妹の遊び方

森 真尋

泣きたくなるような夏のある日


「えーんえんえんえん、えーんえんえんえん……」


家中に響き渡る妹の泣き声が、僕を夢からうつつへといざなった。



 悪い夢を見ていた気がする。曖昧ながら覚えているものの、思い出そうとすると忘れてしまい、それが悪いものだったかどうかさえ判らなくなってきた。教授の手伝いが終わらないとか、論文の考察で堂々巡りに陥るとか、多分、見ていたのはそういう類の夢。その程度の悪夢だろう。


 酷く寝汗を掻いたらしい。濡れたパジャマの肌に貼り付いているのが不快だ。暑さとの相乗効果か、その不快感は限界を突破したようだ。もはや気持ち良いとさえ感じる、冗談だが。

 それはそうと、早く汗を流そう。その前に尿を流そうか。全て水に流したいところだが、先に顔を洗いたい、そして歯も磨きたい。しかし、まずはシャワーを浴びたい。トイレに行った後でそうしよう、洗顔と歯磨きを後回しにはしたくないが。さて、寝室を出る前に着替えるとするか。そうすると、やはり最初に汗を流さなければならないな。

 どうしたのだろう、堂々巡りだ。まだ寝惚けているのだろうか、頭が働かない。頭が痛い。妹の泣き声が煩い。吐き気がする。暑い、体が熱い。

「……ヤバい」

熱中症かもしれない。


 水分補給をするにあたり、再び堂々巡りがあった。

 脱水症状が起きているから水分補給を必要としているが、水を飲む前に歯を磨きたいという思考が生まれ、ついでに顔を洗いたくなり、しかし尿意を催していたため、先にトイレへ行こうと思ったのだが、それでは水分が失われて重症化しそうだ、とにかく水を飲みに寝室を出るために着替えるために汗を流すために、風呂場へ行けば隣の洗面所で顔を洗えるついでに歯も磨ける、どうせ水を飲む前にそれは必要な手順だ、しかし洗面所に向かう途中でトイレの横を通るなら先に用を足したい、それなら先に水分補給か。

 動くことは疎か考えることさえ辛く、もうこれ以上はできそうになかった。二度寝をしてでも体力を回復したいところだった。しかし、また汗を掻いてしまうことだろう。

 繰り返される思考回路をどうにか断ち切り、寝室を出ると最優先で居間へ向かった。



「えーんえんえんえん、えーんえんえんえん……」


 冷房が効いていて涼しいため、熱中症になった身としては居間で休みたいが、そこには大声で泣く妹の姿があった。

「ああ、煩い」

叱ることも宥めることもできそうにない。妹に喝を入れるために僕に活を入れてほしい。

 妹を放置し、僕は台所で水を飲んだ。ついでとばかりに目に付いた塩飴を口に入れ、居間に戻る。しばらくここで寝転がっていれば症状は治まるだろうか。

 それにしても、妹が煩い。その泣き声のおかげで目を覚まし、手遅れになる前に熱中症に対処できたのだから、文句ばかりも言えないが。二度寝などしていれば、二度と目を覚まさなかったかもしれない。妹が泣いていなければ、僕はもうその泣き声を聞けなかっただろう。

 それでも、やはり妹が煩い。熱中症との相乗効果か、頭痛による不快感が限界を突破したようだ。もはや、気持ち良ささえ感じるなどと冗談も言えない。どういうわけか、泣き声がいくつも重なって聞こえるのだ。下手な混声合唱みたいな不協和音が頭に響く。

 よく聞いてみれば、妹の声はどこかわざとらしい。泣き真似ではないだろうか。よく見てみれば、妹は壁に貼り付いて顔を隠している。泣いているのではなく、その振りではないのだろうか。

 よく考えてみると、僕が目を覚ましたのは悪夢を見たせいではないだろうか。悪夢を見たのは、きっと、熱中症になったからだ。

 そうなると、妹の泣き声はただ煩いだけだ。泣き真似などをして、一体全体どういうつもりなのだろう。僕は熱中症で辛く、苦しい。頭が痛い、吐き気がする。だから、早く黙ってくれ。


 症状が治まった後、僕は寝起きのルーティンを始めた。堂々巡りにはならなかったが、効率を無視して思いついた順番に済ませる。僕が居間から離れている間も、妹は鳴き真似を続けていた。洗面所でも風呂場でもトイレでも、嘘の泣き声はずっと聞こえてきたが、外から聞こえてくる蝉の鳴き声も煩かった。相殺でもしたのか、あるいは慣れたのか、妹の声はやがて気にならなくなっていった。

