ユウゴの二重生活

西島ヒカリ

企ての朝

「ほら、アキト、リン、起きて!ご飯食べなきゃ幼稚園に遅刻しちゃう!」

甲高い怒鳴り声が響いた後、子どもたちの声がつづく。

「僕まだ眠いー。きょうは幼稚園お休みするのー」

「リンちゃんもうちょっと寝るのー」

毎朝子どもを叩き起こす妻のキンキン声が隣の寝室からドアを突き抜けてくる。おかげであと10分寝たいというところでいつも目が覚める。ああー、くっそ。騒がしい。リビングへ向かうとレースのカーテンからぼんやりと入ってくる陽射しの中で朝が始まる。薄すぎるコーヒー、やや黒焦げ気味のトーストとハムエッグ。ほぼ毎日同じ具の味噌汁とレタスだけのサラダ、そして前日の夕食が鎮座する弁当箱が並んだテーブル。スマホでゲームをしながら妻が作った冴えない朝食を腹に突っ込むのが俺の日課だった。

「ねえパパ、なーんかいいことでもあったの?さっきから笑ってるみたいに見えるけど」

声がした方へ顔をあげると、傷んだ髪をひっつめて、唇がカサカサの女がテーブルの向かい側からこちらを見ていた。肌の潤い感、ゼロ!いやむしろマイナス!妻のアイだ。俺と同い歳なら無理もないのかな。いや、でも流石にほんのちょっとでいいから綺麗にしてほしいんだけど…ああ、いつからこうなっちゃったんだろうな。付き合ってた頃はすげー可愛かったのに今ではすっかり女を捨てて「ザ・お母さん」なってしまった。そうだった、なんとなく俺は毎朝アイの顔を見ないようにして出勤していたんだっけ。それも俺の日課のひとつだった。まじまじ妻の顔を見ると少しだけげんなりする。ちょうどテレビの占いランキングで最下位だった時みたいに。

「え、あぁ…芸能ニュース見てただけ」

「あっそ」

適当にはぐらかす俺にアイは一瞥をくれて子どもたちの食事の介助作業に戻った。

「ほーら、ふたりともよそ見しないで食べる!」

「僕ウィンナーもう一個食べたいなー」

「リンちゃんお腹いっぱいー。お野菜いらなーい」


するどいアイのご指摘通り、たしかに今日の俺は機嫌がよかった。仕事に行くフリをして俺は平然と朝の身支度をしているが、実は有給休暇を取って出会い系で適当に見つけた女と密会する約束を取り付けていたのだ。平日昼間の情事。何しろアイとは数年間していないわけで。キスすらおとぎ話のレベル。毎日毎日家族のために仕事を頑張ってる俺はそのくらい許されてしかるべきなんだ。これは俺に興味を持たなくなったアイへの密かな報復なんだよ、うん。

そんなことをつゆほども知らず、アイはドタバタと朝食を食べ終え、子どもたちに歯磨きをさせ、文字通り髪を振り乱しながら幼稚園へ子どもたちを送り届け、自分はパートへ出かける準備をしている。園服の袖に腕を通しながら娘が俺に尋ねた。

「ねえパパ?今日はリンちゃんとお風呂入る?」

俺は目を合わせずにリンにこう答えた。

「パパがお仕事早く終わったら一緒に入ろうね」

まぁ、今日は色々あってなんか気まずいし、無理かな…

「パパ?ママが約束破る男の子とは遊んじゃダメって言ってたよ」

アイ、変なこと子どもに吹き込んでやがる。こうやって俺は家族の中に味方が減っていくんだ。リンに作り笑いをして適当にあしらう。

「ねえお母さん、ぼくカーズの靴下がいい!」

「カーズの靴下はお洗濯しちゃったから明日履こうね、アキト」

「リンちゃんね、幼稚園でママの絵描けたらあげるね」

「そう?楽しみにしてるね。リン、ありがとう。そんじゃ行ってきまーす!」

慌ただしく2人の子どもと会話をしながら両手を繋ぎ、ノーメイクで出て行こうとする妻に思わず俺は声をかけた。

「アイ、その顔で行くの?」

「ええ?いつもこうですが、何か?じゃ、時間ないから。そうだパパ、お皿だけ下げといてね!洗っといてくれてもいいけど。じゃ、行ってきまーす」

「いってきまーす」

「てきまーしゅ」

3人はさっさと出かけて行った。どうやら俺の不倫がバレる心配は全くなさそうだな。アイはいつの頃からか、俺の呼び方もパパになってしまったし…そうだ、女だ。ときめきを感じさせてくれる存在が俺には必要なんだ。ユウゴ、お前は今までよく我慢した。そう、そうだよ。今日はお前のための日なんだよ!


