雲のうえを歩く二人

@sijyouinnkurea

第1話

(仮)たぶん二

僕は陽平が好きだ。陽平も僕を好きになってくれた。彼をずっと僕だけのものにしておきたい。誰にも触れさせず、僕のアトリエの中だけに………

僕はただ陽平がそばにいてくれればそれだけでいい。でも、陽平はそうじゃないみたいなんだ。陽平の望むこと…僕は躊躇っている。僕だけが望むこと…それは僕だけの欲求…それだけじゃ陽平は満足できない。キス以上のこと………絵を描いているだけじゃ人は満足できないんだと言うことを始めて知った。

だけど、僕にはハードルが高すぎて、昨日の夜逃げ出してしまった。アトリエの中に逃げ込んで鍵をかけてしまった。

何故だろう…現実が受け入れられなかった。愛し合うことの現実があんなことだと僕は考えなかった。クリムト、ラファエロ、ミケランジェロ…宗教画の世界が愛なのだと思っていた。

陽平は失望しただろうか?僕にがっかりして嫌になっただろうか?もう、嫌いになってこの家から出て行くと言ったら……僕はどうしよう。陽平を失う?………僕は昨日の夜からずっと考えている。

僕の心は迷って迷って、でも…ずっと陽平の方を向いている。

僕の心の中は濃い灰色に覆われている。でも、僕が心の中で見ているのは暗い灰色の先にいる陽平の姿。

そこだけ大好きなライトグリーンに色付いている。狡いよ。

「狡いよ……」

僕はアトリエのドアの鍵を外して…部屋の外に出ると陽平を捜した。

もう、僕のことなんか愛想を尽かしてこの家から遠く離れてしまっていたら…寂しさが胸をいっぱいにしていた。

「陽平……」

どうしよう…そんなことを言ってみたところで、僕には分からない。どうすればいいのか、迷いなのか不安なのか後悔なのか愛しさなのか…分からない。ただ陽平の姿を捜した。陽平は台所のダイニングの椅子に両手をついて座っていた。

良かった、家にいてくれた…しばらく陽平の後姿をじっと眺めていた。僕はその背後に向かって言った。

「おはよう…」と…

僕にとっての最大限の譲歩を込めた言葉だった。もしも陽平が望むのであれば…僕はもう一度一緒に陽平の部屋に行ってもいいと。緊張で手を握りしめて掌に爪がくい込んで痛かったのに、それすら感じていなかった……

「環…大丈夫か……」

振り返ってこっちを見た…憔悴した陽平の顔…

「悪かった…お前の気持ちも考えずに…」

「………」

陽平が悪いんじゃない……

そうじゃない。そうじゃなくて、そんなことを言わせようと思ったんじゃない。僕はでも、なんて言えばいいのか言葉が見つからなくて…その場に立ち尽くしていた。

そっとこっちに陽平は来ると、僕をぎこちなくハグして「嫌な思いをさせてごめん……」

そう言うと自分の部屋の中に入っていった。

僕は台所に一人残されて、いつも一人で過ごしていた家が僕を責めるようにグルグル回って、僕は倒れた。その音で陽平が部屋から駆けつけてきて僕を抱き起こしてくれた。

考え過ぎて…悩んで頭が耐えきれなくなったらしい。意気地なし…僕はベッドに寝かされながら、そんなことを思った。

「無理させて悪い…もういいから休むんだ」

「………」

言葉が出ない。

気持ちが決まらないのに、そばにいて欲しいと思っている…今陽平が僕の視界からいなくなることが耐えられない………なのに、混乱したままの僕の頭は、ここにいて欲しいとはどうしても言えなかった。

「………」

このまま蹲って石になりたい。こんな感情一分一秒でも耐えられない。

「そばにいてもいいか…」

その時、陽平が遠慮がちに言った。まさかそんな言葉を言ってもらえるなんて思わなかったから。僕はきょとんとしたまま瞬きをするのも忘れていた。我を忘れて…洋平を見た。もう離れたくない…他のことは考えられなくなっていた。

陽平が…ここにいてくれる……僕の気持ちが通じた?……

僕は頷いていた。

誰かと関わりを持ってこんなに嬉しいと思ったことは他にはなかった。

どんなサプライズよりも、この陽平の一言が嬉しかった。僕はその日陽平の手を離せなくて、洋平の手を握り締めたまま眠っていた。何よりも満たされた気分で…僕のすぐそばで陽平が僕の手を握ってくれている。幸福というのは虹色のパステルなんだ…目を閉じている僕の周りにはそんなやわらかな光が包んでくれていた。


〜*〜


一、日曜日


雨が上がった早朝、台所の雨戸を半分だけ開けてコーヒーを入れる。人の気配の無いこの時間が一番心地いい。静かさの中どこまでも耳をすます。

雨上がりの空気の音。

庭の植物が膨らむ音。

夜が冷した物を朝陽が照らす振動。

コーヒーの臭いがそれらをかき消し、朝が目を覚ます。

台所の窓にもたれて、環はコーヒーを飲んでいる。

そろそろ人の気配がする頃だ。

外の道路を走るバイクの音がして、すぐに新聞を取りに隣の家から、飛び石を渡る下駄の音が聞こえてくる。

「節子さんだ…」

今朝もご主人のために新聞を取りに来た隣りのお婆さんだ。節子さんはもう六十年以上朝早く新聞を取りに飛び石を渡っている。雨の日は飛び石が滑りやすくて大変そうだった。

…雨が上がって良かったと、環は下駄の音を聞いていた。

窓の柵の雨粒がポタンと落ちた音がして、環は…まだ日が昇る前の、遠い空だけが薄い水色に色づいている空の気配を感じる。

台所に立っていると、半分だけ開けた窓から外の空気が流れ込んで来て、足元をひんやりと撫でられて擽ったい。

マグカップを持ったまま、ようやく輪郭だけ見えてきた庭の植物に視線を向けていた。五条松に蘇芳に枝垂れ梅、萩の丸い葉に薔薇に楓…物心ついた時から眺めている景色だ。

年に四回馴染の植木屋がやって来て、手入れをしてくれる。

そのせいか乱れることなく当たり前の様に庭を眺めることが出来る。蘇芳の紅が薄闇の中から黒のベールを纏ったまま現れる…紅色…

「綺麗だ…」そう思って息を吸う。

息を吸う度に蘇芳の紅は少しずつ黒を脱いでいく。朝の光と共に鮮やかなマゼンダが表れる。異国の少女の色…その周りを色々なグリーンが取り巻いている。

最後の静寂が終わり、朝の営みと共に活動の熱がはっきりとした音になる。今日が始まる。環は頬を緩めるとやさしい表情で深呼吸をして、視線を家の中に戻した。

居間の方でゴソゴソと陽平が動いている。

「起きたの…」

「………」返事はない。

頭を絨毯につけたままじっとしている。

環はカップをテーブルに置くと、パンをトースターに入れた。

林檎の皮を剥いて塩水に浸け皿に盛り、皿を持ったまま洋平の方を眺めた。重力と喧嘩でもしているように、毛布を被ったまま床から離れようとしている。頭を下げて四つん這いのまま動けないでいる様だ。

「卵食べれそうかい」

寝ぼけた様子の陽平に声を掛けた。

「要らない…」

やっぱり、じゃあトーストだけ…

冷蔵庫からアンズのジャムを取り出し、テーブルに置いた。

「陽平、離してよ」

寝ぼけたままの陽平は居間から台所に来るなり、肩に両腕を回して来た。

「眠い…」

そう言って環の肩に顔を乗せた。

陽平の体の重みがずしっと環の肩にくい込んで立っているのがやっとだ。

本当にほっといたら、このまま寝てしまいそうだ。

「せめて椅子に座ってくれ」

「…いい、二度寝してくる」と離れようとして、「環、早過ぎるよ。休みだぞ。昨夜、また徹夜だったんだろう…」と、環の顎の下に付いた、白の絵の具を指でなぞった。

指が止まると視線が合った。数日ぶりに間近で見る恋人の顔だ。

「……」

「…お前も来い、このまま寝よう」

半分開いた窓から朝の風が吹き込んできて、二人の間にコーヒーの匂いが横切った。

「いい匂いだ…」と陽平は環の目を見たまま言う。

「…だろう」と言う環の口を、陽平はキスで塞いだ。

久しぶりに味わう恋人の唇だった。

寝ぼけたままの陽平のキスは感情任せで執拗だった。

陽平はじっとしているだけで、抱き返しても来ない恋人の態度に薄眼を開けると、諦めたように唇を離す。

「相変わらず…」

そう言うと、糸が切れたみたいにドカンっとダイニングの椅子に腰かけた。

乗っても来きやしない…久しぶりに顔を見てつい浮かれて期待してしまったのは…俺だけだったのか……上の空で…今ここでこうしているのに、こいつの思考は他にある。今更…仕方のないことなんだけど、やっぱり癪に障る。


〜*〜


環は棚からカップを取ると、コーヒーを入れて陽平の前に置いた。

陽平は面倒くさそうに頭を掻くと、カップを取って口に運んだ。

「熱い…」と言ってチラッと不貞腐れたままの顔で環を見ると、二口目からは目を閉じて飲んでいる。

環もそんな陽平の前に座り、二杯目のコーヒーをカップに注ぐ。

冷めてしまった薄切りのトーストを、小さくちぎりアンズのジャムを塗って口に入れる。陽平は目を閉じたまま怠そうに頬杖を付いて、カップだけを動かしてコーヒーを飲んで

いる。

「無精だなぁ」と、環は呟いた。

「五月蝿い。こんなに早く起こすからだ」

陽平は文句言う時も眼を閉じたままだ。

別に環が起こしたわけではない。

昨夜遅くに酔って帰って来て、環の言うことも聞かずに抱きついて、腕を振りほどいた環を思いっきり恨み言でも言いたそうに見ると、そのまま居間の絨毯の上にゴロリと大の字になって寝てしまったのは陽平の方だった。

