第2話 愛しのキャサリーン
私はすでに多くの情報を聞知しているし、自分たちの置かれた状況が非常に絶望的なものであるということも理解している。今だに、この船が沈まない、と信じている人は少なくないが、爆音と共に巨大な氷山に衝突して、すでに一時間を経過しているのだ。小刻みに振動する足元のまだ下に、地獄の奈落がその口を広げているのは確実だろう。
デッキに立つと、すでに、三等乗客らが絶対数の足りない救命ボートを取り合う阿鼻叫喚の中である。私に、その生への執着を醜いと評価できる勇気はないが、少なくともその群れの中に加わるのはうんざりだと思う。
ともあれ私は、騒然とするデッキを下り、一等客室に戻ることにした。そこには、豪華なディナーを堪能し、ダンスやゲームに興じた余韻を残したまま、悠然とくだらない世間話を続けている人たちがいる。特権階級の人々である。さすがに焦りを隠せない乗務員や客室係が、救命具のつけ方を教え始めたが、彼らはそれを鬱陶しそうにして撥ねつけていた。
「何があったの?」
振り向くと、妻が立っている。
不安に駆られて、部屋着のままで通路に出てきたらしい。私はあらためて妻を見つめ、その名を呼んだ。
「キャサリーン」
彼女は首を傾げた。
お互いにすでに熟年である。しかし、彼女のこの無垢なしぐさ、美しさはどうだろう。
「……ん、どうした、聞こえないのか?」
「ええ、ごめんなさい。耳が聞こえなくなってしまうなんて、もうわたしもおばあちゃんね。先ほど船底の方ですごい爆音がしたの。かなり近くだったわ。そのおかげで少しだけ難聴になっているのでしょう」
「いや、大丈夫。すぐ聞こえるようになるよ」
私は少し笑って見せたが、あわてて弛んだ唇を引き締めた。
「君に伝えなければならないことがあるんだ。実は……」
私の言葉を淡々と受け入れるキャサリーンの眉間には、暗い陰ができている。それを見ながら私は、身の軋むような痛々しさを感じた。ひとりの女性を守りきれない自分の弱さを呪った。
しかし、もはや時間はないのである。私たちは運命を受け入れなければならない。
人生の最期を、この最愛の人と終えられることを神に感謝すべきだ。私は心からそう思った。
キャサリーンと共にふたりの部屋に戻ると、私は簡単にシャワーを使い、身だしなみをつくろった。それから、彼女の体をかき抱くようにして、静かにベッドに横たわった。外の喧騒はまったく届かない。ふたりは別世界のような静寂の中にいた。
「これまで本当に世話になった。私の人生は君のおかげで喜びに満ちていた」
「長い時間でした」
「そう、長い半生、多くの出来事をふたりで乗り越えてきたね。子供たちはすでに三人とも成人し、それぞれの道を歩んでいる。もう私たちが彼らに言い残すことはない」
見つめ返す黒き瞳の美しさ。私はその魅力にくらくらしながら、キャサリーンの額にキスをした。
それからふたりは、片手をしっかりと繋ぎあって仰向けになり、天井を見つめた。そうして長い間、笑ったり涙ぐんだりしながら、過ぎし思い出を語り合った。
最後に、さあ、もう眠ろう、と私は穏やかに呟いて目を瞑った。豊かな人生の平穏な終りが、私たちにゆっくりと迫ってきた。
ふと、キャサリーンが繋いだ手に力を込めたのがわかった。
「この船ほんとうに沈むの?」
「ああ……見てごらん、だんだん部屋が傾いてきた」
キャサリーンが震え怯えているのが、繋いだ掌から直に伝わってきた。
点滅する照明の中で、海水が床を伝って忍び寄ってくるのが見えた。最初は細波のように静かだった。しかし、揺れが強くなるにつれて、水しぶきが、激しくベッドの足元を洗うようになった。
「ごめんなさい、最後のお願い聞いてもらえるかしら」
「何でも」
「ベッドの場所、替わってくださる?」
「いいよ」
その間にも海水の高さが増してきている。船の傾斜もひどくなってきた。ふたりは相変わらず手を繋いでベッドに横たわっていたが、ちょっとでも気を抜くと渦を巻く水面にずり落ちそうになった。
