ツグナイノ月
しな
満月の夜に――
「そんなの……間違ってる」
俺の隣に座る少女の声が胸を打った。
辺りに夜の帳が下り、音が消えた静かな国。その国を二つに分断するようにそびえる壁の上に、俺と、声の主であるニーナはいた。
俺は戸惑っていた。今までこんな風に、誰かに自分の身を案じてもらったことなど、ただの1度だってなかったのだから。
中流階級区生まれのニーナとは違い、犯罪や、人攫いの絶えない底流階級区に生まれた俺は、生きるためなら手段を選ばなかった。
『生きるために手段を選ぶな』
これは、まだ親父が生きていた頃に、唯一教えてもらったことだった。だから俺は、生きるためなら手段を選ばなかった。人を不幸に陥れた。盗みを働いた。人殺しだってした。
でも、それは間違いだった。それに気付いたのはつい最近の事だった。
それに気付かせてくれたのは紛れもなくニーナの存在だった。
彼女と出会ったのは、ちょうど、今日の様な満月の夜だった。
金が底をついた俺は、いつも通り金を盗むべく、深夜の中流階級区へと足を運んだ。
路上に所狭しと並ぶ屋台の店仕舞いをしている男が目に付いた。
おさがりのローブのフードを目深に被り直し、ゆっくりと歩み寄る。すれ違いざまに、金の入った袋をかっさらう様にして奪い、全速力でその場から去るも、 金を盗られたせいか、やけにしつこく追い回してくる。このまま警察でも呼ばれれば厄介と思い、振り返ると、男に向けて走り、懐から取り出したナイフを、男の心臓に突き立てる。人の肉を刺す感触。男の口から漏れる呻き声。なんら変わりはなく、いつも通りだった。
その場から去ろうと周りを見渡すと、目の前に、一人の少女がこちらを見て立っていた。
その少女はどこか変だった。普通、目の前で人が死ねば、声を上げるなり、驚くなりするはずだが、彼女は真剣な顔でこちらを見ていた。
彼女はゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。――殺すか? 一瞬脳裏によぎったが、相手には殺意といったものは感じられなかった。彼女は目の前まで来ると、真剣な顔つきで言った。
「ねぇ、どうして殺したの?」
「何を言っているんだ?」
「教えてよ。どうして人の命を奪ったか」
これが彼女と交した初めての会話だった。
「それは……警察が来ると面倒だから。……これでいいか?」
彼女は、少し考える素振りを見せると、「そうなんだ」と一言だけ言った。
彼女の問いに対する回答がこれで良かったのかは、その時は――未だに分からず仕舞いである。
「ねぇ、聞いてる?」
隣で急に聞かれ、驚きつつ首を縦に振る。どうやら、ぼーっとしていたようだ。
「……だからね、私はあなたに死んでほしくなんかないし、そのやり方は間違いだと思う」
「なら……他にどうすればいい?」
長い時間をかけて見出した答えをあっさりと否定され、戸惑っていると、彼女の澄んだ声は続けた。
「あなたが、たくさんの人を殺した罪を償うなら、逆のことをすればいい」
夜風になびく小麦色の髪を耳にかけると彼女は更に続けた。
「もし、あなたが100人の人を殺したのなら、100人の人を救えばいい」
こんな簡潔な彼女の提案だったが、俺を納得させるには十分すぎた。彼女の発言には毎度毎度驚かされてばかりだった。やはり、住む場所ひとつで、人としてかなり変わるようだ。俺も、中流階級の家に生まれていたらどうなっていたのだろうか。手の届きそうな――でも届かない満月を見つめながらそんなことを考えた。
少し前までは満月は嫌いだった。前に親父に聞いたのだが、俺が生まれた日は今日みたいな満月だったそうだ。でも、母さんは俺を産んだ直後衰弱して死んだ。親父が殺された日も満月だった。ニーナと出会った日も同様に満月だった。俺の人生において満月とは、出会いと別れを表すもので、アレが空に浮かぶ度不安を駆り立てるのだ。
「……もうこんな時間。じゃあ私は帰るね」
慣れた足取りで壁から降り、走って家の方に帰る彼女を、壁の上から見送る。姿が見えなくなると、俺も壁から降り、ニーナとは逆方向へ歩く。
未だ舗装されていない砂利道が、ジャリジャリと音を立てる。
少し歩くと、辛うじて家として建っている我が家に着いた。ニーナがこの家を見てどう思うかなんて想像に難くない。最近になって、さらに劣化が進んだ気がする。中に入ると、歩く度に床板が軋んでキィキィと音を立てる。強風でも吹いた日には倒壊待ったなしである。
体をベッドに投げ出し、今日のニーナとの会話を思い返す。本当に今日は、あの短時間で内容が濃かった。
「殺した数だけ救えばいい……」