声をかけてもイビキをかいている陽平に、環は仕方なく上から毛布をかけてアトリエに行った。

徹夜で描いて台所で朝早くコーヒーを入れていた時に、陽平は気がついたのだ。

起こされたと言って、さっきから仏頂面だった。

「…」

髪がボサボサだ。目を腫らして…目の下にはクマが出来て…くたびれたカエルみたいだ。

陽平は目を閉じたままでリンゴを取ろうと探るように手を動かしている。銅像の手だけが動いているホラー映画のワンシーンみたいだ。

環は陽平の伸びた手の方にリンゴを盛った皿を近づけた。

陽平の指がリンゴに触れると、六分の一にカットされたリンゴの一つを摘んでそのまま口に入れる。

目くらい開けて食べろよ。朝からどれだけ不機嫌なんだよ……疲れた顔をして……、最近飲み過ぎだ…そう思いながら、半分だけ開いた雨戸の方に環は視線を移した。

外はだいぶ明るくなっていた。

空気がまだ少し冷たい。足下がそれを伝えてくる。でも、この時間が好きだ。

外よりも少し暗い屋内…

陽平がそばにいてくれて…それを感じられて…視線は庭を眺めながら洋平を感じている…それが心を落ち着かせてくれる。安心して心を飛ばすことが出来る…

雨粒の光りの中…、萩の葉の葉脈の中…自由に気持ちを飛ばすことが出来る。

庭全体が差し込む光の振動に打ち震えているのが分かる……それを感じている。

差し込み始めたばかりの控えめな光…だけど情熱的な共振…思いっきり深呼吸をする。全てが心地いいものばかりだ。

その中心に陽平がいる。

それだけで安心して目を閉じていられる。


〜*〜


「………」

急に物音がしなくなって、どうかしたのかと陽平が薄眼を開けると、環が目を閉じたまま庭の方を向いている。

またか…意識だけどこかに飛ばしている……今度は何を感じているのか?こいつにはこの時間が大事なんだ…

まだ暗い台所の中に環の横顔…好きだ。テーブルの下で膝が当たっているのに、それすら意識していない。

「また、一人で……」

どこまで行っているんだか……洋平は環の邪魔をしないように動かずにじっとしていた。お前はいつも卑怯だよ…俺が見つめていることも自覚なしで、そんな顔をしている。

俺にとってそれがどんなに欲しいものかなんて思っても見ないだろう。ご馳走がリボンつけて目の前にあるのに、待てと言われお預け食らっている子犬の気分だよ。

好きになったことが偶然だったとしても、今はもう、こうやって一緒にここにいることは決定的に必然だって言うのに…

そばにいても見てもくれない。求めても与えてもくれない。遣る瀬無いよ………何をそんなに集中して見ている?…今何を見ているんだ…お前の頭の中は…

俺はお前のことをこんなに見ているのに……

昨夜、遅くに飲んで帰ると、アトリエから出て来なくなった恋人の姿を久々に見て、つい抱きしめていた。

「酒臭い…離せよ…」

その一言きりの素っ気ない態度で腕を払われ、それに無性に腹が立って、陽平は環を居間の絨毯が敷かれた床に押し倒して、無理やりキスをした。

抵抗する環を体で押さえ込んで執拗に唇を塞いだ。嫌だと腕で思いっきり跳ね除けられて、陽平は絨毯の上にひっくり返った。

「お前は…そんなやつだよ…」と、酔いも回ってクラクラする頭を手で抑えて、どうすることも出来ない切なさで捨て台詞を吐いた。

「…君だって…」

環はそれだけ言うと、居間を出て行った。

俺の何処が悪いって言うんだ。我慢させられているのは何時もこっちだろう…

治まらない気持ちを、目頭を押さえた手で覆い隠すように力を込めた。

「……何が君だってだよッ……」

駄目だ。あいつの邪魔はしないはずだったのに…、顔を見ると気持ちを抑えることが出来なかった。

好きでたまらない気持ちが込み上げて来て、目頭が熱くなって行くのを感じながら、それを必死で誤魔化すようにぎゅっと目を閉じた。

その時、暖かい感触が陽平の体を包んて、ぎこちなく目を開けると、戻って来た環が毛布を上からかけていた。

風邪引いたらどうするんだと、言うと居間を出て行った。

追いかけたかったけど…それは出来ない……

降参だよ…環……そう思って意識が薄れていった。

そして、朝には何事もなかったかのようにしている。

きっと一睡もしていないのだろう…徹夜でカンバスの前で絵を描いて、気怠そうにしている。でも……良い顔している。無理に起こされたんじゃない…、少しでも一緒に居たかった。

「部屋に行かないか…」と陽平は無駄だと分かっていたが、環に声をかけた。

「…無理だよ……」

予想通りの返事が返ってくる。

「いつまで…」

環から視線を外しながら言う。

「分からない…」

まだお預けを喰らうのか……

「………」

……昨夜徹夜でラフを仕上げて、これから本描きに入ると言う。…ますます俺は視界の外になるのかと、陽平は溜息をついた。


〜*〜


恋人は、絵描きの雛で今は大学院で油絵の色彩の研究をしている。専攻研究よりも絵ばかり描いて……、制作に入ると、他のことはまったく目に入らなくなる。

恋人との逢瀬だって例外ではない。

感覚が変わるからと触らせてもくれない。

だから、陽平はいつもこうやってお預けばかりを喰らっている。

陽平にとって、もう…こういう関係が四年、続いていて……毎回「無理だ」その一言だけで、酷い時は何ヶ月も放って置かれる。

四ヶ月放って置かれた時は…流石に我慢できずに、どこかでコッソリつまみ食いでもしようと考えた。そう思って仕事帰りにそういう店に入ってみたこともある。

しかしながら、そういうところで、いざ目の前にしても全く触手が動かない。したいのに、頭の奥深くでは求めている相手が違う……、がっかりして後悔と……罪悪感で、家路につく。

そうして、何も無かった素ぶりで玄関を上がり、でも…内心では、何かあったのかと気にかけてもらいたいと思い…やりたくてもやらせてもらえない恋人をいじけた目で見てやる。

そいつはと言うと、そんなこと気づこうともしないで、「ヒチューあるよ」と、いともあっさり言う。

やられたぁと、また項垂れる。

思わず抱きつくと、冗談はよせと逆にやり込まれる。

押し倒してメチャクチャにしたいという衝動が込み上げて来るのに、苦い唾と一緒にやっとの思いでそれを飲み込む。

抱きついた腕を離し………、環の肩をポンポンと…スイッチをオフにするように懸命に気持ちを抑えて叩くと、体から離れる。

「悪かった……」

結局は…いつもそうなる。

…不毛な足掻きだ……


考えてみれば、初対面から尋常ではなかった。

何たって五年前…大学四年の春だ。生活色彩学Ⅱの講義の始まる前だった。

講義室を過ぎて右に廊下を曲がった突き当たりに手洗い場があった。そこは光が途切れて薄暗くなっている場所だった。

美術学部の四科で彫刻を学んでいた同回生に「僕はもう三年間も君のことを見てきたのに知らないって…そんなの許せない…」そう言って、その同回生は、環をその廊下の壁に押し付けて、首を締めていた。

講義の前に偶然その場に通りかかったのが、陽平だった。

「何しているんだ」と、環から引き離しそいつを一発殴ると、環を助けた。

初めからそんな出会いをしてしまったら、顔見知りという単純な枠には収まってはいられない。

おまけに、そのストーカーをしたやつのことを責める訳でもなく、環は何も口にしなかった。医務室に連れて行き、校医に何があったのかと訊かれて「別に…」と答えたのを見て、なんて肝の座った凄いやつなんだと驚いた。

でも、事情を知ってからは逆の意味の驚きに変わった。

…それは、加害者のあの男が可哀想に思えたほどだ。ストーカーをしていた四科の国松圭吾は、三年間環に挨拶をしても無視され、作品展で一緒に表彰を受けて声をかけても相手にされず、講義で何度も会っているのに名前さえ知らないと言われたと、事件の後泣いていた。

環にはそんなことをした自覚はなかっただろう。

今ならそれが分かるけれど、された方は確かにきつかったと思う。

考え事ばかりして周りの声なんか耳に入っていないような環は、よくそれで誤解を招いた。

声をかけても平気で無視する冷たいやつだと、環のことをよく知らない奴からは思われていた。

増してや、国松が好意を持って声をかけていたのなら尚更だ。

この無頓着さが逆恨みを買って、国松をストーカーにしたのかと思うと少しだけ国松に同情をした。だからと言って、ストーカーになって良いという理由にはならない…

環の周りにいる人間は…陽平から見れば変わった人間が多いのは事実で、もしかしたら素養的にあり得るのかと、一緒に暮らすようになって陽平は実感している。

他人に対するコミュニケーションスキルがほぼほぼ低い。

他人に興味がない。そのくせ依存心が強い。

束縛を嫌うくせに寂しがり屋で、自分勝手を自由だと思っているところがある。

国松だってそうだ。内気で自己表現が苦手だと顔に書いてある様な奴だ。

陽平とは平気で話しが出来るのに、環の前では顔も上げられない。そんな奴が環のような男を、好きになったのが運の尽きなのだ。全てにおいて反応が極端なのだから…

あの後、国松は半年間セラピーに通い、ようやく吹っ切れたらしかった。それでもまだ、環の姿を校内で見かけると胸が傷むと言っていた。

翌年、ギリシャに彫刻の修復を学びに行くことになったと聞いた時、陽平は只々正直なところ「良かったね」と餞の言葉を贈ってやった。少しでもまだ、国松の中に環への未練があるのなら、手の届かないところに離れた方がいい。

同じ大学にいればどうやったって姿を見ることになるのだから。

環みたいなどうしようもなく、自己中なやつを好きになってしまったこと自体ヤバイのに、それがまったく認識もされず報われないままなんて…それはもう、拷問と同じだっただろう。

「一緒に暮らしている俺でさえ…こんなだ…」

「…何…?…」

唐突に呟いた陽平に環が聞き返した。

「いや…」

国松のことがあってから、環は何故か陽平に頻繁に連絡を取ってくるようになった。

それから一年経って、陽平は大学の卒業を機に環の家に下宿することにした。

それから四年だ。

環にとって、恋人と言う枠も普通では無かった。

させてくれと言って素直に応じる奴じゃないのは身にしみて知っている。

昔から予測不明な奴だ……知り合えば知り合うほど、そう思う。それは今だって変わらない。

恋人と言う関係になった今でも、環の突飛で自由奔放な態度はまるで変わらない。

キスの最中に突然…ちょっと待ってと言われて、そのままアトリエに入って出てこなかったり、ベッドの中で動かないでと、言われて何があったのかと心配していると、いきなりポーズを取らされ、そこから一時間二時間平気でスケッチを始める。