「眠れないのかい?」
「無理だわ。こんな格好じゃ」
「眠った方がいい、苦しまずに死ねる」
ついにベッドの足が水面に没した。
その時、私はシートからはみ出した片腕に激痛を感じて跳ね起きた。海水の恐るべき冷たさに、腕の感覚が完全に麻痺していた。
「き、君、もう少しそっちへ寄って貰えないか。このままじゃ、すぐ海水に浸かってしまう」
「そんなに冷たいの?」
「場所を替わって、君自身で確かめてみたまえ」
「いやよ、冷たい水に手を浸けるなんて、下女のやることだわ」
キャサリーンは、炊事も洗濯もしないで一生を終えることのできる階級に生まれた女性である。冷たい水をとても嫌った。
「あ」
と、突然、私は懐疑心の虜になった。
「だから、ベッド替わってくれってこと?」
「何くだらないことをいっているんですか。私のこと愛してないの」
「もちろん愛してるよ。だからもう少しそっちに詰めてくれないかな」
「ちょっとだけですよ」
キャサリーンは身を捩るようにして空間を空けた。が、いくら寄っても冷水は私を追いかけてくる。
「もうひとつだけ質問いいかしら」
「何だい、こんな時に」
「どうしてわたしたち逃げないんですか?」
それは、男としてどう生きてきたか、つまりは、人生の終わり方に関する重大な問題だった。その美学は、きっと女性には理解できないだろう。そう思うと、私は彼女の質問に至極ありふれた回答しか思い浮かばないことに気づいた。
「逃げられないんだよ。この船の救命ボートは総員の三分の一しか乗せられないし、人々は溢れかえって取り合いをしている」
しかし、キャサリーンは納得していないようだった。
「あなたっていつもそうなのね」
「どういうことだ」
彼女はそのまま口をつぐんだ。その沈黙……男は常に女の沈黙に恐怖する。
もしや、男としてどうなのか、と問うているのかもしれない。ふと、自信が揺らいだ。
そのとき突然、傾きに耐え切れなくなった私の体がずり落ちた。下半身が冷水に浸かり、思わず悲鳴をあげた。
慌てて這い上がりキャサリーンを押し上げたが、同時に、ささやかな抵抗を感じた。ふと気づいたときは握り締めていた彼女の掌も離れてしまっている。
まさか……?
胸中が疑心暗鬼にざわめいた。
「ね、ねえ君」と、私は歯の根を震わせながらキャサリーンを仰ぎ見た。
「愛してる?」
「愛しているわ、でも……」
「でもって、何だ?」
再び、キャサリーンが沈黙した。
「何かいってくれ。冷たくて死にそうだ」
「だって、あなた死ぬつもりなんでしょう?」
「仕方ないだろう。この船は沈む運命なんだから」
「でも、救命ボートに乗っている人は、確実に助かるわよね。なんでわたしはそのボートに乗れないの? それって、あなたがひとりで決めたこと?」
「男としてどう終わるか、それはすべて、私が判断したことだ」
――と答えるしか、言葉が浮かばなかった。
「それ変でしょう。だって、こんな時はわたしたちのような上の階級から先にボートに乗れるはずじゃないの? お金なら誰よりもずっとたくさん払っているんですよ」
「―ううん、確かにそうかも……」
「交渉しなさい!」
キャサリーンは毅然として言い放った。有無をいわさぬ口調だった。
私はうろたえる他なかった。
「ボートのところまでどうやって行くんだ?」
「あなたがここから降りれば、わたしを乗せたベッドは自然に海水に浮くわ。あなたはベッドのままわたしを水のないところに引っ張って行くのよ」
「だからどうやって?」
「泳いでにきまっているじゃない」
「そりゃないよ、キャサリーン。この海水は氷のように冷たいんだ。しかも私は、昨日から風邪気味なんだぞ」
「だって、もともと死ぬつもりだったんでしょ? 風邪がもっと悪くなるぐらい、いいじゃないですか」
キャサリーンは冷たく答えた。
「それにレディを守るのが紳士。そうでしょう?」
「本当に愛してる?」
「しつこいわね!」
