スケッチブック越しのキス

ゆずりは わかば

第1話 パトリシアは誰のことも愛さない

 安っぽい口紅は、油臭い匂いを唇越しに伝えて、僕の脳を溶かした。

 12歳の時、ファーストキスの記憶。薄暗い台所。背中に伝う汗。二次性徴一歩手前だった僕より、少し高い位置。背伸びして頭の高さを合わせた。

 ひぐらしの声が夏の終わりを僕たちに告げて、夏休みが終わると同時に、僕たちはそれっきりになった。


 6月の梅雨の時期から、8月31日までのわずかな時間だったけど、何者でもなかった僕の、固まりきる前のアイデンティティを歪めるには、その期間は刺激的すぎた。蝶の蛹を指で潰すと、中身の形が歪んで戻らなくなるように、僕の存在も、夏休みが終わって以来歪んで戻らなくなってしまった。



 - - -



 よく似合ってるわよ。あの人はそう言った。僕に女物の服を着せて、よく写真を撮った。

 綺麗になったわね。あの人はそう言った。僕の顔に、丁寧に化粧を施して、微笑んでいた。

 よく似合っているな。鏡に映る自分を見てそう思う。青白い足がスカートから覗いている。

 綺麗になったな。色々な角度から自分の顔をチェックして、出来栄えを確認した。

 17歳になった僕は、週末の夜中になると自分の性別を塗り替える。丁寧に化粧をして、流行の洋服に着替えて、街へ繰り出す。小さなバッグを片手に、ネオンきらめく歓楽街へ。


 自動販売機の影で唇を重ねて、酒とタバコの混じった匂いに脳を浸す。あの時の匂いをかき消すように、上書きするように。毎週金曜日の夜中、飲んだ帰りのサラリーマンを誘う。スケッチブック越しに声をかける。


『おじさん、一回5000円で、私とイイコトしない?』


 一晩に何人も何人も、声をかける。声から性別がバレないように、スケッチブックの文字で誘う。


「キミ、名前は?」


 行為の後に、たまに聞かれることがある。そんな時、僕はこう答えるのだ。


『パトリシア』


 数え切れないくらいの唇と触れ合ったあと、明け方に住処へ帰る。

 古びたアパートには、誰も待っていない。母は離婚してどこかへ行ってしまったし、父はいつも女の人の家に泊まる。からっぽのアパートの部屋に、お金がぎっしり詰まったバッグを投げて、僕は泥のように眠る。男の匂いが残ったまま眠れば、あの夏の匂いを忘れられるような気がして……



 - - -



「なぁ、ミタケ。パトリシアって知ってるか?」


 不意に親友からその名前が出てきて、驚く。必死に表情を繕いながら、振り向く。


「パトリシア?確かフランスか何かの映画女優だっけ?」


 あの人が言っていた。源氏名の由来は、酔うたびに聞かされていた。


「そんなのしらねぇよ。駅前の飲屋街に、週末の夜中になると現れるっていう女だよ。すげぇ美人なのに、誰とでも色々しちゃうらしいぜ」


「色々ね」


 色々はしていない。キスだけだ。


「一緒に行って見ないか?お前、そういうのはまだだろ」


 タカオの唇が『まだだろ』と動くのを見て、あそこでこいつと会うのも悪くないな、なんてことを思った。



 - - -



 放課後、少し遠出をして、贔屓にしているブティックへ行った。パトリシアの服は全てここで買っている。普通の高校生にはとても手を出せる値段ではないが、パトリシアの稼ぎなら簡単に買える。これは僕の中だけのルールなのだが、服は毎週新しいものを買うことにしている。先週の自分とは違うことを自分に分からせるために。あの夏からちゃんと時間が過ぎて行っていることを確かめるために。服を買って残ったお金は、全て化粧品を買うお金に回している。

 僕の手元に残るのは、古くなった服と、夜の行為の残滓のみ。いくら続けても、いくら重ねても、あの日から離れられない。進めない。唇を重ねたという事実のみだけが、積み重なっていく。

 週末。タカオの誘いを断って、僕はタカオと会うための準備をする。放課後から目一杯時間をかけて、自分の性別を、存在を、塗り替えていく。新しい服を着た自分を姿写しで確認して、全身のチェックをした。

 いつもの場所、歓楽街の片隅に行くと、そこではタカオが待っていた。


「あ、あの」


 赤くなったタカオの頬を撫で、路地裏へ誘導した。俯いた彼の顎を持ち上げて、一気に口づけする。無知な男の唇。おぼつかない舌使い。無防備なその場所を、一方的に蹂躙する。

 あの夏が少し遠ざかるほどの衝撃。強烈な快楽。あぁ、あの夏に、あの人が味わっていたものはこれだったのか。上気した顔で虚空をぼんやりと見ているタカオを見た時、自分の中の何かが、動き始めた気がした。



