退社、そして……

 ――ひたすら電卓を叩き、ペンを走らせることおよそ三時間。ようやく、明日提出する予定だった書類の整理を終えた。


 時刻はもう、夕方の六時を大きく回っている。


 休み明けの月曜日で気だるいからか、今日は残業する社員も少ないようだ。


 役職者や事務員は毎度のごとく定時退社。


 まだ陽も残っているこの時間帯、社内に残っていたのは俺のほか、同僚がほんの数人だけだった。


 今日やるべき仕事は全部やってしまったし、何よりミオの事が気になるから、俺ももう帰るとしよう。


「お、柚月。もう帰るんか?」


 帰り支度をしている俺を見て、同僚の佐藤が声をかけてきた。


 佐藤と俺は同期なのだが、関西から上京してきた佐藤は、入社して五年が経った今でもまだ、地元の関西弁となまりが抜けない。


「ああ、今日はちょっと用事があってさ」


「なんや用事って。おネエちゃんとでも飲みに行くんやったらオレも誘ってぇや」


「まさか。俺に女っ気がないのはお前もよく知ってるだろ。今日は家の用事なの」


「用事? もしかしてお前が引き取った子供の世話か?」


「まぁ、そんなとこだよ」


「男やもめで里親とかようやるなぁ。はよ嫁はん貰いーな」


「うーん、いい人がいたら俺も結婚したかったんだけどな……」


「ほな、今度合コンでもやるか? オレがセッティングしたるで」


 と、佐藤が食い気味で話を持ちかけてきた。


「えっ? い、いや、それはやめとく」


「はー、お前は相変わらずビビリやのう」


 俺の気のない返事を受けて、佐藤はあきれ顔でため息をつく。


「なぁ柚月、お前一回や二回フラれたからって落ち込みすぎやねんて。合コンなんて数こなしてナンボのもんなんやで、気にせんと次々行かな」


「そうかも知れないけど……今はちょっとそういう気分になれないんだ」


「何でや?」


「だって、子供に留守番させて自分は合コンとかさぁ、それって里親としてどうなのよ」


「うっ、確かにそれはそうかも知れんけども」


「それに、まだあの子を受け入れて日が浅いんだから、今はそういう事は考えられないよ」


「うーん……でもなぁ」


 佐藤はまだ食い下がろうとしているようだ。これ以上話が長くなったら、さらに帰りが遅くなる。


 女に縁のない俺の事を気にかけてくれている佐藤には悪いが、今日ばかりは退散させてもらおう。


「まぁ、また落ち着いた時にいい話があったら聞かせてくれよ」


「ん、分かった。ほなな」


「ありがとな佐藤。それじゃお先に」


 俺は佐藤に別れを告げ、会社を後にした。


 ミオはもう、家に帰ってきているだろうか?


 渡しておいた家の合鍵を失くしていなければいいけど。


 いろいろ考え事をしながら電車に揺られ、帰路についた俺は、自宅から最寄りの駅で電車を降り、改札を抜ける。


 そして階段を下り、駅を出ると、そこには俺の帰りを待つミオの姿があった。


「ミオ!」


「あっ、お帰りなさい。お兄ちゃん!」


 ミオは俺を見つけると、ぱたぱたと駆け寄って抱きついてきた。


「ただいま。よくここが分かったね」


「あのね。学校の先生が、お家から一番近い駅はここだよって教えてくれたんだよ」


「そっか……じゃあ、ここでずっと待っててくれたんだ?」


「うん。早くお兄ちゃんに会いたくて、学校から帰ったあと、お家を飛び出してきちゃった」


 駅に設置されている壁掛け時計に目をやると、もう午後七時を過ぎていた。


 外はもう真っ暗だ。


 いくら仕事がたまっていたとはいえ、結果的に俺はこんな時間になるまで、ミオのような小さな子を一人で待たせてしまっていたのだ。


 そう考えると俺は、ミオに対してすごく申し訳ない気持ちになった。


「遅くなっちゃってごめんな、ミオ」


「んーん、いいの。お仕事が大変だったんでしょ?」


「は……ははは。まあそんなとこかな」


 ミオの事を心配するあまり、大量の書類をまとめる作業がなかなか手につかず、結果として帰りが遅くなってしまったとは、口が裂けても言えなかった。


「それじゃあ、晩ご飯の買い物してからお家に帰ろっか」


「うん!」


 ミオはにっこり微笑みながら返事をする。


 俺たちは朝出かけた時のように手を繋ぎ、今日の晩ご飯を確保するべく、古ぼけたネオンが輝く商店街の方へと歩いていった。


 今日は、ミオが初めて学校に通った事をお祝いしよう。


 さすがにケーキは大げさかも知れないから、せめておかずくらいは、いつもより奮発してあげようと思ったのだった。

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