災害遺構

北風 嵐

第1話  広島・原爆ドーム


 あの船が解体される…残すと言っていたのではなかったのか?

津波で打ち上げられた気仙沼の第18共徳丸のことである。あれほど、津波の猛威を伝えるものはないと、岡崎由美子は思っていた。


 岡崎由美子は昭和20年の12月に広島で生まれた。母の松枝は被爆している。由美子はその時、母の胎内にいた。いわゆる『胎内被爆者』である。母松枝は、外見はなんともないが、裸になると背中にケロイドの跡があって痛々しい。たまに原因不明の発熱で1週間ほど寝込むことはあったが、大過なく過ごし、2年前、88歳で亡くなった。

 父は戦地に行っており、半年後に帰ってきて被爆していない。由美子は遺伝的な後遺症を恐れたが、母と同様大過なく暮らせて来た。松枝は洋裁が出来、ずっとミシンを踏み家計を助けてきた。父は東洋工業(マツダ)の自動車工として勤め上げ、今は悠々の年金暮らしで、好きな囲碁三昧である。由美子には下がいない。両親はやはり産めなかったようである。


 由美子は結婚したが住いは生まれた所である。敷地が広かったのでボロ家であったが同居出来た。夫は父親と同じ会社に勤める自動車工で5年前に退職した。身体が元気な内は働くと、今も近くの自動車部品の町工場で旋盤を回している。

由美子の家からは、原爆ドームがいつも見える。そのドームと共徳丸をダブらせた。

 東北の大災害は原発の事故と相まって、由美子には他人事とは思えず、関心を払ってきた。若かったらボランテイアでも何でも行ったのにと思ったが、腰痛持ちの身体では足でまといがオチだろう。せいぜい街頭募金に奮発するしかなかった。

だから、共徳丸が解体されると聞いて残念だったのである。自分の経験を現地の人に話して見たいと思った。その体験とは「原爆ドームの保存」に対するものであった。


 1996年12月原爆ドームはユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。世界遺産ブームの中、さまざまな年代・国籍の人が多く訪れるようになった。

原爆資料館と原爆ドームが、世界最大の旅行口コミサイトがまとめた外国人に人気の国内観光地ランキングで2年連続の1位になった。資料館は楽な気持ちで見られるものではない。それでも1位なのである。

 12年度の資料館の外国人入館者数は15万人を超えた。資料館を訪れた外国人が「地球上全ての人が見るべきで、入る前と別人になる」などと書き込み、その評価は高い。同県の厳島神社も2年連続4位で広島は有力な観光スポットを二つ持つことになる。

 由美子は世界遺産になった時、大変に嬉しかった。そして二人の少女を思い出していた。一人は由美子が通っていた高校の1年先輩の楮山(かじやま)ヒロ子、もう一人は『原爆の子の像』のモデルになった佐々木禎子である。


 原爆ドームは1917年広島県物産陳列館として建築された。館内は常時広島県下の物産が展示され、西日本で唯一のパイプオルガンが設置されていたり、ドームの下には秀麗なステンドグラスが嵌め込まれたり、舞踏会やクラシックコンサートが開かれたりと、当時の広島における文化の殿堂的存在であった。

 それが1945年8月6日、米国による原子爆弾投下により広島全体が一瞬にして廃墟となった。終戦直後、市民はまさに生きるのに精一杯で、遺構の保存などという発想はなきに等しかった。むしろあの忌まわしい惨禍を思い出されるものとして除去して欲しいという意見が多かったのである。

 戦後の広島を平和都市として再生するというビジョンを強力に推し進めていた原爆市長と名前を持つ浜井信三氏も、市民のそういった声を無視することはできず、1951年には一旦原爆ドームの保存に関しては不必要との見解を示したほどである。ただ、解体する費用もなく放置されていたのが実情であった。