食器をシンクに無造作に置き、歯磨きの後は入念にデンタルフロスを施す。数年ぶりに使うヘアワックス。髭の剃り残しがないことを確認する。今日の俺ってば、完璧だぜ。我が家を出たらいよいよ俺の時間だ。意気揚々とステップワゴンを走らせ、いそいそと待ち合わせ場所に指定したショッピングモールの駐車場に行く。すると少し離れたところに停められた赤いパッソから華奢な女が降りてきた。くるぶし辺りまである白く長いスカートを風になびかせながら肩のあたりでこちらに向かって小さく手を振っている。かわいい。よっしゃ、当たりだ!

テンションが暴騰しているのを悟られないよう俺は深呼吸してから車を降り、声をかける。

「えっと、ユリさんだよね?待たせちゃった?」

「ううん、私も今来たところです。暑いですね、今日」

「はは、そうだね。汗かいちゃうよね。ユリさん、思った通り綺麗だ。会えて嬉しいよ」

こんな風にくすぐったくなるやりとりすら懐かしい。恥ずかしそうに微笑するユリ。俺は今からこいつと寝るのだ。ようやく神は俺にご褒美を与えてくれたんだ。俺より5つ歳下で2人の子持ち。そしてアイの数倍は垢抜けたその姿に浮き足立った。

「えっと、行く?」

「はい、じゃあお願いします」

はにかみながら俺の車にすっと乗り込む美しいユリ。彼女は今日、2歳児の子どもを一時保育とやらに預けてまで俺と会ってくれた。不倫ママにも優しいご時世になったものだ。確か子育てに疲れた専業主婦みたいに自分のことを言ってたけど、専業なのに何に疲れるっていうんだろ?まぁ、そんなことはどうでもいい。

俺たちは手近なホテルにさっさとチェックインした。部屋へと向かうエレベーターの中でユリにキスを求めたが、中に入ってからがいいと手で静止された。ユリが小さな仕草を見せるだけでふわりと甘い香りが漂って気が遠くなりそうだ。ああ、この初々しい感じ、本当にたまらない。俺たちは性急に靴を脱ぎ、強すぎる冷房も、部屋に染み付いて充満するタバコの匂いも気にせずソファに並んで座った。

「…キスしていい?」

ユリを抱き寄せて口づけする。ややあってユリは照れ笑いをした。可愛すぎるだろ、こいつ。

「私こういうの初めてで。でも、自分のための時間ってこんなにもワクワクするものなんですね」

「俺のことだけ考えてね、今は」

臭いセリフを吐いてベッドに移動し、さっさとユリを小さなブラとパンティだけにして、真っ白い身体を愛撫する。ユリに口づけし、身体をまさぐりながら俺は言う。

「ごめん、俺もう我慢できないよ」

「え?ん…いいですよ」

頬を少しだけ紅くし、目を逸らしながら微笑むユリの前で俺は服を脱ぎ、自分のボクサーパンツに手をかけた時だった。ウェストのカルバン・クラインのロゴが視界に入ったくらいのタイミングで突然俺の身体に走ったのは後頭部を硬いもので殴られたような衝撃だった。

視界が暗転する。え?俺パンツ脱いだだけでいっちゃったわけじゃないよね?一瞬思考した後、意識の回路が徐々に絶たれていく。あれ?まさか俺、この女に殺されちゃった?これが有名な美人局ってやつ?なぁ、おいちょっと待ってよ。一回くらいやってからでもよかったのに…な………

たった一瞬だけ、俺と同じような背格好の男の姿が視界の隅に見えた気がした。

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