、社交界でも有名な美壮年であり、王国を支える宰相という立場にある忠臣。奥方である、ふわふわとした金髪と藍色の瞳を持つササラ・アイル侯爵夫人の美しさと、貴族らしからぬ穏やかな性格も有名で、若かりし頃は国内随一の美男美女夫婦と謳われていた。

 そんなカイネス侯爵夫妻には、三人の子供がいる。

 一番上が今年十七歳になる長男、カインセント・アイル侯爵子息。母譲りの優しく柔和な美貌と金の髪、父譲りの頭脳と緑の眼を持つ、優しい容貌とは裏腹に切れ者として知られる美青年である。

 一番下は今年十歳になる次男、ヒーラント・アイル侯爵子息。母譲りの藍色の眼とほんわかとした性格、父譲りの鋭い眼光と茶色の眼を持つ、やんちゃな末っ子である。

 そして、そんな二人の間に育った長女が、リーリア・アイル侯爵令嬢であった。母譲りの優しい容貌と金の髪、父譲りの緑の眼とすらりとした体躯。今年で十六歳になった彼女は、社交界シーズンの始まりである昨年の十三番目の月、山羊の月に社交界デビューを果たしたばかりだというのに、すでにその美しさは誰もが知るところであり、『ダズィル王国の金の薔薇』としても有名であった。

 国内でも最高位の貴族であるカイネス侯爵家だが、次期国王とされる王子、キースリールがその屋敷を訪問することなど滅多にあるはずもなく。キースリールより三つ年下である令嬢、リーリアもいることから、屋敷の中はいつもよりも随分と慌ただしく、キースリールを迎えるための準備をしていた。

 その最中の出来事である。


「リーリア様っ!」


「大丈夫ですかっ!? お嬢様!」


 ごんっ、と見事な音を立てたのは、金色の長い髪が覆っているリーリアの後頭部と、今まさにリーリアが腰掛けていた椅子の座面の角。社交界シーズンの内にと作らせていた新たなドレスが出来上がり、屋敷に到着したため、キースリールの訪問の際に着れば丁度良いということになり、一度身に着けてみることにしたのだが。リーリアが、ドレスを着替えようと立ち上がった際に足を捻ってしまい、思い切り転んでしまったのである。

 令嬢にあるまじき間抜けな失態に、最終的に床に尻もちをついてしまったリーリアはしかし、少しだけ困ったような顔で笑って見せた。「ごめんなさい、大丈夫よ」と、周囲で心配そうに自分を見つめる侍女たちに向けて。


「少し足を捻ってしまって、頭の後ろを打ってしまっただけだから」


 ……い、痛いーっ!


 間抜けな失態を演じた上に、声を荒げるなんて淑女として許されるわけもなく。顔に出さぬまま心の中で叫びながら、ゆっくりと立ち上がろうとして。


 ……あら?


 ふらりと、世界が揺れた。


「お、お嬢様ッ!」


 近くにいた侍女が声を上げるのを聞きながら、リーリアは意識を手放した。




   ω ω ω




 ……? ここは、どこかしら。


 目を開くと、何やら不思議な光景が広がっていた。。

 馬もいないのに動く馬車や、箱に映った動く小さな人や生き物、果ては人を載せて空を飛ぶ鳥。

 おそらくは夢の中なのだろう。見たこともない、明らかに奇怪な物に囲まれていながら、しかし夢の中のリーリアは、それを普通のこととして受け入れているようだった。

 大きな建物の中の小さな部屋で、何やら輝く薄い四角の物を見つめて一日を過ごし、夜になるとまた別の大きな建物の中の、もっと小さな部屋へと帰って。よく分からない器具を使いながら自ら調理を行い、食事をして。全てが有り得ないことなのに、夢の中のリーリアには、全てが当たり前のことのようだった。

 色んな人と話、また机に向かい、部屋から部屋へと毎日動き回って。そんな夢の中で送るある日のこと。リーリアは、とある本を読んでいた。


 題名は……。『紫王子の優しい眼差し』、ね。


 ダズィル王国の共通言語であるカイレィル語の文字ではないが、何故かその文字をリーリアも読むことが出来た。そして題名と共に表紙に描かれていたのは、おそらく主人公であろう、茶色の長い髪の少女と、彼女を背後から抱きしめ、愛おしげな視線を向ける一人の青年の姿。


 あら、この方……キースリール殿下……にそっくりね。


 何度かあったことのある、淡く輝く銀の髪に、王家特有の紫の瞳を持つ第一王子。端正な容貌に良く似合う理知的な瞳が、彼にそっくりだった。

 夢の中のリーリアは、本のページを捲り始める。窓から見える外はすでに夜だというのに、部屋の中はこれもまた不思議な、天井に張り付いた丸い物によって明々と照らされていた。


 何の偶然かしら。この方、本当にキースリール・ダズィルという名前なのね。


 最初のページに書かれていた目次と、登場人物の簡易紹介。描かれた絵と共に書かれた表紙の人物の名は、不思議なことにキースリールと同姓同名だった。短く書かれた説明文にも、ダズィル王国の第一王子だと書かれている。偶然はこうも続くのだろうかと首を傾げながら、その隣の人物を見れば、しかしこちらは全く見たこともない表紙の少女で。名前は、ルル・クワイトと書かれていた。