海水は冷たかったが、愛する妻を助けるという使命感が、私の凍えた体を突き動かした。しかしベッドを引っ張ったまま逃げ切れるはずがない。狭い出口でベッドを捨て、嫌がるキャサリーンを肩車した。
白く美しい足が海面に触れるたび、キャサリーンは悲鳴をあげた。悲鳴をあげたいのはこっちの方だと思ったが、歯を食いしばって耐えた。水の冷たさが、なぜか生きていることを実感させた。
愛する妻を守りきれないで、本当の紳士といえるだろうか。その答えを見つける方が早いか、凍え死ぬ方が早いか、その間も私は自問し続けた。
まさに奇跡の脱出が成功し、デッキの上に立つことができたとき、私はしばらく呆然とした。そこは理性を失った群集でごった返していた。生へのたったひとつの望みである救命ボートに乗り込むため、我先に争う地獄絵図が展開されていたのである。
「これを使いなさい」
キャサリーンが客室から持ってきたものが三つある。金と宝石、そして護身用の拳銃だった。キャサリーンはその拳銃を私に手渡し、宝石を身に纏って叫んだ。
「生きてアメリカに行き、娘の結婚式で新調したドレスの袖に腕を通すまでは、絶対死ねないわ。この宝石は、そのときにこそ永遠の光を放って輝くのよ」
緊急救難信号が打ち上げられ、暗黒の海面を照らした。それを合図に私は、天に向けて銃を撃った。誰も振り返らない、誰もが生きることだけに必死だった。
「二三人撃ってもばれないな」
「ばれないわよ、ボートの席をとるのよ。あなたにはお金も力もあるわ」
「私には金も力もある。そして君の愛も……だが、私は紳士だぞ。晩節を汚したくない」
「私を失っても?」
「馬鹿な、そんなこと考えられないよ。ええい、こうなったら私はやるぞ。やったるで!」
あの阿鼻狂乱の中をどうやって突き進んでいったのかわからないが、気づいたときには、私は最後のボートの前で、そこに乗っていたひとりの男を撃ち落していた。
「このレディを乗せるんだ。死にたくないのなら」
ざわめく乗客を押しのけながらキャサリーンがボートに乗り移るのを確認すると、私は、一番手前に乗っていた薄汚れた男の頭に銃口を当てた。次は自分の席の確保だ。急がなければ、殺到する人間でボートが海面に降ろされる前にひっくり返ってしまうことだろう。
「三等客室の者は降りるんだ。さもないと撃つぞ」
「あんたそれでも紳士か。どうせ死ぬんだ、撃てるものなら撃ってみろ」
実は銃弾は底を尽いていた。私は拳銃を海へ捨て、仕方なく内ポケットから札束を抜いた。
私はそれで男の頬をはしっと叩いた。
「なら、金をやる。私の席を開けろ」
「ここではもう金は役に立たないよ」
「ではこれを喰らえ!」
思いっきり突き出したパンチが空をきり、私はよたよたとつんのめった。
男はニヤリと笑った。
「あんたのようなヘナチョコで喧嘩ができるかい」
なるほど、これで万策は尽きた。私はすべてを諦めなければならなかった。
「私は船に残る。男として君を守りきったことを、誇りに思うよ」
私はボートと一緒に海面に降りていく妻に声をかけた。最後に垣間見えたキャサリーンの笑顔は天使のようだった。涙が止めどもなく流れた。
「あなた、最高のプレゼントをありがとう、自由と開放の喜びをありがとう、そしてさようなら」
「キャサリーン!」
「あなたのことは、覚えているまで、けっして忘れないわ」
私はボートに向かってさらに叫んだ。
「キャサリーン、愛しているよ」
が、妻は答えない。
「最後に愛しているといってくれ!」
それだけでいい、それで私は笑って死ねるはずだった。
暗い海上の様子はもはや私の立っているデッキからはまったく見えなかった。ただ、海面に下ろされたボートが浮かぶ音に続いて、キャサリーンの小さな声がやっと私の耳に届いてきた。
「ごめんなさいね」
と彼女の声はとても申し訳なさそうにいった。
「さっきから難聴のせいで、何いってるのか、よく聞こえないのよ」
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