ユア・ブラッド・マイン―魔なる鋼の創世侵話―
八代明日華
序文『魔鉄暦二〇年 六月十八日』
赤色の空。
乱反射する光の向こうに、血糊を思わす空がこびりついている。
少年は視界の僅かな隙間から見える景色を、直感的にそう表現した。今まで気が付かなかった――いや、『気がつけなかった』、焦げ付いたようなにおいが鼻腔をくすぐる。
どうやら無意識のうちに、戦火の飛び散るエリアまで来てしまったらしい。感覚の薄い手足、はっきりとモノの見えない視界からは、今ここがどこで、自分がどんな状況にいるのかも分からない。よくよく耳を澄ませてみれば、確かに人々の悲鳴が聞こえるような、そうでもないような。
君、そんなところで何をしているんだい、と言われた気がした。どこから声をかけられたのかが分からない。だから、立ち止まらない。いや、立ち止まったつもりだったのかもしれないが、足は進んでいる。進んでいるのだと、思う。自分の足は、動いているつもりでも動いていないことが、多々あったから。
極論を言うなら、少年の四肢は彼の言うことを微塵も聞いてはくれないのだった。『融解』を極限まで拡大解釈したような少年の《オーバーワールド》は、彼から肉体の感覚、その殆どを奪い去っていった。幼いころは真っ当に世の中が見れたような気がするし、そうでもないような気もする。どろどろに崩壊していき、外界と混じり合う少年のイメージは、彼から『自己』という区切りさえも溶け消えさせてしまった。もう少年には、自分が自分のままでいるのか、それさえも良く分からない。
訳も分からず、どこかへどこかへ歩いて行くと、突然、ずずんと大きな音がした。凄く遠く、あるいはすぐ近くで、わっ、と人々の悲鳴が上がったようなきがした。
全身が、下から突き上げるような揺れで傾く。感覚の無い足がもつれる。少年は、自らの小さく細い、幼い体が、むき出しの大地に横転する様を、まるで他人事のように知覚する。
すぐ傍の地面から、料理に失敗した時のような、嫌なにおいがしてくる。ああ、さっきの変な、黒っぽいにおいの正体はこれだったんだな、と、彼は無意識のうちに納得していた。
無論、焦げ付いたのは料理などではない。ある意味では、そうなのかもしれないけれど。
——焦げたのは人だ。
火をつけたのは、キッチンコンロのそれなどではなく、銃火器や《
全世界をその手中に収めた
だって多分、そう長くはない命だから。
そういうことくらい、頭の悪い彼にだって、理解できたから。これでも、直感というものは利くほうなのだ。一応。
怒号と悲鳴が、僅かに聞こえる。こんな時だというのに、少年の視界はどろり、と融解を始めていた。ああ、また発作が来た。最近は粘性の物質に阻まれているような、そういう感覚だけだったのになぁ、と、彼はまた、他人ごとのように内心で呟いた。
聞くところによれば、この嫌な感覚――全身を覆うフィルターのようなモノは、人間の肉体がある次元とは別の次元……そんな荒唐無稽な景色が見えている証、なのだという。
何でも大人たちは、この異世界視の素質を持った子供たちを、血眼になって探しているらしいが……少年は少なくとも、そうやって必要にされたことはなかった。きっと大人たちが求めるだけの価値は、このゼリーみたいな視覚にはない、ということなのだろう。
ああ、今日は一段と、五感の融解が酷い。自分自身が溶け出して、地面の感触と混ざり合ってしまうみたいだ。これが噂に聞く《
ならばここで、自分の一生は終わりだ。
すぐ近くで、例の怒号と悲鳴がまた上がる。鈍い地響きと、フィルターの上からでも分かる熱量が、少年の体躯を襲った。きっと誰かの撃った炸裂弾か、もしくは火炎放射系の鉄脈術が発動したのだろう。どちらにせよ、この場を動けないのならばそう遠くないうちに我が身は黒い消し炭だ。
少年は、瞳を閉じる。走馬灯になるような思い出は、一つもなかった。彼の暮らす貧民街に、そんなもの、種になる出来事ごと存在しないのだから当然だ。
代わりに何か、この期に及んで思い返せることがあるとしたら――それは、閉じてもなお視界を被う、ゼリーのような異物感だけ。昔ほんの少しだけ聞いた話によれば、異世界の風景は、何も物理的に視認しているわけではないらしい。だから瞼を下ろしても、瞳を抉っても、彼の意識がある限り、この粘性のあるフィルターは、永遠に少年を苛み続ける。
ある意味で、魂が見る世界そのもの。自分自身の『存在』と不可分の景色。
ずずん、と、また低い音。
ぱちぱち、という火花の音まで、自分の耳元、流石に聞き取れる程にすぐ近くに聞こえてきた。ああ、今だけは感覚の薄いこの体が頼もしい。きっと普通の人だったら、この熱さに耐えきれず泣き叫んでいたはずだ。
静かに、苦しみもなく逝ける。人間未満の少年にとって、それはきっと、数少ない幸運だったのだろうと、そう思う。
——けれども。
何ということだろうか。
少年は、騒がしさの中で命を落とさなければならなくなった。死にたくない、と、みっともなく叫ばなければならなくなった。
少年は、苦しみと共に死ななければならなくなった。近づく己の終わりに涙を流し、絶望しながらその生涯を閉じなければならなくなった。
だってその日そのときその瞬間。
魔鉄暦二〇年六月十八日、日本時間十五時十八分三十二秒。
少年は、名も無きOI能力者は。
人間未満の幸運者では、なくなってしまったのだから。
「——あなた、生きてるの……?」
おそるおそる紡がれた声は、透き通っていた。からからに乾いていてもなお、元の美しさが分かるほどに、ビックリするくらい澄んでいた。
その持ち主が知りたくて。掠れるままだった少年の視界は、再びはっきり像を結ぶ。
渦巻く焔の、その向こう。『彼女』の銀色の髪の毛は、吹きすさぶ風にあおられ、踊っていた。鏡のように銀色の瞳が、ぱっと見何の感情もなく、自分を見つめていたのを覚えている。
でもその奥には、酷い驚きと衝撃が詰まって乱反射していたのだと、今の自分が見ればきっと、十二分に理解できるだろう。
「生きて、る」
ほとんど聞き取ることの難しい、ひび割れきった小さな声は、自分の喉から何とか絞り出したもの。あの綺麗な声の持ち主を、磨き上げた宝石のような彼女を、無理矢理にでも安心させたくて紡いだもの。
聞くところによればこの世界は、情報で編まれたの
少年の物質界は、彼のイメージが創り上げる霊質界の風景に侵食され、侵略され、どろどろに溶けて落ちていた。自分の姿さえも認識できないほどに、彼の視界は正常な風景を映していなかった。
それでもなお、クリアシルバーの彼女が浮かべた、ほっとした様な幼い笑顔は。
おどろくほど克明に、一切の穢れなく、少年の意識に届いていた。
きっと、人は。
それを、『運命』と呼ぶ。
――その日。彼の中で、これまで積み上げてきた……いや、積み上げさせられてきた何かが、滅茶苦茶に壊されて、創り直されてしまった。
いまだ、オーバードイメージ能力者であることの他、何者でもなかった少年は。
命の使い道を、何一つ持っていなかった少年は。
この世界に、己と言う名の産声を上げてさえいなかったその少年は。
一人の、確固たる『人間』になった。
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