二人の歯科検診(2)

 ――それから数日後。


 あらかじめ、今日を選んで検診の予約をしておいた俺は、定時前に早退させてもらう事にした。


 本当は定時上がりからの来院を希望していたのだが、歯科医院とのすり合わせの結果、検診なら予約は五時にしてくれと頼まれたのである。


 そして、現在の時刻は午後四時。


 上司には事前に相談を済ませ、了承を得ていたので、後は帰ることを伝えるだけだ。


 しかし、いかに理由があっての早退とはいえ、定時前に退社するのを堂々と宣言するのは、さすがに引け目を感じるなぁ。


 さらに、これから報告を行う上司は俺が所属する営業第一課の長、鬼のシゴキでその名を轟かせている権藤ごんどう課長だ。


 いざとなったら何を言われるか分からない。


 状況によっては翻意ほんいされるおそれがあるだけに、否が応にも緊張が高まるのである。


 くれぐれも、言葉選びだけは間違ってはいけない。


「課長。お忙しいところ失礼します。少々よろしいでしょうか」


柚月ゆづきか。いいよ」


 課長は机に向かったまま、黙々と書類にハンコをついている。


 この人は顔を見なくても、どの部下が話しかけてきたのかは、声だけで判別できる能力を持っているのだった。


「先日ご相談させていただいた、うちの子の歯科検診の件なんですが――」


「今日だったっけ?」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓にピリッと電気が走った。


 今の返事には二つの意味があって、そのどちらのつもりで言ったのかが分からないのだ。


 まず一つは、課長はミオの検診が今日だという事を覚えていたから、念のための確認として聞き返した。


 これならばまぁいい。


 だが、もう一つは最悪のケースだ。


 今日が検診の日だという事を、という意味で発言した場合、次にはこういう言葉が並ぶかも知れない。


「今日だったとは聞いてないぞ」


「そんなに急に『帰る』とか言い出して、OKが出ると思ってるのか?」


「お前、周りを見てみろ。早退したいと思っている奴なんて一人もいないぞ」


 など。


 つまり、事前に書面で提出した早退届けを一方的に反故ほごにされるパターンだ。


 そんな適当な人間に課長が務まるとは到底思えないが、俺はまだこの人の全てを知っているわけではない。


 だからこそ、今の言葉に対して、すぐには答えられなかったのである。


 しばしの沈黙の後。俺はゴクリと唾を飲み込み、絞り出すように返事をした。


「はい、今日です。五時に予約を取りました」


「分かった。行ってやりな」


 とだけ言うと、課長は処理が終わった書類の山をかき集め、机でトンと叩いて揃えた。


 相変わらず、その視線は机の方を向いたままである。


 よかった、さっきの言葉の真意は前者寄りだったようだ。


「ありがとうございます! それでは、お先に失礼します」


「おう。あと柚月、分かってるとは思うけど」


「はっ」


「埋め合わせは、後日ちゃんとしとけよ」


「……承知しました」


 しっかりと釘を刺されてしまったが、それ以上何もお小言をもらわなかったのは、きっと、俺に信頼を寄せていてくれるからだろう。


 と、ポジティブな方へ解釈する事にした。


 ほんの少しの時間と会話だったけど、ものすごく精神をすり減らされた感じがする。


 さすがは鬼の権藤課長、威圧感が半端ではない。


 俺は極度の緊張による額の汗を拭い、会社を後にした。

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