 1955年(昭和30年)、丹下健三氏の設計による「広島平和記念公園」が完成した。丹下氏の案は公園の中に資料館、慰霊碑の先に原爆ドームを望むものであり、原爆ドームをシンボルとして浮き立たせるものであった。シンボル的存在となったのであるが、1960年代に入ると、年月を経て風化が進み、安全上危険であるという意見が起こった。一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になったのである。


 市当局は財政的負担の面から原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていたが、流れを変えたのは地元の女子高校生の日記であった。

 その女子高校生が楮山ヒロ子なのである。彼女は1歳の時に自宅で被爆し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため16歳で亡くなった。残された日記の1959年8月6日のページに、「八時十五分、平和の鐘が鳴り外国代表のメッセージを読み終わり、14年前のこの日この時に広島市民の胸に今もまざまざと、記憶されている恐るべき原爆が14年たった今でも、いや一生涯焼き残るだろう。(中略)あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆を訴えてくれるだろうか」と書いたのである。


 この日記を読み感銘を受けた『広島折り鶴の会』が中心となって保存を求める運動が始また。佐々木禎子は2歳の時に被爆し、12歳の時にヒロ子と同様、白血病で亡くなっている。その同級生たちが『原爆の子の像』の建立を求めて始めた運動の会が「折り鶴の会」なのである。

 粘り強い運動は、原水禁、被爆者、市民団体などに届き、市議会も動き出すのであった。保存の調査が行われ、1966年(昭和41年)7月、広島市議会は「原爆ドーム保存」を全会一致で決議。被爆21年目にしてやっと結論に達したのである。


 歳も同じぐらいのこの二人の少女の名前を由美子は複雑な思いで聞いていた。由美子は原爆ドームが好きでなかった。自分の被爆が思い出されるからである。自分は彼女らと違って『胎内被爆』であるが、被爆には違いない。やはり命に怯えたのである。

そんな思いを中学生の時、母にぶっつけたことがある。

「お母さんはなんともないの?」

「なんともないことはないよ。でも10年も見てると、風景になってしまって、無くなると寂しく思うんじゃなかろうかね」と答えた。

 母は何事にも淡々とした人であった。だから、大過なく元気で過ごせて来たのかも知れない。そんな母もぽつんと「お父さんに申し訳なくてね」と呟いたことがあった。

父の方が、母だけが被爆したことに負い目を持っているようであった。

「どうして?」と由美子は思ったが、結婚して初めて母の心情がわかったのだった。


 広島で生まれ、育ったこの年の者はほとんどが被爆しているのであるが、皆はあまりそのことを口にしなかった。由美子は特にそうであった。元々、内気な由美子は益々内気になり、目立つことが嫌いな性格になっていった。そんな自分を解き放ち解放したい思いは年々募るのであった。

 そんなことで・・同情よりはむしろ彼女らに反発を感じていたのである。折り鶴の会の保存運動にも反対であった。「静かにしといて」が由美子の偽らざる心情であった。


 そんな由美子が変わっていったのは、子供を産んでからである。結婚しても夫にも隠していた。由美子の生まれた年や、場所がわかれば分かる話なのであるが、それでも隠し話さなかった。最初の子を身ごもって初めて告白した。

「アホか、そんなん分かりきってることやろ。被爆した場所の家に俺らは住んでるんやで、そんなん告白にもなっとらん」と夫は笑い、無事生まれたことを喜んでくれたのである。二人目の時も躊躇したが夫に励まされ、長男、長女の2子を得たのである。


 この子らが、そしてこの子らの子らが、戦争もなく過ごせて行けるように願ったとき、原爆ドームに対する見方が変わり、由美子は解放されたのである。実に30年かかったのである。

 50歳を超えると、原爆ドームを自分自身と同一視し始めたのである。自分も老いていくと同時にドームも老いていくことに愛おしさを感じ、このまま生き残ってほしいとの感情が芽生えたのである。母の言う風景、家から見る風景だけでなく、由美子の心の風景になったのである。そして、二人の少女に報いたいという思いを強くした。

 こんな思いを被災地の人に伝えられたらと、由美子は思ったのである。


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