本当にそれでいいのか? そんな考えが、ニーナと話している時から脳裏によぎっていた。俺は人を殺した。なら、それ相応の報いを受けるべきではないのか。そんなことを考えているうちに決心はつかず眠ってしまった。
「今日、君の家に行っても……いいかな?」
いつも通り壁の上で話していると、すこし頬を赤らめた彼女は今にも夜の闇に溶け、消えてしまいそうな声で言った。
唐突に言われた俺は、唖然として戸惑うことしかできなかった。あくまでも俺はスラム街に、ニーナは中流階級区に生まれた。身分の違いは明白であり、どちらかがどちらかの家に行くのは、身分が違うもの同士の暗黙の了解である。それに、あの廃墟同然のボロ屋敷に人など招けたものではない。
「……分かった」
そんな考えとは裏腹に、無意識で承諾してしまった。しかし、なぜ突然家に来たいと言い出したのか。そもそも、元を辿れば、なぜニーナは俺なんかとこうやって毎日会って話をしているのだろうか。家に行く道すがらそんなことを考えていた。
「なぁ、なんでお前、俺なんかと――」
満月の下で、隣を歩く彼女に尋ねるべく横を向いた時には、ニーナの姿は無かった。慌てて後ろを振り返ると、小柄な中年ほどの男が、ニーナの首元にナイフを当て、拘束していた。ニーナの目尻には数滴の涙が浮かんでいた。
「一度しか言わねぇからよく聞けよ。その子を離せ」
低く、怒りをあらわにした声で、懐のナイフを男に向ける。男は少し怖気付きつつも、笑みを浮かべて言った。
「へ、へへ。今従うべきなのはどちらの言うことなのかな?」
確かにその通りだった。ニーナを人質に取られている以上は下手なことはできないし、下手に刺激してしまえばニーナの命が危ない。
次第に、鼻に湿った空気の臭いが漂ってきた。どうやら一雨くるようだ。そんな思考の刹那勢いよくあめは降りだした。
まだ舗装されていない道路の、泥と化した土を手で掴み、男に向かって投げる。上手く顔に命中し、ニーナを拘束する手が緩んだ。すぐさま走って距離を詰ようとすると、男は叫んだ。
「く……来るなァァァ」
男は叫ぶと勢いよく刃物を振り回した。――ただ振り回しただけなら良かった。男が刃物を振り回し、刃物が掠めたそこからは、先程から降り出した雨に溶けるように、真紅の鮮血を噴き出した。
殺す気は無かったのか、男は慌てた様子で、「俺は悪くねぇ! 俺は悪くねぇ!」と、叫び、足元の泥を跳ね上げながら走っていく。
ニーナに怪我を負わせたアイツの事を許せるはずもなく、無意識のうちに、明確な殺意を持って男を全力で追いかけ――ようとすると、急に、地面が正面に迫ってくる。
「ニーナ……なんで」
走ろうとした俺の足を掴んだ彼女に尋ねる。彼女は、虚ろな目で言った。
「殺意を抱いちゃ……駄目……だよ。殺すんじゃなくて、救うって……決めたんでしょ?」
首筋の大動脈から大量の鮮血を流し、意識があることさえ奇跡のような彼女の、声にならない声でふと我に返る。
「そうか……ごめん、ニーナ」
ただそれだけしか言えなかった。すっかり体温を奪われた右手に、仄かだが、暖かみを感じた。大量に出血し、俺よりも遥かに体温の低いはずのニーナの手だった。
目の前で、大切な人を失いそうになって初めて気付く、人の暖かさを知る虚しさや、やるせなさに涙がとめどなく溢れる。
「ニーナ、ありが――」
溢れる涙を拭い、ずっと言いたかったことを言うべく、ニーナを見ると、既に右手は体温を失い、帰らぬ人となっていた。
俺は泣いた。夜が明けるまで泣いた。自分の無力さを呪った。愚かさを恨んだ。
日が昇り、閑散としたスラム街を照らした。俺は、ニーナを抱いてひたすら歩いた。
長らく見ていなかった壁の上からの景色。ここに立つと、どうしても彼女との思い出が鮮明に蘇る。
「やめてっ!」
眼下から幼い声が聞こえ、視線を移すと、まだ幼い少女が、2人組の人攫いに今にも攫われようとしていた。
「酷いもんだな……行くか」
人攫いの元に、飛び降りざまに1人目を、蹴り飛ばす。
「なんだァこいつ!?」
もう1人の男が刃物を取り出し、振りかざす。それを受け流し、地面に押し倒して刃物を奪う。
「クソっ、おい! ずらかるぞ」
人攫いは、しっぽを巻いて逃げていった。
「お兄ちゃん、ありがとう」
「今度からは気をつけろよ」
少女の頭を撫でなから優しく言う。家へ帰る少女へ手を振ると、もう一度壁へ登る。
青く晴れた空を見上げる。
「これでいいんだよな……ニーナ」
ツグナイノ月 しな @asuno_kyo
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