No.25 迷いの森の話

 赤褐色のトヨタ・パッソの外に出た途端、三十五度を超える外気と太陽から放たれる熱線が、私の肌を音を立てずに焼いた。一瞬で額や首筋から汗が吹き出すのを感じる。私は、開いた掌を額にあてて影を作りながら、空を見上げた。青色の上を漂う白い雲は、風邪をひいて学校を休んだ子供のように弱々しく、太陽光を遮るにはあまりに無力に見えた。

 私は、うんざりした気持ちになりながら冷房の効いたコンビニエンスストアに飛び込み、トイレを借りてから、サンドイッチと野菜ジュース、ペットボトル入りのミネラルウォーターを買った。コンビニを出る前に、スマートフォンを覗くと、兄からLINEメッセージが届いていた。

「いつ着く?」

 私は、駐車場に停めたパッソの車内に戻り、エンジンと冷房をかけてから、兄にメッセージを送り返した。

「あと少しで迷いの森に入るところ」

 三十秒ほどで兄からメッセージが届く。

「了解」

 私は車の中でサンドイッチと野菜ジュースで簡単な昼食をとりながら、スマホをいじった。猛暑のために動物園のライオンがぐったりしているというニュースを読んだあと、Twitterを立ち上げてタイムラインを眺めた。平日の昼間ということもあり、友人たちのつぶやきはほとんど見当たらなかった。

 サンドイッチを胃のなかに入れた後、私はパッソを発進させた。六年前に買った愛車はノロノロとコンビニの駐車場を出て、国道を走った。対向車の姿は全く見えず、バックミラーにも車は映っていない。

 時速五十キロで山道を十五分ほどドライブした。坂道を上下し、長いトンネルを抜けると、目的地である迷いの森が目の前に現れた。

 迷いの森の入り口手前には駐車場があり、すでに数台の車が停まっていた。その中に見覚えのあるスバル・インプレッサを見つけた。兄の車だった。兄の車のすぐ近くには、パトカーが一台駐車されていた。私は、兄の車やパトカーから離れた位置に車を停めた。

 コンビニで買ったミネラルウォーターを片手に持ち、大学時代に買ったニューヨークヤンキースのマークがついた野球帽をかぶってから、私は愛車を降りた。森の奥から、蝉の声と獣のうめき声が聞こえた。トランクから、数日分の着替えや喪服の入ったキャリーケースを取り出し、ポケットの中にスマートフォンや財布が入っていることを確かめてから、車に鍵をかける。

 キャリーバッグを転がして、私は迷いの森へ足を踏み入れた。タイヤが石につまづき、キャリーバッグが小さく跳ねた。

 手に伝わってくる振動が、気持ち悪かった。


 今朝、父がこの世を去った。

 正しくは昨日の夜かもしれないが、母が父の死に気づいたのは今日の朝だった。

 母から届いたLINEによれば、父は昨夜の風呂上がりに体調不良を訴えて床につき、そのまま二度と目を開かなかったらしい。1ヶ月ほど前に七十歳の誕生日を迎えたばかりだった。ヘビースモーカーで、以前から肺や心臓に不調を抱えていたが、それでも急死と言って良いだろう。

 スマートフォンに残った記録によれば、母は午前五時になる少し前に私に電話をかけたようであるが、深い眠りの世界にいた私はそれに気づかなかった。LINEに届いたメッセージに気づいたのは、七時に起床し、呑気に朝食を食べ終えた後だった。

 私はしばらく呆然としたあと、スマートフォンのスケジュールアプリを確認して、しばらく頭を抱えた。そして、上司に連絡して休暇を申請した。歯を磨き、顔を洗い、髭を剃り、「まあなんとかなるだろう」と声に出して言った。

 そうして、私は急いで身支度をして、キャリーバッグに荷物を詰め込むと、パッソに乗り込み、実家に向かったのだった。

 私が生まれた家は、迷いの森の中にある。


 北、西、南、西、東、西、北、南、東、南。

 それが迷いの森の一番奥に行くための道順だった。これ以外の順番で道を進んだ場合、冒険者は迷いの森の入口まで戻されてしまう。例えば旅人が北、東、南と進んでも、北、西、北と進んでも、どちらの場合でも旅人は同じように入口に戻ってくる。

 迷いの森は日本国内に合計で七箇所存在していて、今私が歩いている「迷いの森さいたま」以外の迷いの森も、概ね同じような性質を持っていた。

 呪力を含んだ雨や土によって育った樹木が鬱蒼としげり、また一年中霧に包まれる迷いの森は、夏場でも比較的涼しい。生息する魔物は弱く、この迷いの森さいたまに生息する魔物も、強力なものでもせいぜい邪悪な番犬や、ストーン・マッシュルーム、フラワー・スライムあたりで、訓練を受けた戦士であれば、危険は少なかった。

 迷いの森さいたまは、都心から日帰りで行ける距離ということもあり、駆け出しの冒険者が挑戦したり、ダンジョン潜入に興味を持った大学生や社会人がレジャーシーズンに訪れる土地であった。

 迷いの森の一番奥には、直径三メートルほどの球形の巨石があった。ここを訪れる冒険者たちの目的は、たいていの場合その石の付近にあった。巨大な石の上には聖剣と呼ばれる一振りの片手剣が突き刺さっていたし、足元には万能薬の素になる薬草が生えていた。石のすぐそばには虹色の聖水の材料となる湧き水の水源があり、反対側には女神像が立っていて、冒険者に加護を与えてくれた。何でも知っている物知り博士も、風をつかさどるエメラルド・ドラゴンも、邪悪な人食い狼も、皆巨石の近くを住処にしていた。