 元々一般庶民で、クワイト伯爵家の養女となった……。クワイト伯爵も出て来るなんて。お会いしたことがあるけれど、養女なんていなかったはずだわ。


 やはり、ただの物語。偶然の一致なのだろうと、そう納得しようとした時だった。

 キースリールやルルが描かれていた、その向かい合わせのページに見えた、登場人物。リーリアはこれでもかというほど、目を瞠り、一切の動きを止めた。

 まさか、そんなことがあるはずがないと、そう思ったから。けれど。


 ……どう見ても、わたくし、だわ。


 金色の長髪と緑の瞳は、白と黒の世界の中では薄い灰色で表現されているけれど。柔らかく微笑むその姿は、鏡に映る自分そのもので。加えて、説明文に書かれていた名前もやはり、『リーリア・アイル』。カイネス侯爵家の長女だと、そう書かれていた。


 でも、おかしいわ。ここには、わたくしがキースリール殿下の婚約者だって書かれているもの。


 確かに筆頭貴族のカイネス侯爵家の令嬢であり、キースリールとは年も三つしか違わない。婚約話が度々持ち上がっているのは知っているが、この書き方ではまるで決定事項の様ではないか。

 やはりただの出来過ぎた偶然なのだと、そう思いたかった。けれど、リーリアの他にもまだもう一人、描かれた登場人物がいて。その人物もまた、リーリアは見知っていた。


 クラキオ・ツォルン公爵……。説明書きにもちゃんと書かれている。


 魔族の公爵、魔公、と。

 ダズィル王国のみならず、世界に動物や植物と同じように、当たり前に存在している者たち。それが、魔族や魔物と言われる者たちである。

 魔物は基本的に野生動物とそう大差はないのだが、野生動物よりも身体が強く、凶暴で、それぞれが特有の魔力と呼ばれる力を持っており、魔法という不思議な術を使うため、人々は彼らを恐れていた。またそんな魔物たちの中でも、特に魔力が強く、人間の姿を取ることが出来る者たちを、魔族と呼んだ。

 魔公とは、そういった魔物や魔族たちを統べる存在のことであり、公爵と呼ばれながら、人間の言うそれとはまた違う意味を持った者たちであった。

 しかし、キースリールやリーリアに加えて、クラキオのことまで書かれている本である。これは本当に、偶然の一言で済ませて良いのだろうか。


 ……丁度夢の中のわたくしも本を読むみたいだから、わたくしも一緒に読んでみましょう。


 夢の中の自分は、リーリア自身の意志ではその身体を動かすことも出来なかった。ただ映像の流れるままにそれを見る、少し頭がよく働くこと以外は、見慣れた夢と大差はないようだった。

 一ページ、一ページ、本は捲られていく。つらつらと書かれた文章を、リーリアもまた目で追っていった。プロローグから始まり、主人公、ルルが登場し、キースリールが登場し、クラキオが登場して。とうとう、リーリアの名が出て来た。


 ……待って、わたくしの予測が正しければ、この物語は……。


 今よりも少し進んだ未来から始まっている。年にして、一年後。リーリアが十七になる年の出来事である。どういうことなのだという思いと、不安に思う心を押し込めて、目の前に流れていく文章をただ読み込んでいく。

 物語は思いも寄らぬ方向へと進み、最後にはルルとキースリール、そしてリーリアが、クラキオと対峙することになって。

 うそ、と、夢の中で呟いたような気がした。


 わたくし、皆を、婚約者であるキースリール殿下を、親友となったルルを守ろうとして……。


 クラキオを封印するため、彼と、心中したのだ。

 ばくばくと、心臓が走り始める。こんなものはおかしいと、そう思った。ただの、夢の中の物語なのだと、そう信じた。信じたかった。けれど。

 あまりにも、類似点が多すぎた。


 誰かの悪戯……? でも、殿下の名前を用いるなんて、不敬にもほどがあるもの。それに、もし本当にこれが、わたくしの未来の話だとするなら……。


 一年後、自分はクラキオと、心中することになる。


 ……怖い。怖いわ。嘘よ。……有り得ないわ。有り得ないって、そう思うのに。


 そうなるような、予感がするのだ。この物語が現実になる様な、予感が。


 起きなくては……。そして、この物語が嘘にしろ、本当にしろ、こうならないために動かなくては……。


 嫌な予感がする。あまりにも、有り得そうな話だった。いつか起きるであろう、そんな話だったから。

 早く目を覚まして、何か対策を練らなければならない。何かは分からないけれど、何か。そう、気は急いているというのに。


 ……夢って、どうやって目覚めれば良いのーっ!?


 頬を叩いても抓っても、痛みが伴うことはなく。リーリアが自然と目を覚ますことが出来たのは、倒れてから三日後のこと。キースリールが屋敷を訪れた、その翌日だった。

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