 頭が働くようになって思い至ったが、先程の下手な混声合唱は、妹の泣き声と蝉の鳴き声が重なったものらしい。それから、慣れてしまったとはいえ、泣き声は鳴き声とは違った煩さがあるはずだ。煩わしいともいうそれだ。これでは近所迷惑だと、遅まきながら理解した兄である。早く泣き止ませなければならない。

 もっとも、妹は泣いているのではなく、その振りをしているだけのようだが。



 宥めるための元気は出なかっただろうが、叱るくらいの余裕ならあった。僕は妹の背に声を掛ける。

「今すぐ泣き止め、喧しい」

「えーんえんえんえん、えーんえんえんえん……」

「……その下手な泣き真似を止めろ」

「えーんえんえんえん、えーんえんえんえん……」

「何がしたいんだ、構ってほしいならそう言え」

「……」

壁に顔を押し付けて泣く振りをしていた妹は、その肩に僕の手が置かれると、ようやく黙って振り返った。

「あのなあ、そんなに大きな声を出したら煩いだろ。近所迷惑だ」

「えーん、えんえん、えん……」

「止めたんじゃないのか」

「……おわった、いましがた」

どうやら、ただ泣き真似をしていたというわけではないらしい。どういう遊びだったのだろうか。

の、なきまね」

「……何だ、それ」

「えーんえんえんえん、てなく

そうすると、泣き真似ではなく鳴き真似だったということか。先程の混声合唱も比喩ではなかった。しかし、エンエンゼミという蝉は実在するのだろうか、僕は知らない。その名はもちろん、その鳴き声さえ聞いたことがない。ミンミンゼミならば知っているが、まさか、どこかの地方でそう呼ばれているというわけでもあるまい。

「つかまえられたから、しんだ」

妹はそう続け、肩に置かれた僕の手を指した。泣き真似を止めた理由らしい。僕は虫捕り少年なのか、それも、捕らえた蝉をすぐに死なせてしまうような。

「まったく、僕は頭が痛かったんだぞ。さっき、そこで倒れていただろ」

「……みてない」

「危なかったんだ。熱中症といってな……」

「ねっちゅーしょー……」

蝉ではなく、僕が死にそうだったとは言わないでおく。

「じゃあ、つぎはにぃはきのやくね」

「は?」

木の役といったのか、妹は。そして、まだその遊びを続けるつもりなのか。それほど楽しいとは思えないのだが。それより、僕をその遊びに付き合わせるばかりか、木の役まで押し付けようという。

「嫌だ」

「でも、にぃが……」

鳴き真似でも泣き真似でもなく、本当に泣きそうになる妹。遊びに付き合うだけの元気も出ない僕だが、宥める余裕こそ生まれない。溜息を一つ。

「わかった、わかったから」

「わーい」

僕の吐き出した気力を妹が吸っているようだ。妹が元気になるほど、僕は疲れる。この後もそうなるのだろう。木の役というのだから、僕は蝉の役であろう妹に貼り付かれ、鳴き真似を聞かされるに違いない。夏に相応しい遊びなのだろうが、暑い夏には向かない遊びだ。とりあえず、近所迷惑にならない程度に、僕が煩いと思わない程度に、鳴き声は小さく抑えてもらおう。


 気分転換も兼ね、妹にも水分と塩分を摂取させたが、遊びを変えようとは思わないらしい。僕は壁際に押し遣られる。

「何をすればいいんだ」

「にぃ、せみはきのじゅえきをすう」

「……そうだな」

「だから、うちもにぃのじゅえきをすう」

気力だけでは飽き足らず、僕の樹液までも吸い上げるつもりか、妹は。

「いや、僕は樹液とか出さないし。何だよ、それ」

「でも、にぃがいった。ねっちゅーしょー、ていった」

「……」

どうやら、妹は愉快な勘違いをしていたらしい。僕の言った「熱中症」が「ね、チューしよう」に聞こえたということだ。つまり、接吻でもって蝉の食事を表現したいのだろう。

「嫌だ」

「にぃ、はやくしゃがんで」

既に、僕には気力も活力も残っていない。妹に手を引かれ、壁を背に座り込んでしまった。

「幼い妹に壁ドンされる兄とは……」

「にぃ、きはしゃべらない」

僕を黙らせるついでに、事を済ませようというのか。考えるだけで不快だ。煩い泣き声より不快だ。熱中症より、不快だ。妹との接吻など、不快でしかないのだ。



「えーんえんえんえん……」


それは妹の発した鳴き声か、それとも僕の——。

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