陽炎坂にて

井中 鯨

陽炎坂にて

 市電の停留所を降り、蝉時雨に気圧されながら、私と半田さんは陽炎坂を見上げていた。延々と続く緩やかな坂道。奥の方は霞んでよく見えない。


「タクシー使っちゃダメですか」「駄目だよ。この坂を登りきることこそに意味があるんだから」半田さんはハンカチで汗をぬぐいながら、そう言った。


 ここ多胡浦は坂の町だ。瀬戸内の急峻な港町であるこの町は、平安の頃より、貿易港であった。長崎市にもよく似た風景は確かに風光明媚だが、これといった観光名所が点在しているわけでもない。学会が多胡浦市の文化会館で行われるということで、特急電車で一時間半かけてやってきたわけだが、何故か読みが甘く、基調講演が始まる三時間も前に多胡浦駅に着いてしまった。寂れた駅前で難儀していると、同じく難儀している半田さんと遭遇した。彼は私の三つ上の研究生だった。「折角だから、陽炎坂を通って行かないかい」半田さんのよく分からない提案に二つ返事で答えた私は、市電に乗ってここまでやってきた。


 肌を炙るかのような厄介な日差しを避けて、私たちは一旦木陰に逃げ込んだ。そこには、陽炎坂と書かれた簡素な看板がかかっていたが、坂の名前の由来の箇所は日に焼けてよく読めなかった。半田さんは腑抜けた顔の私をちらりと見ると、何も言わずにずんずんと坂をのぼっていった。


「両側の武家屋敷は多胡浦藩のだな。交易路の中継地点として江戸時代にはよく栄えていたらしいからな。だいぶご大層な屋敷だ」確かに、両側には屋敷が並んでいた。どぎつい日差しは、屋敷の白壁を一層光り輝かせていた。半田さんは堰を切ったような勢いで、多胡浦藩の歴史を語り出した。おそらく、行きの電車で仕込んできたのだろう。私は適当な相槌を打ちながら、黙々と足を動かした。その程度のことならば、私も行きの電車でウィキペディアを見て知っていたが、何も口出さなかった。


 武家屋敷の一部は、市の歴史資料館になっているようだったが、全てに保全の手は回っていないようで、いくつかの屋敷の崩れた白壁からは、名もなき草が盛大に繁茂し、それらが日に照らされて複雑な影絵をつくっていた。私はこっちの景色の方が好みだった。「多胡浦市は何してんだろうな、こんな素晴らしい屋敷を修繕しないなんて」半田さんは、白壁をにらんでそう言った。


「おい見てみろ、商館だ」半田さんが指差すその先に、生垣に囲まれた赤い屋根の洋館があった。「あれは確か元々イギリス人の貿易商の屋敷だ。明治の終わり頃まで使われて、その後、日露戦争のロシア人捕虜用の木舎を隣に建てたから通称はロシア屋敷。戦後はアメリカ人将校が何年か別荘として住んでいたようだが、それ以降は地元の名士が住んだそうだ」

 数時間後に始まる歴史学会を前にして、半田さんは記憶の抽斗を手当たり次第に開けているようだ。私は背中にじっとりとかいた汗で服が肌に張り付くのが嫌だな、とかそんなどうでもいいことを考えながらも、商館の屋根についた風見鶏のこじんまりとした可愛らしさに見惚れていた。


 坂も中盤を超えたあたりだと思うのだが、頂上は霞んで見えない。瀟洒な洋館を後にして、また少し登っていくと、雑居ビルが増えてきた。ビルの看板を見ると、電機系の会社が多いことに気がづいた。それを半田さんに伝えると待ってましたと言わんばかりの勢いでまたしても蘊蓄を語り出した。「ここ多胡浦はアケボノ電機の発祥の地なんだよ。今はほとんどが神戸だけどね。創業の地はここ多胡浦なんだ。ここで製造した冷蔵庫や洗濯機を大阪港まで運んで輸出してたわけだ。こうして見ると下請けはまだここらへんに残っているようだね」


 真夏の空気に蒸された私と半田さんは、一歩一歩確実に、坂を攻略していった。ふと振り返ると、多胡浦が一望できた。幾つかの小島は黒々と光り、波は穏やかだった。天高く昇る入道雲と青空が夏だけのコントラストを描いていた。


「この坂はね、江戸からはじまり明治大正昭和と、進むごとに歴史が積み重なっているんだ。まるで歴史のティラミスだ」

「それを言うならミルフィーユじゃないですか?」

「手厳しいなぁ。まぁどっちでもいいだろう。さ、頂上だ」


 一番上に着いたら、気持ちのいい風が祝福してくれるかと思ったが、迎えてくれたのはただのぬるい風と、ギラギラしたパチンコ店、それから「直進百メートル」と書かれたラブホテルの看板だった。


「汗もかいたし、シャワーでも浴びてくか?」

半田さんはそっぽを向いて言った。

「まさか、これが目的で坂をのぼったわけじゃないでしょうね」

汗だくで坂を上ったあげく、こんな薄ら寒いことを言われちゃ、泣けてくる。半田さんは先ほどの発言がはなかったかのように、「明治大正昭和ときて最後の景色がパチンコ屋とラブホの看板とはねぇ。平成も世の末だ。もう終わっちゃったけどさ」とつぶやいた。

「大丈夫。こんな景色はただの陽炎ですよ。いつか潰れちゃいますって」と私が言うと、半田さんは「なんでこの坂が陽炎坂っていうのか結局分からず仕舞いだったなぁ」と言った。


 私は少し気を利かせて、「時間もまだありますし、冷房の効いた喫茶店でティラミスでも食べましょうよ」と言いながら、外食チェーンやレンタルビデオ店の看板が居並ぶありふれた平成の道を、今度は平坦なので足取り軽やかにずんずんと進んでいった。

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陽炎坂にて 井中 鯨 @zikobou12

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