第四話 「生きている人」の中では
そのマンションは、航空会社の社宅をリノベーションした物件だ。私たちが高校を卒業する頃、社宅は空港の近くへ移転してしまっていた。
ちょうど兄が結婚を決め、実家で同居する話が持ち上がっていたこともあって、私は思い切って終の棲家を買うことに決めた。必死で押さえた五階の角部屋は、ファミリー向けの3LDK。安月給の独身女にはあまりに分不相応だけど、他の部屋では意味がなかった。
生前の神代くんが、暮らしていた部屋。
大切な思い出の場所で、宝物みたいな記憶を抱えていられれば、間違いなく私は幸せなんだ。そもそも別所くんの実家に入り浸っていたのだって、彼が自室に神代くんの居場所を作っていたからだった。神代くんの部屋に面した壁際にテーブルを置いて写真を飾り、毎日おやつを供えて手を合わせていた。小学生らしいセンスで「翔スペース」と名付けられた空間。別所くんはいつだって、神代くんがそこにいるように話しかけていた。社宅が移転するまでの間、二人はずっと「壁を挟んで暮らす親友」のままだったのだ。そんな彼にとって、私のマンション購入は、これ以上ない「後押し」になったのだろう。
「おい、マンション目当てみたいに言うなよ。きっかけになったのは確かだけど、別にそれだけが理由じゃないぞ?」
別所くんは抗議の声をあげたけれど、その表情は笑っていた。
「あー、俺があの部屋を買えば良かったな。そしたら高井は何にも迷わず、一緒に住んでくれたよな?」
「それは……否定できない、かも」
ははは、と別所くんが笑う。どうしよう、拒みにくい空気になりつつある。なんとかして断らなければ。
だって別所くんと私じゃ、完全に釣り合いが取れないんだ。
私は身長も体型も極めて平均的だし、色気も美貌も見当たらない地味な顔だし、服もメイクも髪型もどこか田舎臭い。仕事に情熱を燃やしていたり、充実した趣味を持っているわけでもない。胸を張って誇れるものなんて、何もない。
一方の別所くんは、表面的なスペックだけが優れているわけじゃない。努力家で賢くて、そしてなにより優しい人だ。お医者さんになったのだって「翔みたいな子を減らして、俺たちみたいな思いをする子を減らしたい」という、とても立派な夢がある。
おそらく周囲から見れば、なぜ私が選ばれているのか、世界七不思議クラスの謎だ。たまたま同じ悲しみを共有したから、ただそれだけのことかもしれない。
つまり、これまで共有してきた「神代くんへの想い」というものがなくなった時、別所くんから好きでいてもらえる自信はない。心を許したことがきっかけで、逆に心が離れてしまったら……これまで大切にしてきた全てのものを、ひとつ残らず失ってしまう。
私の抱える悩みなど知らない別所くんは、得意気にニヤリと笑って「ローン」と口にした。私が死ぬ気で申し込んだ、住宅ローンのことを言っている。
「二十五年ローンだっけ? 田舎の小さな学習塾の事務員が無茶するよなぁ。全国展開の大手ならともかく、よく審査通ったよなぁホント」
「お父さんに頭金を出してもらったの! その代わり、家の相続は放棄するんだからっ!」
「それでも毎月それなりの額だろ? いやー二十五年後も塾が残ってるといいよなぁ、少子化で規模縮小してなかったっけ?」
「わああ、その話はやめて! 聞きたくなーい!」
「俺と一緒に住んでくれたら、生活費を折半してやれるのになぁ。家賃だって払うのになぁ、何年分かまとめて前払いしてもいいんだけどなぁ」
「くっ、お金に屈したりしないんだからっ……私なんかと一緒に住んだって、いいことなんてないんだからねっ!」
うっかり口を滑らせた途端、別所くんは一気に真顔になった。やっちゃった、思いっきり地雷を踏んじゃった……納得させることだけに気を取られて、絶対に別所くんの前で言ってはいけないセリフを口にしてしまった。
私なんか、というネガティブな言葉は、この人を不機嫌にさせる呪文なのに。
「お前、またそうやって自分を下げるのやめろよ。俺に対して失礼だ」
「だって、本当のことじゃない……」
「本当かどうかは俺が決めることだろ? 俺の価値観を否定するなって言ってるの。わかる?」
「わかんないっ!」
別所くんが溜息を吐いたけど、今日ばかりは私も引けなかった。スペック的なことだけじゃなく、この人の好意に見合うだけのものを、私は返してあげられない。