「俺って…いつからこんなに辛抱強い性格になったのかなぁ……」と、少し冷めたコーヒーを一口啜った。

「変な夢でも見た?」

いきなりボヤくように呟いた陽平を、おかしなことを言うやつだとでも思ったのか、笑みを浮かべると環は呟いた。

「ああ、夢ばかり見ているよ」

もうずっと…夢見ているよ。夢ばかり見て、醒めないんだよ。

こんなに我儘なやつなのに、どうしてそばから離れられないのか…自分でも分からない。

だいたい、通常のセオリーなんか通用しないのは分かっているのに…、こいつの法則の中に魅入られたら、もう逃れられない。

目が離せない……

雨上がりの庭を、今はもうハッキリと朝の陽が照らしている。

綺麗な色の粒が次から次へと、生まれて来る。

「…明るくなって来たね…」

来た…ねェ…かぁ、一応…、俺がいることは認めてくれている…

「……嬉しいよ…」

「何が?……」

半分別のことを考えているような表情をして、外を見ている横顔が、チラッとこっちを見る。

「いや…」

もう、他のものなんか見れやしない。

これでいいことにしてやるよ。一応一緒にいることは認識してくれているのだから。今はそれだけで十分だよ、環…

結局はこいつをめちゃくちゃには出来ない……我慢するしかないのだと思い知らされる。

「…結局こうなるんだ……」と、大きく息をついた。

考え込むだけ無駄なんだ。

そう思うとなんだか体から変な力みが消えていき、陽平は欠伸を一つすると、また目を閉じた。


〜*〜


環がカップを動かしてコーヒーを飲んでいる…パジャマの袖の擦れる音…ジャムスプーンがガラス瓶にあたる音…………眠気が押し寄せてきて…、陽平の寝惚けた意識の中に、ふと懐かしい情景が浮かんで来た………………

窓の開いた大学の教室に、風に揺れる白いカーテン……

なんで今…こんなことを思い出すのだろう……環と知り合った頃…、睡魔に意識を遠くさせながら思っている。

美術学部の旧校舎三階の左端の教室…だった。

暖かな春の日で…窓を開け放ち白いカーテンが風に揺れていた。

そこの石膏の像の間で初めて、抱き合った。

何時もは鍵のかかった古い備品がしまっているだけの場所だ。誰も用事もなく近づいたりはしない。

そこで、環は戦前の古い色見本表を探していた。幅が二メーターほどの紙製の巻物だった。戦前のインクを使用した印刷で、色の発色が今のものと微妙に違うのだそうだ。それを一階の教室まで運びたいのだけど、一人では持ち上げることが出来ないから、手伝って欲しいと連絡をもらった。

「またか…」

ストーカー事件以来、環からよく連絡を貰うようになっていた。

半分首を捻りながらも陽平は、一般学部と隔てられた鬱蒼と茂る高い木立を抜け美術学部がある校舎の方へ向かった。

陽平がその教室に行くと、環は教室の窓に手をついて外を眺めていた。

…四年前の環だ…ジーンズに綿シャツ…袖を肘のところまでめくっている。窓の外からブナの新芽が複雑な新緑色を作り出して、それを背にして環が白いカーテンの間に立っていた。

綺麗な光の中に、確かな存在と不確かな空気が漂っていた。その中に環はいた。

白いカーテンが揺れて…なんとも言えない不思議な場所に迷い込んだような……錯覚がした。

「…一人じゃ運べなくて…」

「やっぱり美術学部だな…こんな部屋があるのか……」

デッサンに使う物らしい置物や等身大の白いギリシャ風の石膏の像がいくつも置かれて、無造作に白い布が被せてある。

工学部でいつも装置に囲まれて実験ばかり行なっている陽平には、別世界のように映った。

「いいよ…」

環は窓からゆっくりと手を離すと、こっちに向かって歩いて来る。その時、環が石膏の像にかけてあった布に躓いてバランスを崩した。倒れそうになった環を咄嗟に両手で庇った。

腕の中に収まった環は思ったよりずっと華奢だった。

「大丈夫…」

陽平と環の頬が重なり合って、戸惑っている陽平を余所に環は離れようとしなかった。

「もう少しこのままで…」

そう言って腕を首に回してきた。その行動がどんな意味を持っているのか、まったく意識出来ない。ただ環の言葉の通りに動かずにいた。

環の顔が近づいて来て、近づくごとに首に回された環の腕が重くなる。それを支えようと体に力を入れていた。次の瞬間気がつくと…環の唇が重なっていた。

白いカーテンが揺らいで、心地良い風が吹き込んで来て……柔らかくて温かな唇が触れて…………風がそよいでいる延長なのかとさえ思えた。

……白いカーテンが二人を包んで…次第に温かな感触だけが広がっていった。

息づかいと一緒に目があって…環の眼の奥を覗いた途端、陽平は環を支えていた腕に力を込めた。

床に倒れ込み、陽平は白い彫像の間で環を抱きしめていた。

「目を…開けてくれ…」

「えっ…」

環は瞬きもせず陽平の瞳を覗き込んでいた。

「環……俺…」

「ごめん…離して……」そう言うと、環は教室を出て行った。

「………」

一人残された陽平は…、しばし呆然としていた。

「……どういうことなんだ」

必死に状況を理解しようとした……、しかしながら何も考えられない。それどころか、その場にどのくらい一人だったのかも分からなくなっていた。

「どうして……」

その言葉しかシナプスが繋がらない……

その後で、あの重い色見本帳をどうやって一階まで持って降りたのか記憶が無い。

後で聞かされたのだけど、色見本帳は一階の第一教室の前に置いてあったのだそうだ。

気がついた時には、美術学部の建物の外にいた。

ただ、何となく憶えているのは「なんてことをしてしまったのだろう…」強い後悔でそう思ったことだった。

思い出すと胸が痛んだ。俺は一瞬でもあいつを抱こうと思っていた……それを自覚する度に、陽平の中に空に向けて手を伸ばす映像が浮かんでいた。切ない…、一瞬で永遠の扉を開けてしまったような……引き返せない……

それを肯定するには陽平は真面目過ぎた。有り得ないこと…そう、有り得ないこと。

それでも…陽平は白いカーテンに包まれた環の姿が頭から離れない。雰囲気に流されただけだ。ハプニングだ。考えられるだけの言い訳を並べたてた。

……環…あれは一体どういうことだったんだ…


〜*〜


何日かが経って冷静になると、洋平は益々落ち込んだ。思い出すと胸が痛い。

あれから何も連絡がない。揶揄われたのだろうか……怒ったのだろうか。でも、自分から誘ってきた……何か言って来てもいいんじゃないかと、自分からは連絡出来ないまま恨み事を唱えるようになっていた。せめて言い訳くらいしに来いよ。

気が付けば思い出している。スローモーションのように何度も何度も繰り返し再生していた。環の顔が近づいて…唇の感触が広がって……

「俺…どうかしている…」

二週間が過ぎて環からは何も連絡がないまま……陽平はもう思い出すのはよそうと、意を決して工学部の研究棟を出てカフェテリアに向かった。あれから二週間カフェテリアにすら足を運べなかった。

カフェテリア近くの噴水の生垣の横、ふと視線を上げるともう忘れようと思っていた相手が目の前に立っていた。

風が止まって、校舎の間から夕陽が二人の間に差し込んでいた。

「……環…」

そう呟いた時にはもう、環から視線を外すことが出来ない。吸い込まれるように真っ直ぐに環の方に歩いていた。

「…良かった、君に会いたいと思っていたんだ…」

小手毬の花を背にした環が言う。

「えっ……」

俺に会いたい…ってどう言う訳だ。怒ってたんじゃ無いのか……、だから、こんなに何も連絡してこなかったんじゃ無いのか……

「お茶を飲まないか、ちょっと話しがあるんだ」

いつもの環だった。

あの時のことはコメント無し?……

環のいつもと変わらない声を聞いて、陽平はなんだか張り詰めていたものが切れたようだった。

「ああ…」

カフェテリアのテラスでカフェ・オ・レを飲んだ。環も同じものだった。

「これ」と言って環がホテルの宿泊券を差し出した。

「何だよ…これ…」

環はその頃、担当教授だった野上先生の手伝いで那須にオープンするホテルの天井に、アダムの創造を描くチームに入っていた。環の受け持ちはアダムと神の姿だった。

「ようやく終わったんだ」そう言った。

陽平の前に機嫌良さそうに座っている。どう言うことなのか、良く分からない……

「…那須高原…そう…」

やっぱり、理解し難い…

「いつでもおいで下さいって、だから一緒に行かないか」

「だから…、何で俺と…」

どういうつもりだよ…俺のことをバカにしているのか…この三週間どれほど苦しんだと思っているんだ。当たり前のように旅行に誘ってくる環に腹が立った。信じられないよ…あのキスの理由もスルーしたまま…今度は旅行に誘うのか。

「君さ…非常識じゃ…」

陽平が言いかけた時、環が言葉を被せてきた。

「そのホテルの天井に君の目を描いたんだ。だから…君と一緒に見に行きたいと思って」

「えっ?…」

俺の目…?…何のことだ…

「ダメかなぁ…」

ダメじゃないけど…その前に言い訳することがあるんじゃないか。俺はどうしてもそれを訊きたい。

「どうしても君の目が見たかったんだ」環はそう言った。

指と指を合わせる描写は有名だけど、それよりも神がアダムに知恵を授ける時の眼差し、どうしてもその眼差しが分からなくて環は描けなくなっていた。

それでキスするなんて突拍子過ぎる。それもあんな劇的なシチュエーションにしなくてもよかったんだ。…そう言葉で言えばいい…あれから俺がどれだけ悩んだと思うんだ…

医務室のベッドで初めて見た時の目。その目を描きたい。もう一度間近で俺の目を見たいと思った…そしたらあんなことをしていた…のだそうだ。

「そう……」俺の目を近くで見たかっただけ……そうだったのか……

陽平は急に憑き物が落ちたみたいに体から力が抜けていた。なんだ……そうだったのか………どうすれば良いのかと、そればかり考えていた。

今度は旅行に誘われるなんて…

今の出来事が本当に偶然だと信じていいのか…本当は担がれているんじゃないよな…そう思ってしまう……そう思わせる摩訶不思議なアンバランスさが環にはあった。

「そうじゃ、明後日の土曜日はどう」

「明後日?…」

「都合悪い?…」

「いや…」

左脳は断った方がいいと言っているのに、陽平の口から出た言葉は違うものだった。

「行くよ…」

「じゃ、明後日」

そう言うと、環はカフェテリアの向こうに連なる木立の中に消えていった。

どうして断れなかったのだろう。テラスに一人残されて、環が座っていた正面の席を見ていた。会って理由を聞きたかった、そう思っていたのに。何も満足出来る答えは聞けないまま、話しは先にどんどん進んでいく。頭が追いついていかない。そう思っているのに…あの時のキスの感触が蘇る。夕陽の影が長く延びて……