 私の実家は、迷いの森の入口と、巨石のある場所のちょうど真ん中、東方向へ初めて進んだあたりに位置している。

 家の隣には、鉄筋コンクリート造りの建造物が建っていて、宿屋と道具屋、それから小さな食堂を兼ねた施設だった。私の父は、その施設のオーナーであった。

 施設の評判は、正直なところあまり良くなかった。じゃらんや楽天トラベル、あるいは食べログなどに、様々な悪評が書きこまれている。料理がまずいとか、部屋が古くて狭いとか、薬草が割高だとか、コインランドリーに前の客の洗濯物がずっと残っているとか、迷いの森の中にコンクリート製の建物は風情がないとか、セーブポイントを導入していないのはいくらなんでもありえないとか、そういう悪評だった。レビューサイトに書いてあることの大半は事実だったし、訂正を求める気もなかったが、それでも私は見るたびに不愉快な気分になった。


 湿った土にキャリーバッグの車輪の跡を残しながら、私は子どもの頃のことを思い出した。

 夏休み、迷いの森の一番奥深くに生息する黄金のクワガタムシを観察するため、父と一緒に夜の森を歩いた記憶がある。あれは小学三年生の頃だったか。四年生の頃だったか。あの頃、自分が父をどのように思っていたのか、私は思い出そうとした。慕っていただろうか、それとも恐れていただろうか。少なくとも、大人になってからのように積極的に嫌ってはいなかったかと思うが、かといって好いてもいなかったはずだ。うまく思い出すことができなかった。ただ、父と一緒に見た黄金のクワガタムシの巨大さと美しさばかりが脳裏に焼き付いていた。


 北、西、南、西、東。

 私は、子供の頃から何度も歩いてきた道順で、迷いの森を進み、実家にたどり着いた。もしかしたら迷ってしまうかもしれないと不安に感じていたが、杞憂だった。

 実家の隣の宿屋の入り口には、「諸事情によりしばらく閉業します。お客様には大変ご迷惑をおかけいたします」とMSゴシックで書かれたコピー用紙が、セロテープで貼ってあった。

「まだ警察が来ていないんだ」

 玄関で私を出迎えた兄は言った。

「まだ警察が来ていないの?」

 私が泥ですっかり汚れてしまった靴を脱ぎながら、おうむ返しに尋ねると、兄はうなずいて、「まだ警察が来ていないんだ」と繰り返した。そして、「葬儀屋も来ていない」と付け足した。

「葬儀屋も?」

 私は再びおうむ返しに尋ねた。バカみたいなやり取りだ、と私は思った。

「電話はしたんだよね」

「もちろん」兄は頷いた。

「母さんが、早朝に電話したって言ってたけど、全然到着する気配がないから、何度か俺も電話をかけなおしてみたよ。だけど、すでに出発しているから、もう少し待ってください以外の返事は返ってこなかった」

「じゃあ、とっくに来てなきゃおかしいな」

「一応、事件性があるか見てもらわなきゃいけないし、死亡診断書も出してもらわなきゃいけないのに……」

「そういえば、迷いの森の前の駐車場にパトカーが停まっているのを見たよ」私は少し前に見た光景を思い出しながら言った。

「じゃあ、迷いの森で迷ってしまっているんだろう」と兄は言った。「警察が迷いの森で迷うなんて、困ったもんだ。大丈夫なのかね」私はその言葉に反応しなかった。代わりに「母さんは?」と尋ねた。

「奥の部屋で寝ているよ」

 と兄は言った。「朝からあちこちに電話して、バイトの子に店閉めるための指示出して、疲れたんだろう」

 私達はそれからリビングに行って、コーヒーを飲みながら、警察を待った。だが、家のインターホンが鳴ることはなかった。兄が警察と葬儀屋に電話をかけたが、「もう少しで到着するから待ってほしい」という旨の返答があるばかりだった。

「探してこようか?」と私は言った。

「いいよ。そんなことしなくて。探して見つかる保証もないし、警察も葬儀屋もプロなんだから」

「そうかもしれないけど……」

 冷たいな、と思ったが、いちいちそれを指摘する気にはならなかった。

「それよりさ」

 と兄は言った。「お前、父さんの店を継ぐ気があるか?」

 私は兄の顔を見た。兄は品定めするような目で私を見ていた。

「まだ何も考えていないよ」

 と私は言った。嘘だった。本当は自分の中では考えは決まっていた。

 私は「兄さんはどうなんだよ」と問い返した。

「継ぐ気はないな」

 兄は即答した。

「仕事も順調だし、子供も今の街に慣れているのに、わざわざ迷いの森なんかに戻るつもりはないよ。お前には……」

 兄はしかし、「お前には」の続きを言わなかった。インターホンの音が、私たちの会話を遮った。

「ようやくか」

 と兄は言って、玄関に向かった。

 兄のいなくなったリビングで、私は兄が言おうとした「お前には」という台詞の続きを想像した。

 それから、年老いた母の顔と父の顔を思い浮かべた。

 窓の外を見ると、家のすぐ近くで邪悪な番犬とストーン・マッシュルームが威嚇しあっているのが見えた。

「まあ、なんとかなるろう」

 と私は声に出して言った。

<了>

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