手放すのは怖いくせに欲しいとも言えず、わざわざ地雷を踏んでしまう。私はやっぱりワガママだ。
「約束のことが気になるんだったら、もう十五年も付き合ってくれたんだもん、これ以上は無理しなくていいよ」
「バカ、子供の頃の口約束だけでここまで付き合えるわけないだろ」
「私なんかじゃなくて、もっと自分を見てくれる人を選べばいいのに……寂しいって思ったこと、一度もないの?」
「あー、まぁ……なくはない、けどさ」
気まずそうな声を出した別所くんは、今度は目玉焼きをぐちゃぐちゃにかき回し始めた。崩れて行く目玉焼きを、しばらく二人で眺め続ける。ほどよく半熟だった黄身が無残な姿になったところで、凶器と化した箸先がようやく止まった。
「いちばん好きな人じゃなくても、求め合ってみたいって、確かに思ったことはある……だけど結局、高井じゃなきゃ意味がなかった。理屈や打算が入り込める領域じゃなかったんだよ」
そう言った別所くんの声は優しかったけれど、どこか悲しそうに見えた。
いちばん好きな人じゃなくても――その気持ちは、私も知っている。どんなに望んでも願っても、神代くんはもう二度と、私の前には現れない。
別所くんが隣にいてくれたから、私の想いは迷子にならなかった。今も神代くんを大事に想っていられるのは、この人が「好きでいてもいいんだ」って、ずっと言い続けてくれたから……それなのに、私は何もしてあげていない。
彼が捧げ続けてくれた想いへ、何かお返しをしたい。そういう気持ちはあるけれど、神代くんを好きなままの私に、いったい何ができるだろう?
「私、どうすれば、その気持ちに応えられるのかな」
「別に見返りは欲しくないけど……それじゃ、高井が納得できないんだよな?」
別所くんはしばらく考えこんで、眼鏡を何度も触ってから、意を決したように両手でテーブルを軽く叩いた。
「じゃあ俺に、生きている人の中ではいちばん好きだって、言って」
緊張気味にそう言った彼は、眼鏡を外してテーブルの端へ置いた。そしてゆっくりと立ち上がり、私のすぐそばにやって来て、うやうやしく膝をついてみせた。
「嘘をつけとは言わないよ。無理だったら、そう言っていいから」
「……無理じゃ、ないよ」
私は首を振った。決して嘘になんかならない、今の私の真実だから。
条件付きの愛情なんて示しても、侮辱にしかならないと思っていた。別所くんほどの人なら、こんな面倒な女じゃなくても、まっさらの「いちばん」をくれる人がいるはずなのだから。
こんな私の何がいいのか、わからない。わからないけど、この人は他の誰でもない「高井ちとせ」の心を求めてくれている。
言おう、と決めた。それは私の中で、強く芽生えた覚悟だった。
「生きている人の中では、別所くんのことが……いちばん、好き。誰よりも、大切なひとだよ……」
「俺もだよ、ちとせ。いちばん好きで、誰よりも大事だ」
別所くんが、初めて私を「ちとせ」と呼んだ。
改めて「そのままでいいよ」と言われた気がして、胸の奥が温かくなる。
「翔にはもう、ちとせの手は届かないけど……俺の手を、代わりに握ってて。それだけで俺は寂しくないし、ちとせのことも寂しくさせない」
「別所くんは、それでいいの……?」
「それを聞きたい相手は、俺じゃなくて、翔なんじゃないのかな」
別所くんが、目を細めた。確かにそうなのかもしれない……神代くんは、許してくれるだろうか。私のことを、裏切り者だと思ったりしないだろうか。
「神代くん、怒らないかな……自分が住んでた部屋で、私たちが一緒に暮らすなんて」
「怒るわけないだろ、翔だぞ。うわーめっちゃ嬉しい高井さんっ、いいなぁ僕も一緒に暮らしたーい、ねぇ三人で暮らそうよ、ベッさんいいでしょ……ってなもんだろ、アイツなら」
別所くんが、神代くんの口調を真似た。それはあまりにも似ていて、まるで本物の神代くんが、私に言ってくれたみたいだった。
「あの部屋で、三人で暮らそう。これからも、翔と一緒に生きていこうな」
嬉しさで胸が詰まって、言葉を出せなくなってしまう。必死で何度も頷き続ける私の頭を、別所くんは優しく撫で続けてくれた。
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