「やっぱり、俺担がれているのか…」


〜*〜


ここ三週間、連絡が無かった理由が分かって、モヤモヤが晴れたはずなのに、まだ環のことばかりを考えている。

那須のホテルにあいつと二人で泊まりに行く??と陽平は頬をつまんでみた。

「痛い……」

「なにベタな真似をしているんだ」と、同じ工学部の八代が声をかけてきた。

「いや…別に」

「今の…向こうのやつだろう」

あのシールドのように連なっている木立の向こうにある美術学部を一般学部の間では「向こう」と呼んでいた。

「ああ…」

「お前は顔が広いなぁ……あの幸岡環と親しいのか…」

環を形容する時は「あの」が付く。そうだ。一般学部でも環は有名人だった。海外の大きなコンクールで賞を取っていた。おまけに教授推薦を受けた作品は一度も落選したことがなかった。既に専任の画商がつき、環の絵は結構高額で取引されていた。その話題で素行が変わっていると言うこと以上に、注目を集めていた。

「そう言うわけじゃ無いよ…」

「そうか…親密そうだったじゃないか。俺にはあいつと二人っきりでお茶なんか飲めないよ」と揶揄うように笑って言うと、八代は工学部の建物の方へ歩いて行った。

この木立は正しくシールド。

「こっち」の連中は向こうの連中をどこか同情と憧れの入り混じった視線で見る。

「向こう」の連中だって、見下したような中に羨望を含んだ眼差しを向けてくる。

それはどっちにいても何か足りないと知っているから。

そんな感情を抱かないで良いのは、一握りの者だけだ。環みたいに何も迷わなくていい人間…だから余計に分からない。環の真意が…、俺を誘う理由が…、俺みたいななんの変哲のない人間を誘うなんて。ただの気まぐれなのか…

「俺は揶揄われている…?…」

親しそうって何だよ…、油絵を描いていることと色彩学の講義で一緒だったってこと以外は、あいつのことなんか何一つ知りはしない。知り合ってから勝手に呼び出されて会うだけだ。会うって言っても用事を頼まれてばかりだし………親密だなんて有り得ない………友達付き合いすらしているのかさえ分からないのに……

眠気の中、そうだ…どうしてだったのだろうと、意識が引き戻された………環……横顔…目を開けて…意識を取り戻した。

目の前に現在の環がいる…すっかり明るくなった台所でコーヒーカップを持ったまま外を見ている。あの時と同じ季節だ…変わらない…横顔……何故俺だったんだ…それを言うなら、何故…環なんだろう……

そうだ、その続きがあった……

キスした相手と二人きり泊まりで旅行に出かける……俺…どういう神経しているんだ。でも、もう行くと返事をした訳だし…………どうしようもなく落ち着かなかった。

環と出会ってから…落ち着かないことばかりだった。

「あいつは絶対俺を揶揄って楽しんでいる…」

土曜日の朝の七時環から電話がかかってきて、九時に駅で会おうと言われた。

そうだ…待ち合わせの時間も決めてていなかった。それにも気づかないほどだった。電車の中でも殆ど会話はなく、駅を出てホテル行きのバスの中でも景色ばかり見ていた。ホテルに着くと、荷物もそのままでホールに連れて行かれた。

ホテルの天井を二人で見上げて、「あそこの片方膝を曲げて手を差し伸べている男神がいるだろう。ほら、あの目が君だよ…」そう言われたけどよく分からなかった。何かで見たことがある絵のようだけど……

あれが俺の目だと言われても、よくわからない。それに、そう言われて素直に「いいね」とは答えられない。どうして俺の目なんだろう……と思うけどそれすら怖くて聞けない。

「君の目を入れた時、野上先生も良い目だって言ってくれたんだ…構図は出来ていたんだけど…どうしても神がアダムに知恵を授ける眼差しが分からなくて……でも良かった。君がいてくれて…」

移動の最中の沈黙が嘘のようだ。この時の環は子どものようによく喋った。陽平は環が喋っている話の内容よりも、ただ環でもこんなに流暢に喋れるんだなと感心したことを憶えている。

「この天井画は好評ですよ。本当にみなさんにお願いして良かった。どうぞ今日は楽しんで行ってください」と、俺たちのところにホテルの支配人が挨拶にやって来た。

この時、始めて環の機嫌のいい表情を見た気がした。

ホテルの部屋は山並みが綺麗に見える眺めのいい部屋で、支配人からホームワインがサービスで用意されていた。丁度良い具合に氷の中冷えていた白ワインを開けて、景色を見ながら二人で飲んだ。朝から環と一緒で緊張していたのか、陽平は勢いで何杯も飲んだ。

外は午後の昼下がりで、小雨が降っていた。

遠くの空は明るくなってきて、もうすぐ雨が上がりそうな気配がしていた。

散歩に行こうと言われて、ホテルの裏の森の遊歩道を歩いた。

ゴールデンウイークが終わったばかりで宿泊客は思ったより少ない。

遊歩道も二人だけだった。ホテルが貸してくれたビニール傘をさして環に誘われるまま散歩に出かけた。小雨になっていたとは言っても、雨が降っているのに環は楽しそうに歩いていく。

新緑の中を三十分ほど歩いて行くと、遊歩道から少し外れたところに小さな池があった。山の湧き水がここから湧き出て池になっていると言うだけあって、池は底に落ちた木の葉が一枚一枚はっきり見えるほど澄んでいた。

「綺麗なところだね」

「そうだろう…泳げるかな?」

「何言っているのさ…」と、陽平は道に戻ろうとした。二人が池に着いたときには雨が上がっていた。濡れた傘を手に持って、

「あっー」と、背後から悲鳴のような声がして振り返ると、環が両足を池に突っ込んでバランスを崩している。駆け寄って、環の体を支えると岸に上げた。

「……、ごめん…こんなに底が柔らかいなんて思わなくて」

「足が抜けなくなったらどうすんだ…」

「岸から見ていた時はあんなに綺麗だったのに…」

「…バカだなぁ」

やっぱり変なやつだ。膝まで濡らして、パンツを捲ったところから雫が落ちている。

「池って危ないところなんだね…」

冷たさに震えながら環が言う。

「ふざけているのか。帰ろう…風邪を引いたらいけない…」

「もう少しだけ…」

足が濡れて寒いはずなのに、遊歩道を先に進んでいく。この時雨が上がっていた。

「おい…」

環を心配しながら仕方なく後をついていく。

木立が切れて、雲に覆われた空が現れた。抜けた視界に気持ちがホッとしていた。

遊歩道から森の遠く向こうに白く雪を被った山並みが小さく見える。空には薄い灰色の白っぽい雲が広がっている。

「ここから見える景色を君に見せたかったんだ。…遠くに白く雪を被った山並みがこの森の新緑と重なって綺麗だろう…君と同じ空気だ…ここに君の目を残したかった。……やっぱり綺麗だ。僕はここで過ごしながら悩んでいて、だけど、ここに来た時、君の目を描こうと思いついくともう、それ以外考えられなくなって嬉しくてしようがなかった。それを新緑が美しいうちに君に見せたくてどうしても…連れてきたかったんだ…」

環は唇を震わせながらここに連れてきた理由を、陽平に何とか説明しようとして懸命に喋っていた。

またおかしなことを言って…だけど、環の気持ちが痛いほど伝わってきた。正直な気持ちだけは分かる。今はそれを信じられる。少々自己満足的ではあるが。環の感情が溢れてくるのが分かる。それが何故か陽平も嬉しかった。

「分かったから…帰ろう」と、陽平は冷え切った環の手を引いた。

「よかった…、この景色を一緒に見られて…あの時と同じ目だ…」環は、そう言った。

本当に不思議なやつだ。

それから環はまた無口に戻った。

陽平もこの時見た、新緑の景色を忘れられない。この時はまだ、このはっきりしない感情が恋愛だなんて気づいてもいなかった。体が熱くなるのは散歩の前に飲んだワインのせいだと理由をこじつけていた。ただ、環は俺のことをどう思っているのかそればかりが気になって、自分の気持ちがどうなのかなんて考えることが出来なかった。

遊歩道で抱き合った以外はホテルでもあの後は何もなかったし…何もなくて当たり前なのだけど…天井画を見に出かけただけなのだから…

「あれからだよな…」

使いたい絵の具のキャップが固まっていて、開けることが出来ないと言って呼び出されて、慌てて行くとそこに座ってくれと言われポーズを取らされた。俺まだ用事があって付き合えないと言うと、途端に環は不貞腐れた。

陽平は環との間に抱いていた他人行儀な遠い距離感がいつのまにか消えていて、代わりに分身にでも会うかのような近しい気持ちになっていた。

「絵の具のチャップを開けられなくて困っているんじゃなかったのか…」

「それより今は君の目が見たい」

環の真っ直ぐに覗き込んでくる視線に、陽平が誘惑されているのかと思ったとしても無理のない話だっただろう……あの時はマジ悩んだよな…この関係を続けていいのか、相手があの環なんだぞ、環と付き合えるのか……いろいろなシーンを想定してはシュミレーションした。危ない妄想もやって見た。如何にかして環と付き合える理由を探そうとしていたものだ。考えてみれば、あの時から離れると言う選択肢は考えてなかった……あれが環の告白だったのだろうか……

知り合った頃から…いつもこの調子だ。

何を考えているのかぜんぜん分からないのに…、環のすることに文句すら言えない。

「酷いやつだよ…」

「どうした…突然…」と、いつもの涼しい顔でこっちを見ている。

やっぱり酷いやつだ。俺のことなんかどうでもいいんだ…こんなに欲しいと思っているのに自分からはどうにもならない………どうして好きになったんだ…こんな人でなしを。何億人って人はいるのに………

「何、怒っているんだよ…」

「怒ってないよ……」

クソッ……、今すぐ…抱きしめたい。めちゃくちゃにしたい…そう言う衝動に駆られながら…でも出来ない。

…くらい好きだ……だから…怒っているよ。

昨夜だって露骨に拒否って…もうどれだけしていないと思っているんだ。

涼しい顔しやがって…こんな自分勝手なやつなんか好きになるんじゃなかった。どうせこいつらは絵を描いていれば、セックスなんかしなくてもいいと思っているやつらなんだから……

