魂の栄誉

春瀬由衣

第1話

 あの「協定」を結んでから、俺は無敵になった。

 中卒、元ヤン、ルックスもいまいちの俺は、大した仕事には就けずにAVのカメラマンとして日々を送っていた。

 淫らな行為を欲してはいるが自分では出来ない腰抜け共に快楽を捧げる、実に退廃的な仕事だ。

 しかし俺はそこそこ満足だった。

 セックスまがいのことが身近で見られるだけじゃない。

 俺は、ある常連客に好かれていた。


 立場上バレては困るからと、貧乏だった俺にしたらあってまあ嬉しいかな位の些細な土産と引き換えに、俺はその客に指定された場所までAVビデオを届けに行った。

 初めて会ったとき、その人はひどく狼狽していた。

 だが次第に信用を得、土産も段々豪華になっていった。


 そのうち、俺は彼の醜い一面も見ることになった。

 妻帯者にも関わらず不倫。

 某宅配業者との癒着。

 カルトへの異常な執着。

 有名な政治家も、こんなものか。

 俺はえもいわれぬ優越感に浸り、彼の悪行の証拠を撮り溜めては一人口角を上げていた。

 そんな俺に悪魔が囁いた。

「その情報を某週刊誌にリークせよ」

 悪魔のもたらした土産は、彼のものとは比べ物にならない位豪華だった。


 俺は、ある儀式を経験した。

 ただの遊びだろうと思っていた。あの政治家みたく、裏切られるのを恐れているのだろう。だからこんな、義兄弟の誓いにおける酒の回し飲みみたいな他愛もないお遊戯をやるのだろう。そう本気で思っていた。

 その儀式ののち、信じられないほどの幸運が俺に舞い込んだ。


 まず、消し去りたいと願っていた俺の経歴が、悪魔の手によって誤魔化された。

 俺は屋台をやるように悪魔から言われた。

 面倒な客も、悪魔の手下の暴力団が俺の目の前から遠ざけてくれた。

 優秀な料理人だった。私が悪魔に冒されていることも知らず、夢を追うために店を経営するオーナーを探し、偶然にも俺が目に止まった、料理学校卒業したての若いにいちゃんだった。

 彼は上手くやっていた。だが、慣れない河豚料理をやらせたら、案の定失敗した。

 勿論そう指示したのは悪魔だ。

 そして悪魔は、料理人を切り捨てるように言った。

 若干の迷いがあったが、俺は言われるがまま部下に裏切られた哀れなオーナーを演じた。涙も流して見せた。すべては、悪魔の台本通りだった。


 なぜかは知らないけど、和食の料亭が立ち並ぶ観光地の土地が手に入っていた。

 私をカリスマと呼び、崇拝する人が何時からか私の経営の全てを代行していた。

 私はスーツを着て、従業員に訓示をする立場になっていた。

 美辞麗句しか言えなかった。ただAが陶酔したようにため息をつき、従業員が羨望と尊敬が入り混じった目で私を見るのを不思議に思った。

 激戦区だったのに、開店から芸能人、政治家、スポーツ選手がこぞって通い詰めた。

 ”隠れ家的名店”としてメディアに取り上げられ、客足は伸びる一方だった。

 成功した経営者としてなんども起業家向けの雑誌に載り、インタビューも受けた。

 実際の経営形態やスケジュールと矛盾した発言に後から気付いても、Aが心配することはないとこともなげに言ってみせ、実際なにもなかった。


 何もかもがうまくいくにつれ、私の思考はだんだん奪われていった。

 始まりは日課の散歩。

 歩いている途中で、ふとこんなことを思う。

「あれ、俺って散歩なんか習慣にしてたっけな……」

 軽いストロークで大手を振って歩いている男の感覚が、秒遅れで私に伝わる。

 多重化するぶよぶよな風景。肌の感触が薄く、厚いコートの上から触られている錯覚に落ちたりもした。

 車酔いのような気持ち悪さに耐えかねて、私はたまらず膝に手をついた。

 ああもう無理だ、そうなると悪魔がささやいてくれる。

「お前はカリスマだ。もっともっと、金を得ろ。お前にはその使命がある」


 私はある時期から得も言われぬ恐怖に脅かされるようになった。

 私に自信を与えてくれる、あの悪魔の囁きが、まるでとんと来なくなったのである。

 言い知れぬ不安。感情が急降下し、胃が絶えずムカムカする。

 Aが何時ものように慰めるが、こればかりはうまくならなかった。

 私は激怒した。お前は何のためにそこにいるのだ、とAをひどく罵った。突発的にこぶしが振り上げられていた。

 Aはただただひれ伏していた。

 あのカリスマを怒らせた、と幹部たちのなかでAへの不信感が募り、風当りが強くなっていた。

 Aは退社した。

 思考をなくした傀儡が、ひとりカリスマの幻影に残された。

 系列企業は10社を超える、巨大グループの代表。

 肥大した立場に恐れおののいた。


 傀儡の打ち出した方針はことごとく失敗した。

 メディア、雑誌がこぞってカリスマの老いを報じた。

 薄いカリスマ性を極限まで張ることで私は生きていた。

 私は、いや俺は、意図せず震えるようになった手で、ある芸能人が忘れていったポーチを手にした。

 俺の目は、そのポーチのサイドポケットに釘付けになった。

 入りきらなかったのか、チャックからはみ出る薬袋。

 cocaineと美しいカリグラフィーで印刷された半透明の和紙みたいな触感の袋を、俺はスーツのポケットにねじ込んだ。

 従業員が、ニコニコと話しかけてくる。

 俺は上ずった声で返事し、目を四方に遣った。

 動悸がした。

 トクトクと鳴る心臓がやがて空回りするようにピクピク痙攣した。

 俺はなんと言ったのか、その場をあわただしく立ち去った。


 俺は再び夢想の中に精神を置くようになった。

 そして陶酔状態にある俺は、カリスマに返り咲いた。

 また、何もかもうまくいく生活に戻った。

 その代償に、頻繁に嘔吐した。

 それはいつも夢から覚める時だった。


 たちまち袋は足りなくなった。

 禁断症状と言うのだと、あとで知った。

 俺は絶望した。

 俺は吐いた。

 俺は従業員が悪口を囁くのを聞いた。

 俺の皮膚の下をなにかが這っていた。

 狂気とともに、私は悪行の限りをはたらいた。

 不倫した。

 AVにはまった。

 薬の工面のため、賄賂は率先して受け取った。

 いつもなにかに怯えながら。


 そして俺は、なにもかもを失った。

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