 - - -



 月曜。タカオは上機嫌で登校してきた。

「悪いな。俺、お前より10歩、いや100歩は先に行ったぜ。キスの時に舌を入れるの、お前知らないだろ」


 それにしても美人だったな、あの人。何者なんだろう。そんなことを言うタカオに、告げる。


「実は俺、その人のこと知ってるんだ」


「え、マジで?」


「知りたい?」


「そりゃ知りたいに決まったんだろ!」


「じゃあ来週また、そこに行ってみろよ。そうしたら、その人のことが少しわかると思うよ」


「そうか?」


 怪訝な表情をするタカオ。こいつのファーストキスを奪ったのが僕なのだと思うと、胸からドロリとした感情が溢れそうになる。このねばりけのある気持ちが何なのか、まだわからない。


 週末は、思ったより早く訪れた。いつもより気合を入れておしゃれをすると、先週と同じ場所へ向かった。

 深夜1時。前と同じ場所で、タカオは待っていた。

 自動販売機の裏に彼を引きずり込んで、唇を奪う。息が苦しくなるほど合わせたそれを離して、タカオの目を見つめる。


「君は、何者なんだ?」


 スケッチブックを取り出すと、ペンを走らせる。


『パトリシア。』


「そうじゃない。君は、どうしてこんな場所で、こんなことをしているんだ?」


『私は、破滅


 タカオが、黙って僕の手からスケッチブックを振り落とした。


「君の口から、直接聞きたいんだ」


 ふぅ。と1つため息をついて、僕は覚悟を決めた。


「ねぇタカオ、知ってるかい? お腹に赤ちゃんがいるお母さんが強いストレスを受けると、赤ちゃんは男の子になっちゃうんだって」


「その声……お前まさかミタケか?」


 タカオの顔が、驚きで歪む。


「本当は女の子になるはずだった赤ちゃんも、男の子に変わっちゃうらしいよ」


 目の前の親友が、男が、こんなにも愛おしいなんて。愛というものが、糸を引くほど濃厚な感情だったなんて。


「僕ね、自分が正しいかどうか、ずっと疑問だったんだ。あの夏からずっと。僕は、本当は女の子だったんじゃないかってね」


 僕押しのけて、タカオは道の真ん中に飛び出した。


「お前頭おかしいよ。何言ってんだ? 全然わかんねえ」


 彼は、まるで宇宙から来た不気味な生物を見るような目つきで、僕を見た。


「何よりお前、気持ち悪いよ……男なのに男とキスするなんて、友達とするなんて、最低だよ」


 吐き捨てるようにそういうと、彼はどこかへ走って行ってしまった。


「なんで……?」


 やっとあの夏から遠ざかれると思った。歪められた自分を受け入れて、「愛する」という感情を理解できたと思った。タカオなら、答えてくれると思った。なのに……


「アラアラ。振られちゃったわね、お嬢さん」


 聞き覚えのある声。あの夏の口紅の匂いがよみがえる。

 振り返ると、そこにはあの人がいた。少し増えた皺、少しほつれた髪。それ以外はあの夏のままだ。


「パトリシア……?」


「アラ、私のこと知ってるの? その名前はとっくに捨てたはずだけど」


 疲れた微笑みを浮かべて笑う彼女に、すがりついた。


「あなたは、あなたは僕のことを覚えていますか? あの夏の日のことを、覚えていますか?」


 彼女は、驚いたように僕の顔を見た。


「綺麗な顔をしているから、女の子だと思ったけど違うのね。でも、残念だけどあなたのことは知らないわ。夏なんて、もう50回近く味わったから、いつの夏かわからないし」


「僕を、僕を覚えていないんですか、母さん」


 パトリシアの顔が、強張る。


「パトリシアを名乗る子がいるって聞いたから来てみれば、まさかあなたがそうだったなんてね。どうしてこんなことしてるの」


「僕は、自分が何者かわからないんだ。あの夏、パトリシアに女の子にされて、僕は自分が男かどうかわからなくなった。自分が、所属しなければならない2つの派閥のどちらにも所属していないことがわかって、不安になった。男の子としての僕は、あの夏にいなくなってしまった。でも、身体は男の子として確かに成長していて、僕は」


 もういい。彼女はそう言った。


「あの夏に、私は母親としてではなく、パトリシアとして、一人の女性としてあなたを可愛がった。あなたの女の部分に魅入られた点に関しては、私が悪いわ。でもね、歪みをそのままにしたあなた自身が、一番悪いのよ」


 ギラギラと下品に輝くネオンを背にした彼女は美しくて、残酷で、まるで女神のようだった。凍りつくほどに冷たい眼をして、僕を見下ろした。



 歪められた蛹は、満足に飛べない蝶になる。舞えない蝶の行く末は、誰とも結ばれない死だけだ。

 そして、性別失ってしまった僕の未来もきっと、それと同じになるだろう。


 落ちて開いたスケッチブック越しが、過去の言葉を僕へと運ぶ。


『接吻は、心の歪みを愛だと錯覚させる。でも勘違いしないで。パトリシアは、誰のことも愛さない。』

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