「陽平…?」

「………」

陽平は返事もせず、トーストにアンズのジャムを塗ると、目を閉じたままそれをかじった。

「まったく……、本当に無精者なんだから…」


環と那須のホテルに出かけてからしばらくして、野上教授の秘蔵っ子に虫が付いた。

そう言う噂がたった。それはどうも一般学部の学生らしい。いったい何処の誰なんだと、木立の向こう側では結構な騒ぎになっていると言う。それは工学部の陽平の耳にも入っていた。

とうとう恋人が出来たのかと、何だか環のことが遠くに感じられていた。そう言えば、最近連絡が無かった。どうしたのかとは思っていた。

『そう言うことだったのか…』

やっぱり、俺は揶揄われていただけだった。そう思うと、捨てられたペットの様な気分で、なんだか胸の中にギザギザの板を押し付けられたような遣る瀬無さが込み上げてきた。

元に戻っただけだ…向こうの連中の気まぐれに付き合わされていたんだ。もう、あいつと関わることはないだろう…何処か知らない場所でポツンとたった一人で立っている様な気分だった。つまらない…環が他の誰かと親しくしているのかと思うと、ただ全てが虚しかった。

『人騒がせなやつだ…』

強がって、そう言うのが精一杯だった。環の恋人ってどんな娘なんだろう。

つまらない…つまらない…その言葉が頭の中から離れない。あんなに面倒臭かったのに、いつの間にかアイツとの時間を心待ちにしていたなんて…恋人を作ったのか…

『あんまりだ…』

その時の陽平は恨みがましいような気持ちで環のことを思った。

『良かったじゃないか。これで静かになる…』

ほっとしたはずなのに寂しくて…、これで元に戻るだけだ。それなのにカフェテリアから引き返すのが切なくて…環のことが頭から離れなかった。

環のことは忘れよう。自分に言い聞かせた。

それから暫くして変な視線を向けられているのに気付いた。どうしたんだ?カフェテリアに行くと、向こうの連中が陽平の方を見てヒソヒソと何かを喋っている。

『あいつ…』と、険しい視線を向けられることさえある。

美術学部に従兄弟がいる同級の八坂が教えてくれた。お前大変なことになっているぞ。美術学部の入り口の回廊に行ってみろよと。

陽平は言われるまま行ってみると、そこに一枚の絵が飾られていた。

『これ……』

新緑の木立を背に雨に濡れて立つ陽平の姿を描いた絵だった。噂の元…?だった。この絵を見て、みんなが噂していた。

『どうして……』

那須のホテルの遊歩道の先で、環を見つめている時の洋平だ。

講義の間に、一気に環がこの絵を描き上げたのだそうだ。モデルのポーズとはまるっきり違っていたが、『環くんがこんな絵を描くようになるとはね』と、野上教授が気に入って回廊に飾ったのだと言う。それからだ、幸岡環に虫がついたと噂が流れ始めたのは…

『俺なのか…』

そう思うと最近のカフェテリアでの周りの態度の理由が理解出来た。

虫…だけどまさか…信じられない。環がどうして俺を描いたのか?いや、それよりも虫が俺って、環がそう言ったのか?

理由を誰か分かりやすく教えてくれ。信じられない…そう思ってその絵を眺めていたものだ。

………あの時のことを考えると未だに不思議な気分になる。

今なら分からなくもない。でも、相手が俺だなんて少しも考えられなかった。それほど、あの頃は環という人間のことが理解出来なかった。

今なら分かる。イメージの中に入ってしまうと、他のことは考えられない。ここにいても、意識はここにはない。それでも良いよ。そばにいる。その意味が今ならよく分かるから。


……差し込んだ外の光が床に影を落として、床の濃淡が懐かしい風景画のように見えていた……、何処か懐かしい街並みを浮かび上がらせている…、環は意識をその陰影に注いでいた。

「…音楽聴いてもいいか」

その言葉にハッとして顔を上げた。

陽平がまたかと、横目で呆れたようにこっちを見ている。

「……ああ…」

そう返事して、もう一度床を見たがただの床に日が差し込んでいるだけで、あの風景は現れてこなかった。頭の中でもう一度思い出そうともしてみたが上手くイメージ出来ない…何か遠いところに誘われていたような余韻だけが残った。環は大きく息を吐くと陽平を見た。

呑気な顔をして…

陽平は二度寝する気も失せたらしく、頭を掻きながらオーディオのリモコンを取ると、スイッチを入れた。

ビートルズ、音を少し絞って掛けた。いつもの音だ。

環はコーヒーカップを持つと、席を立とうした。

「どこ行くんだ」

陽平が声をかけた。

「部屋だよ、もう少し描いてくる」

環の残したトーストを齧りながら、陽平は座ってくれと、手でゼスチャーをした。促されるまま、環は椅子に腰を下ろした。

「昨日、野上先生から電話を貰ったよ」

「そう…」

やっぱり、その話か…

「断ったんだって」

「ああ…」

「良い話だから、俺から説得してくれってさ」

「無理だよ…」

「だろうなぁ」

ビートルズの一曲目の曲が終わり、二曲目が始まる一瞬の間が空いた。

その瞬間に、陽平の気持ちが入って来る。

「……」

野上先生は環の大学の恩師だった。環が中学生の時から絵の指導を受けている。院で修士を終了して、博士課程に行く前に台湾の予備校で油彩を教えてみないかと言ってくれた。講義は英語で、一年間だけの特任講師だ。条件だって格段に良かった。受ければ、博士課程の三年間が楽になる。

受けた方がいいのは分かっている。

声をかけてもらえるだけでも有難いことなのに…、いつまでも野上先生が声をかけてくれるとも限らない。大学に残っている以上は当たり前のことだ。

絵を描きたいだけでは生きてはいけない。

そんなのは分かっている。我儘だと言うことも…皆心配してくれていることも…だから答えたい。

教えるのは…多分、嫌いじゃ無い。でも、気持ちがまごついている。自由に描けなくなるような気がして、期待された返事が出来なかった。

「すまない」

「なんで謝るんだ」

「頑張ろうとは思っている…」

描いて行くためには生計を立てなきゃ、だから最大限の努力は、したいつもりでいる。

「無理出来るタイプじゃないだろう」

陽平はどんな時も人を責め立てるような言い方はしない。

「……」

そうだけど、でも、いつまでもこのままでいられる訳でもないことは、自分でもよく分かっている。

ビートルズの曲が、沈みそうな気持ちを支えてくれていた。

去年の今頃も似たような話しをした。ニューヨークの美術館に一年間誘われた時だ。その時もこうやって陽平とこの台所でコーヒーを飲んだ。行った方がいいのは分かっていたのに……どうしても行くとは言えなかった。

『箔がつくんじゃないのか」

『今は行きたくないんだ…』

『そうか…」

それだけの……ただそれだけの短いやり取りだった。あの時も野上教授から陽平は電話を貰っていた。きっと今回同様、説得してくれと言われたに違いない。だけど、連絡があったと言っただけで、行った方がいいとも行かない方がいいとも言わなかった。

『したいようにすれば良い』、結局はそう言うだけだった。

「陽平……」

陽平は目を閉じたまま頬杖ついている。

雨上がりの地面に反射した朝陽が陽平の顔を照らしていた。

今日は特に湿気った煎餅みたいだ……笑えるほどクシャクシャだ…だけど……この顔好きだ。

真剣に考えなければいけない時なのに、環は目の前の陽平から目が離せない。

もう、何年も見つめているはずなのに、まるで見飽きると言う事がない。暇が有れば視線で追っている。

環が陽平と出会ったのは、大学の医務室のベッドの上だった。環が目を開けた時に、心配そうに覗き込んでいる男がいた。それが陽平だった。今でもその時の陽平の目が忘れられない。

四科の細い男がいきなり何か訳の分からないことを叫びながら首を締めてきた。首を絞められて苦しくて気が遠くなっていった。

次に、誰かに名前を呼ばれて、目を開けた。そうしたら目の前にいたのが陽平だった。

医務室の先生に大変だったわねと言われた時も、陽平は心配そうにこっちを見つめていた。

「誰だろう…」

そう思って、陽平から目が離せなかった。本当に目が離せなかった。いつまででもあの目を見つめていたい、そう思っていた。その時はそれがどうしてなのか理由が分からなくて戸惑ったけれど…

多分、あれは刷り込みだ。死ぬのかと思った状況から目を覚ました時に、一番最初に目にしたのが陽平だったのだから……、お伽話で惚れ薬を飲んで一番最初に目にした人に恋をすると言うあれなんだ…きっと…そうでなかったら理由が分からない。

その証拠に、陽平の姿が頭から離れなくて……、四科のあの男とは目を合わせるのも嫌だったのに、何故かカフェテリアや図書館に行くと陽平を捜した。

生活色彩学Ⅱの講義の時に、君に用事があったのに会えないのは困ると言ったら、陽平はおかしなことを言うやつだなと笑って「連絡先交換してくれないかと素直に言えばいいのに」と、携帯を差し出した。


〜*〜


僕はそれが嬉しかった。

それから携帯の着信履歴が気になってしようがなかった。

何日か経つと陽平の顔が見たくなる。

どうでもいいようなことで陽平に連絡した。

永遠にあの目のまま僕を見てくれていたらいい…そう思う。


真面目な話をしている…こんな時でさえ、環は頭の中で陽平の姿を写している。目、眉、鼻、頬から顎にかけて、顎のライン、頬づえ付いている手の形、そこに伸びている腕、首…、頭の中の鉛筆が勝手に描いていく。

「……陽平」と、頭の中で呟いていた。

陽平には聞こえていない。

目を閉じて頬杖ついて何を考えているのだろう。思考の中まで写したい。

「今…何を考えている…」

風が少し暖かくなった。

「……」

何か言ったかと、チラッと陽平が片目を開けた。

視線が合って、今度は何しているんだと…呆れている…そんな表情だ。

いつまでも、好き勝手に描いているわけにも行くまい、そう言われる。

それはそうだ。でも、他には何も出来ない。

去年の夏、台湾にスケッチ旅行に行った。日月潭湖畔のホテルに、数日間泊まりスケッチをした。その時、現地の美術大学の張先生を紹介されて、滞在中は、張先生と一緒にスケッチをして回った。日本語の上手な、とても穏やかな人だった。そして、とても潔い線を描く人だった。

半年以上経って、張先生から特任講師の話しが舞い込んだ。一年間だけだけど、台湾の予備校で学生に教えて欲しいと。美術学部の色彩学のクラスだ。油彩の指導も含めて。いつまでも、大学で描いているわけにも行くまい、そう言われる。それはそうだ。海外に行くチャンスを与えられているのに、これ以上断るわけにはいかない…

こんなにいい話は、滅多にあるはずがない。だけど……やっぱり離れて描いていく自信がない。

「ごめん…」

やっと言葉が出た。

「じゃあ、仕方がない」と、陽平が言う。

「それでいいのか…」

環は訊き返した。

「どうにかなるのか?」

頬杖をついたまま陽平がこっちを見て言う。

「……」

環は答えられずに陽平を見たままだった。

「だろう?だったら仕方ないさ」

「……悪い…」

「やっぱり、現実味が足りないなぁ」

そう言うと陽平は、コーヒーカップを持って、居間のソファーの方へ行った。

「……」

努力したいと言ったばかりなのに、結局こうなるんだ。また、陽平に負担をかける。院を出るまでまだ当分かかる。その後は…どうしているだろう……、何か変わっているのかなぁ……陽平がもっと草臥れていたらどうしよう……

環は残りの半分の雨戸を開けて、庭に出た。

庭の山茶花の木の下に、クリスマスローズが花を付けていた。

湿った地面の上に、俯き加減で咲いている、半透明のグレーがかったグリーン。目立って主張はしないのに、存在感のあるシルエット。雨粒に濡れているところが不思議に光沢を放って綺麗だった。

環はいつの間にかそこにしゃがんで、それを眺めていた。

「環、ほら」

その声で我に返って、背後を振り帰ると、陽平が窓からスケッチブックと木炭を差し出している。

「ありがとう…」

それを受け取ると、空で描いた頭の中のスケッチを紙に写した。

洋平はそれを背後から眺め、「仕様がないなぁ…」と呟くと、部屋の中に入って行った。

洋平から言わせると、急に気配が消えて、どうしたのかと気になって様子を見に行くと、お前はいつもじっーとして、でも右手だけは細かく動いている。あー、絵を描いているんだなと、分かるようになるまでだいぶ時間がかかったと、一緒に暮らすようになってしばらくしてそう言われた。

三枚のスケッチを描きあげた時には、朝はもうだいぶ時間が過ぎて、光は熱に変わっていた。庭の萩の葉から陽炎のように湯気が上がっっている。

部屋の中に入ると、洋平はCDを掛けっぱなしで、ソファーに横になって眠っていた。

「どっちが仕様がないんだか…」

環はアトリエに行き、描き上げた三枚のスケッチを広げたて見た。悪くない出来だった。だけど…

「ごめん…」というと、三枚のスケッチをゴミ箱に入れた。

それから、描きかけのカンバスが置かれたイーゼルの前に立ち、洗筆用のオイルを新しく変え、パレットに絵の具を出した。

画商の篠崎さんに頼まれた二十号の風景。これを仕上げれば、家の税金くらいにはなるだろう。洋平はきっと昼まであのままだ。

環だって、この家の経済を考えていない訳ではない。生活していくのには、思う以上にお金が要る。収入が無くても、税金や保険は容赦無く請求される。

環の収入は、陽平が払ってくれる下宿代と、篠崎さんから依頼のあった絵の代金くらいだ。それで、大学院の学費と画材、生活に掛かる費用を、捻出しなければならない。正直、足りてないのは分かっている。それを、陽平がカバーしてくれている事も、分かっている。

この家は祖父が建てたものだから、もうだいぶ古いのだ。馴染みの大工が時々見に来てくれて、傷んだところを勝手に修理して帰る。それで、快適に暮らしていける。でも、ただって言うわけでは無いのだ。年末に請求書が届く。

植木屋だってそうだ。祖父の代から来てくれている。だから、環の代になって勝手に断ることは出来ない。

それだって、結局は陽平が捻出している。裏庭を駐車場にしないかと、この前、駅前の不動産屋が来て…そんなことを言った。断ったけど、そうした方が良いのかなと迷ってしまう。その話を陽平にしたら、

「裏庭が無くなって平気なのか…」と、言われた。イヌマキの木も楓も蘇芳の花も窓から見えなくなってしまう……

いつも現実は、環の両肩をグッと抑え込む。

もっと注文を引き受けてくれると助かるんだけどなぁ…画商の篠原さんは言ってくれる。今度絵を持って行ったら、注文出来るだけ引き受けますと言ってみようか。

大きく溜息を一つつくと、環はゴミ箱を見た。こんな感情を封じ込めてしまったのだ。三枚のクリスマスローズのスケッチ。

「ごめん…」

自分で決めて、生きて行くことは、負担も伴う。それを、周囲が反対したり無理強いしたりしないから、尚更、素直でいられる事が余計に辛いと思う。身勝手なことだ。反対されてそれに反発してみたいだなんて…結構行き詰まっているのかなぁ……目の下にクマの出来た陽平の顔が浮かんだ。

「描き上げよう…」と、カンバスに色を重ねた。

アトリエの窓から入る光の光度が増した。

光が乾いて、朝日が人馴れして来たみたいだ…乾いたら篠原さんに連絡しよう。

居間ではビートルズの音が流れている。

聞いていた人間は寝入っている。

目の下にクマ作って…仕事大変なのかなぁ…そう思って見ると、環はそっと陽平を起こさないように唇を重ねた。

「このままじゃ…またコンクール期限に間に合わなくなりそうだから…大学に行って来るよ…」

本当はこのまま洋平の寝顔を見ていたかった。

ソファーで眠り込んだままの洋平に毛布をかけると、環は家を出た。

坂を少し下って、信号のある通りに出る。そこを右に曲がり暫く歩くと、交通量の多い大通りに出た。その通りに沿って二十分ほど歩くと、塀に囲まれた緑の塊が、目の前に現れる。そこの塀の切れ目に鉄の門扉があり、その中に入っていく。

木立の奥の白い建物、そこに美術学部の第二教室があった。自宅から歩いて三〇分ほどの距離だった。

環は大学の第二教室、この教室で絵を描くことが好きだった。高い天井に、美しくカーブを描いた漆喰の壁、黒く鉄枠のアーチ窓、絵を描く為に作られた空間。

簡素な造りなのに粗さを感じない丁寧な作りが伝わる建物だった。

床の上には飛び散った絵の具がこびりつき、鉱石の顕微鏡写真のようにも見えた。

廊下で何人かにすれ違っただけで、流石に日曜日にこの教室には誰もいない。

一人で教室に風を入れながら、作品展の準備に取り掛かろうと思ったのだ。五十号と百号のキャンパスを両方用意した。大きい方が見栄えがすると言われたが、正直、五十号で描きたい気がしていた。だから…両方持ち込んで考えることにした。

モチーフはどうしよう。今浮かぶのは…、クリスマスローズ…、ダメだ…やめよう、まだ気になっていたんだ。

環は野上先生の部屋がある教授棟に向かった。

多分、先生は来ている。そんな気がした。部屋をノックすると返事があった。

「幸岡です」と中に入る。

「そろそろ、来ると思っていたよ」

大先輩の威厳で迎えてくれる。

「先生もお出でだと思いました…」

野上先生は机に向かって、先月出版したコローの新しい解説書に目を通していた。

「張先生から話がきた時にね、君は断るだろうと思っていたんだ。だけどね、そう何時迄も、かわいい教え子を籠の中に入れとくのもどうだろうと、思ってね。君の身元引き受け人君に、連絡させて貰ったよ」と、野上先生は穏やかに言葉にした。

「申し訳ございません…」

「色の配合を真似できる人間は、僕らの中ではいくらでもいるよね。でもね、色彩学のクラスには、工学部や物理学科の学生が来る。その生徒さんたちにも、説明できなきゃいけない。だからね、君が最適だと、僕も思ったんだよ」

「……」

「君の身元引き受け人君も、確か工学部だったよね」

「はい」

「フィルムの会社に勤めているんだったよね」

「はい」

「駄目だよね」

「スミマセン…」

「落ち無しか、そう、仕方ないね。じゃあ、暫く僕の助手だ。ゼミの時に色彩学を僕の代わりに説明してよ。それなら出来るでしょう」

「……」

返事ができないでいる環の様子を見て、野上先生は髭を触りながら言う。

「ふうん…張先生になんて言い訳しようかなぁ…気が乗らないから行きませんと言われてね…って言ったら、張先生なんて思うだろう…」

「…そんな……分かりました。……やらせていただきます…」

「そう。良かった。よろしく頼むよ、来月からね」

「はい…」


教授室を出て、渡り廊下に向かう階段を下りながら、環は胸をなでおろしていた。ゼミ生に説明するだけだったら、それくらいなら大丈夫だ、そう思うと気持ちが軽くなっていくのが分かった。

「…良かった…」と呟いた。

環が出て行った部屋で野上は苦笑いを浮かべていた。

「やっぱり……ダメでしたか」

離れられませんかと、部屋の壁にかけられた一枚の絵に視線を向けた。

野上の目の前には、右腕を頭上に伸ばし、左腕を頭の後ろに回しポーズを取った、五十号の油画があった。

環君が僕の画塾にやって来たのは中学に入ったばかりの頃だった。一目見て上手な絵を描く子だと思った。しかし、人物を描かせるとモデルの感情もそうだが、自分自身も人に感情移入なんてありえないという突き放した所のある絵を描いていた。それはそれで純粋で頑なで美しかった。人には興味がないようにも見えて、将来的に今ひとつ心配だったけど、画塾で面倒を見るのを引き受けた。それが……良い絵描きになった。才能があっても気持ちが枯渇したり、目標を見失ったりして去って行った子どもたちを多く見てきた。

この子は幸運な子だ。巡り合ったのだから…本当に幸運なことだよ…と、野上は目の前にある背中を向けた人物画をもう一度改めて見た。

「……抑えた色を使っていても、環君がどんな気持ちで描いていたか伝わってくるようだ……環君がこんな絵を描く日が来ようとは……僕も歳をとったものだよ」と野上は目を細めた。





〜*〜


環は教授棟を出ると、渡り廊下から隣の第一学舎に入り長い廊下を歩いた。

人気の無い学舎の廊下は暗い。戦前から残る長いコンクリートの廊下、半円形に化粧した梁が目を惹く。古い建物特有の静かで堅固そうな空気があった。

「静かだ…」

第一学舎の階段の下、廊下を照らす電球の灯り。オレンジ色の光子の集まり。

環はその電球の真下で立ち止まった。電球からオレンジ色の光が降り注いでくる。環はその光の粒の中に隠れるのが好きだった。

影を残したままのほの暗い世界が、空間ごと包み込んで、その中に漂う瞬間。現実世界が消える。ここはそんな場所のひとつだった。

オレンジ色の電球の光から仄かに熱を帯びた光子のシャワーを浴びる。目を開ける直前に陽平の笑顔が見えた。

「もう…目を覚ましたかな」

家を出て来た時の洋平の寝顔が浮かんでいだ。キスしても目を覚まさなかったな……

長い廊下を歩いて、外に出た。外は大きな樹木が繁っている。

枝木の間から光が溢れている。昼が近い光だ…自然光は変わることはないね…これから電球が使えない時代になったらどうしよう……もう、あそこで戯れることも出来ない……

「慣れて行くのかなぁ」

進歩と言う言葉の中で、暮らしが気がつかないうちに変わっているように、電球も知らないうちに無くなっているのかなぁ……

光を遮った木立の歩道を少し淋しい気分で通り過ぎた。

人気のない休日の構内を歩いて、環は図書庫に向かった。

ここは以前、作法場として使われていた場所だった。

戦後すぐにはここで女子学生がお茶を点てていた。その後は集会場として使われた。

今は校舎から遠くて木立に覆われて薄暗い場所のせいもあって、あまり人の出入りがないところだ。図書館で扱うには古くなってしまった書籍を、保管しておく場所になっている。

環はこの場所と、ここの古い本が好きだった。

表紙が茶色く変色していて、印刷のインクや字体が明治や大正のものが殆どだった。なんとも言えない味わいがあって、触れているだけでイメージが膨らんだ。

何故かこの図書庫は、学生の管理になっていて、だから日曜でも開いている。

名前も学部も知らないが、ここのカウンターには、もう六年は座っている物好きがいた。

環は古代から中世にかけての本を四冊借りた。今度のコンクールの手がかりになればいいと。

いつ描けて、いつ止まるのか、自分自身でもよく分からない。いつもそうだ。それで、どれだけ周りをやきもきさせただろう。

「陽平……」ダメだ、陽平の顔が浮かんでくる……

昨夜、陽平を起こそうとした時、陽平が腕を伸ばして来た。環は嫌だと拒否った。

酔って帰ってきていきなり抱こうとした陽平に無性に腹が立った。

もう一月以上そう言うことを避けていた。嫌いという訳ではない。ただ、なんとなく最近の陽平の様子が気に入らなかった。

どうして……そのなんとなくが環にもよく分からなくて思考が掻き乱される。

何に引っかかっているのか…分からない。陽平が陽平じゃ無いような感じがして、触られたくなかった。

そのもどかしさで、なんだか落ち着いていられなくて…、本当は陽平の肌に触れていたかったのに…撥ね付けてしまった。

「どうして……」

仕事で何かあったのか、それとも友人関係か…僕の知らないこと……

考えても…答えは出てこなかった。

モヤモヤしたものが胸の中に残る。

絵に没頭していても陽平を忘れているわけじゃない。本当は毎日だって見ていたい。でも、そんなに器用じゃ無いんだ。

どっちも考えていると、どっちにも集中できなくて…何も出来なくなる。

それで以前、野上先生から推薦をもらった展覧会への出品を流してしまったことがある。

「もう、君に推薦は出さないよ、今度は眞喜子君にするから。どうせダメにするんだったら、可愛い子の方が良いからねぇ…」とその時、野上先生に言われた。

「そうなんだ…」

だから、今は絵のことだけに集中したい。

だから、日曜の朝から大学に来たのに…このテイタラク…僕はもう駄目かもしれない。素直に陽平の胸に飛び込めばよかった。でも、あの目の陽平はイヤだった……

テーマを後三日で見つけなければ、正直厳しい日程になる。絵が乾く時間を考えると、本当は今でも厳しい。

第二教室に戻ると、カンバスの前に座った。

カンバスを見つめるが、何も浮かばない。

「今度も長引くのかな…」自分の事なのに、自分に訊いている。

気がつくと夕方迄カンバスの前に座っていた。

「……ふう」大きく息を吐いた。

なんだか頭が疲れている。

日曜日の夕方に一人で教室にいるのは寂しい。

廊下の向こうから、オレンジ色の西日が長く斜めに入って来る。

もう、人の時間は終わりだよと、言われているかのようだった。

西陽に黒っぽい紫が、少しずつ増えていく。環は何かに急き立てられるかのように、片付けを済ませると、教室を出た。

図書庫で借りた本を持って。

こんな時は一人でいたくない。人の姿が恋しい。大学の門を出ると人が大勢歩いている。なんだかそれにほっとして、流れの中に入る。

歩いていても少し肌寒くて、いつも行く大学近くの喫茶店に立ち寄った。

カランとベルが鳴り、その音の響きを聴きながら、吹き抜けの店内の二階へ上がって行く。

環は二階の右側の席に、腰を下ろした。

バイトの女の子が注文を取りに来て、ウィンナーコーヒーを頼んだ。ちょっと疲れたと、ソファーに背中を持たれて目を閉じた。

クラシック音楽が流れ、コーヒーやトマトソース…の匂いがフワッとやって来た。

ここの喫茶店の壁には、野上先生が学生の時に描いた楓の木の絵がある。

当時付き合っていた女性に振られて、死にたいと首をくくる木を求めて、描いたのだそうだ。描いた時は、本気でその木で首を吊ろうと、思っていたらしい。野上先生らしい…

毎年新入生は、その逸話を耳にすると、その絵を見にやって来る。そして、皆、その首を吊る為に描いた樹を目にすると、何故か学生は目をキラキラさせて店を出て行く。

今では信じられない程しっかりと描き込まれている楓の樹。

「あれでもけっこう一途だものなぁ」と、環は今の野上の顔がだぶって、少し力が抜ける。

今は昔みたいに精力的に描いてはいない。年に二、三点描けばいい方だ。それも気が向いた時にひょいひょいとカンバスに線を入れて、ハイ出来上がりと言っている。四十号の作品に一週間かかってないじゃないですかと言うと、これが僕の画風だものと、当たり前のように言う。

筆が止まるといつもここに座って楓の絵を見る。

今の緩んだ空気の中で、そこだけ真っ直ぐな時間がある気がした。素直に自由で…あんなに真剣に傍迷惑な絵。絵を描きなさいと言ってくれる。

僕もあんな絵が描けるような人になりたい。

そう思う時だけ野上教授は偉大に思えた。

普段は口髭にコーヒーの泡を付けたまま講義をしているような人なのに。

借りた本のページをゆっくり捲りながら、ウィンナーコーヒーを飲んだ。そして、一時間ほどして、店を出ると、ゆっくり歩いて家に向かった。大通りを左に曲がり、なだらかな坂を登って行くと緑が多くなる。


〜*〜


「……」

暗くなった道路から、玄関の灯りが灯っているのが見えた。

「ただいま」と、ドアを開けて中に入る。家の中に良い匂いが漂っている。台所に行くと陽平が天ぷら蕎麦を作っていた。

「本当にお前はいい所に帰って来るよ」

丁度出来上がった所だったらしい。

揚げ上がったばかりの舞茸と海老の天麩羅があった。

「着替えてくるよ」

一日中大学の教室にいて油の匂いが染み込んでいた。この匂いは嫌いじゃないけれど、教室での気持ちを引き摺りたくなかった。

着替えて台所に行くと、どんぶりから湯気が上がっていた。

「いい匂い…」

「そうだろう、鯵子で出汁を取ったからな」

いつもの陽平がいる。陽平がいつもの陽平に戻っている。明るいライトグリーン…の空気だ。力んでいたものが一度に緩んで顔がほころんだ。

「どうしたんだ?…」と、陽平が変な顔をしている。

「いいや…」

そう小さく呟いて、陽平を見た。

「なんだ?」

「いや、何でもない」

「…そうなのか…まあいい、座ったら」

突然一昨年前に行ったオーストリアの景色が浮かんで来た。木立の間から見える…緑の牧草、果樹園、雲…空…風…、遠くにある赤い屋根の民家…。そこに明るいライトグリーンが重なる……

「仕方のないやつだな…天麩羅蕎麦を見ながらトリップか…」

「………」

環はダイニングの椅子に腰掛けて…じっと目の前のどんぶりを見ている。

「ああー、仕方ないな…」と包丁で蒲鉾を切り、「いいのか、描きに行かなくて」と、陽平は菜箸に蒲鉾を挟んだまま言う。

「…大丈夫」

環はそう答えていた。

「本当かぁ、後で思い出せないなんて大騒ぎするなよ」と、陽平は天ぷらを盛った皿をテーブルに置いた。

環は「大丈夫だよ…」と箸を取った。

「…それならいいけど」

陽平も椅子に座ると「いただきます」と、どんぶりを持った。

フーフーと言いながら、二人で天麩羅蕎麦を食べた。陽平は海老の天ぷらが好物なのだ。環はどちらかと言うと舞茸の天ぷらの方が好きだった。

「おいしい」

「そうだろう…」と、嬉しそうに言う。

陽平はあの後、目を覚ましたら、昼がとっくに過ぎていた。

居間に一人きりで目が覚めると、妙に寂しくて何かに化かされた様な変な気分だったという。

じっとしているのも嫌な感じで、仕方がないから掃除をして夕飯を作ったのだそうだ。

「何か、お前が帰って来たのを見たらほっとしたよ」と、陽平は言った。

居間のソファーの上に綺麗に畳まれた毛布が置かれている。畳まれた毛布から陽平の気持ちが伝わってくる気がする。

それは、日曜の午後だからだよ…

環が家の灯りを見て安心したのもそうなんだ、きっと。陽平が家にいると思うだけで、ドアのノブを回すのが嬉しかった。

家の中は人気のない大学の教室と違って、人の温もりが満ちていた。

環はなんだか、すーっと気持ちが着地したような心持ちになった。

「僕もだよ…」

夕飯の後、陽平は洗濯物からワイシャツを取り出すと、アイロンをかけ始めた。

環は台所の椅子に座って、それを眺めていた。

陽平は社会人になって、学生の時よりも、難しい表情をすることが増えていた。でも、やっぱり陽平は陽平だ。なんだか、そう思えた。

「そう言えば、さっき、野上先生から電話があったよ」と、陽平はアイロンをかけながらこっちを見た。

「…何て」

「結局、ゼミの手伝いをするんだって」と、陽平は言うと、こっに来た。

環を抱きしめると、さっきからじろじろ見過ぎだと唇を塞いだ。

抵抗もせず素直に陽平のキスを受け入れている環に「抵抗しないのか」と、聞いた。

「もう少し…」そう言うと、環は目を閉じた。

触れてくる温かな唇の感触に、体のこわばりを溶かされて行くのが分かる。両手で顔を挟むように持たれ、陽平の手の暖かさと息を塞ぐ唇の熱が、たまらなく恋しかった。

「陽平…」と喘ぐように呟き、シャツを掴んだ。陽平から体を持ち上げられ、ガタガタッと立ち上がると居間のソファーに倒れこんだ。焦れったい手付きでシャツのボタンを外し、その間から陽平の指が入ってくる。喉の奥まで舌が入ってくるような激しいキスに体が仰け反った。



「息が…苦しい…っ……」

仰け反った環の肩を掴んで胸を開く。

「……陽平…少し…落ち…ついて……」

「…無理だ……」

そう言いながら陽平はもう、鎖骨の下を強く口で吸っている。

「…痛いよ……」

環の抗議など耳を貸さず、構わず鎖骨の下ばかり吸ってくる。赤く跡が付いてもまだやめようとしない。

「陽平…もう…痛いって…」

「これからまた、どうせ待ちぼうけなんだぞ。一ヶ月でも二ヶ月でも跡が消えないように…残しとかないとな」

もう鎖骨の下は一弁の花びらのように陽平が吸ったところが血が滲んでもおかしくないほど真っ赤になっていた。それを満足気に見ると、そのまま唇は少しずつ下に這い降りていった。胸を開かれ硬くなっていた部分をくすぐるように唇で先端を触れる。まどろっこしいだけの中途半端な刺激に我慢出来なくて、陽平に体を押し付ける。陽平はそれを待っていたかのように貪るようなキスを繰り返した。

その間も陽平の指は肩から胸、脇腹を撫で、体の中心に伸びて、環のものと陽平のものを一緒に扱き合わせる。

「……あっ…あ…」

陽平のものと一緒に握られ、絡まり、陽平のことしか考えられなくなって……余計に感じてしまう。

「……もう…陽平……」

最後に強く扱かれ…頭の中が真っ白になって……

気がついたら陽平の部屋のベッドの上だった。

「……んっ…どうして…」

「いった瞬間意識とばしてた…」

「…うそっ…」

「徹夜ばかりするからだ…無理するなよ…」

そう言いながら、首筋に唇を落とす。

「うん…、もう……」

陽平こそ…そう言いながら、やってることが違うよ。

「それから先は聞けない」

そう言うと、陽平は環の口を唇で塞いだ。

陽平の唇は体の下の方に徐々に降りて行って、触れられるところが熱くて痺れていくようだった。

「ダメ…だよ…」

唇を這わせながら「一ヶ月以上だぞ…」と言う。

誰のせいだよと思いながら、陽平の指と唇が強く身体中を這っていく。その刺激に我を忘れそうになり、他のことなんかもう…考えられなくなっていた。

「陽平……」と助けを求めるように腕を伸ばす。

「まだ…だめだよ…」と言われながら、陽平が中に入って来る。苦しくて……回した腕に力を込めた。

「もう…」

陽平は「愛している…」そう何度も囁いている。

徐々に動きが激しくなって…陽平の感情が流れ込んでくる…お互いの波動が呼応して掴んでいた環の腕が宙に落ちても…陽平は繋がりを解こうとはしなかった。

…動きが止まって…息遣いが静かになっても、二人は抱き合ったままだった。

「……」

環は陽平の胸の上で目を閉じている。

「環、眠ったのか…」

「いや…」と、環は顔を上げ陽平の顔を見上げると小さく首を横に降る。

「勝手なやつなんだから……」

そう言って陽平は環の髪に軽くキスをする。

目を閉じると……瞼の中はライトグリーンの光がいっぱいだった。このままでいたい。陽平の背中に腕を回すと、ギュッと力を込めた。

環の重みを感じながら陽平が「機嫌直ったのか…」と、呟いた。

「……いつも…一言余計なんだよ…」

揶揄うように笑った陽平の顔があった。

外の雑音に塗れていた顔じゃない。あの時、医務室のベッドの上で見た、陽平の目だ。…良かった…そう思えた。

「環…起きるよ…」

陽平はアイロンが途中だったことを思い出した。

「もう少し…陽平の胸の中で目を閉じていたい」

「しようがない…」と言うと環を抱きしめた手にやさしく力を込めた。

居間に行くと、陽平は台所で水割りを作ると一つを環に渡した。

「アッチッ」

いくら温度センサーが付いているとはいえ何時間も付けっ放しにされて、アイロンの取っ手は素手で持てないくらいは熱を持っていた。それをタオルで包んで持つと、陽平はシャツにアイロンをかけ始めた。

「…野上先生、なんて言ったんだ」

居間のソファーに身を委ねるように深く座って、水割りのグラスを口に当てていた環が、夕方の野上先生がかけて来たと言う電話の内容が気になったらしく尋ねてきた。

「教えることになったんだって…」と、環を見た。

「…ああ、そのこと…だけどゼミだけだよ」

手に持ったグラスの中の氷を眺めたまま答えた。

「いいじゃないか。何たって、環の説明は結構分かりやすいからな」

「他人事だと思って…」

「環こそ…俺に何か言うことないのか…」そう言うと、陽平は水割りを少し口に含んだ。

「……無いよ…」

「素直じゃないね」と、またアイロンをかける。

陽平は環が気紛れでヘソを曲げていたくらいにしか思っていなかったのだろう。

今更言うことなんか無いよ…、陽平が少し陽平じゃなかったなんて、どういう言葉にして言えばいいのか分からないよ。もういい…、陽平のライトグリーンの光が戻ってくればそれだけで良い。これで安心して描ける。本当に今夜から本描きが出来る……

「まったく…」と、陽平は素直じゃない恋人に呆れたように言う。

陽平はワイシャツのアイロンをかけ終えると環の横に来てソファーに座った。

陽平は肩に腕を回し嬉しそうに笑っている。

これで良かった、空気まで笑っているようだ。思い悩んでいたのが嘘みたいだ。この空気の中なら何だって描ける。そんな気になれる。

膨らむライトグリーンの光…………

「…でもさ、野上先生はどうして今だに俺のことを、身元引き受け人君って呼ぶんだろうな、俺もお前と一緒に野上先生の色彩学の講義受けていたのにな…」

それはきっと野上先生の中ではそう言う括りで記憶されているから……野上教授はそんな人だ。それに、野上先生が陽平に電話を掛けて来るのは、きっと陽平を気に入っているからだ。それも結構…

「俺、頼りにされているのかなぁ…」

「陽平の方こそ機嫌直っているじゃないか」

環の脳裏には一枚の光景が浮かんでいた。

「まあな…」と、陽平は台所へ行くとグラスにウイスキーを注ぎ足した。

「…作品展の題材決まったのか」と、思い当たったように、台所から声をかけて来た。こんな時の陽平は感がいい。

「まあ、だいたい…」とだけ、環は答えた。まだあまり口にはしたくなかった。

「間に合わないって俺に当たるなよ…」

陽平はグラスを飲み干した。

「放っておいてくれ…」

「そういう訳にはいかない。俺は、お前の身元引き受け人君だからな」

そう言って隣に来ると、肩を引き寄せて環にキスをした。

「しばらくまた、お預けだからね…」

「酔っただろうう…」

陽平が髪を触る手がやさしかった。くすぐったいような柔らかな…幸福。甘やかされているような有り余る愛情を感じて、環は陽平の腕の温かさを感じていた。

環はアトリエに行き、カンバスの前に立つと、さっきのイメージをスケッチに移した。

ライトグリーンの絵具を手に取った時、陽平の肌の温もりが蘇った。

「陽平………」

体の中が熱くなって…熱が全身から溢れ出る。

初めて陽平と抱き合った時はこんなことをするのかと正直言って幻滅をした。でも、陽平を見ているとやっぱり一緒にいたくなって、愛し合うって…美しいことばかりじゃ無いっていうことを知った。それは男だろうと女だろうと違いはない。陽平だったと言うだけのことで……でもやっぱり好きで、一緒にいたい。他の誰といてもあんな感情にはならない。どんな時の陽平でもそばにいれば安心して気持ちを飛ばすことができる。それだけ、陽平がそばにいてくれれば無防備になっても構わないと思える。

陽平の存在を感じている、それだけでいい。何でもできる気がするから不思議だ。どんなことをしてもあの陽平の眼差しで見ていてくれると、それが嬉しくて、全てを晒してしまうのだ。陽平にもう隠し事はない。無いというか…陽平の前で隠し事なんか出来ない。する必要がないと思える。陽平も同じ気持ちでいてくれると嬉しい。

いつも一緒にいたい。だけど、それは難しい。違う環境で時間を過ごしていることが、お互いをもどかしくしている。すれ違ったり、食い違ったり、でもそれは仕方のないことなのだ。陽平を家の中に閉じ込めて自分だけのものにすることなんて出来ないし、やりたいとも思わない。別々の場所で過ごしているから家に帰ってきた陽平の顔を見ると嬉しくなる。時々曇るけど、陽平は今のままの陽平だから良い。だから、一緒に暮らしていける。多分、それは陽平だって同じように思っているはずだ。

「これを元に描こう…」

目の前のスケッチを眺めて、そう決めた。

今後は間に合いそうだ…陽平のあの目を見ていられれば……陽平は変だと言うけど陽平の目を見つめてキスするのが一番好きだ。…不思議だけど…そこは僕にとってとても心地いいものなんだ。だから…その目を見失うと、僕はどこに行っていいのか分からなくなる。

今夜はなんだか全てが進んで気持ちが軽くなっていた。

「良かった……」

そう呟くと環はアトリエを出て、陽平の部屋をノックした。

ドアが開くと「明日から本描きに入るよ…」とだけ言葉にした。

「そうかっ…」と、笑いを噛み殺しながら陽平は言う。

環は笑いを堪えている恋人の顔を見つめていた。

「それで枕持参なのか…、環…」と言うと、陽平は環を抱き寄せながら部屋のドアを閉めた。

明日からまた、しばらくは陽平には触れられない。

「隣で眠りたい」

その次の日から環は大学には講義のある時だけ出かけ、それ以外は自宅のアトリエに篭った。描ける時に描いて、食事も睡眠も絵を描く間に済ませる。そんな生活になった。

環にとってはいつものことなのだけれど、陽平にはそんな環のことが心配でしようがない。

朝、仕事に出かける前におにぎりを作ってダイニングテーブルの上に置いていたり、仕事から帰ると、こっそりアトリエの様子を伺ってみたり、環の邪魔をしないようにしていた。

環の顔を見るのも環が眠った時だけだった。

「早く描き上げてくれよ」

そう言ってそっと環の寝顔にキスをすると部屋を出るのだった。

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雲のうえを歩く二人 @sijyouinnkurea

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