1-5 家柄

「誰にも話したことないのですけど、弖寅衣てとらいくんには聞いてほしくて。私は、家柄上とても厳しい英才教育で育ってきて、当時はそれが普通だと思ってしまっていました」


 一颯いぶきさんはテーブルの木目を、その白く細い指で撫でるようにしながら話し出した。僕の知らない世界の話だ。帝王学の類なのだろうか。こんな話を僕なんかが聞いてしまっていいのかと思ってしまう。


 一颯いぶきさんの話によると、小中高と学校には行かず、家庭教師や教材、動画などで勉強をさせられていたそうだ。外に出かけることはおろか、旅行などにも連れて行ってもらったことはないらしい。まるで監禁生活だ。

 どうやら父親の方が厳格だったらしい。母親も厳しかったそうだが、それでも父親よりは優しくしてくれたそうだ。


 そんな一般社会とはかけ離れた環境で、彼女は何の疑問も抱かずに育ってきたが、16歳の頃に読んだ本をきっかけに、自分以外の人間達のことについて考え始める。そうして徐々に外の世界への興味が高まったそうだ。

 そして、18歳を過ぎた冬、彼女はついに家を飛び出したのだそうだ。知らない街、知らない環境での暮らしは不安が大きかったに違いないが、その日のために蓄えた知識を活かし、時には見知らぬ人に訊ねることもあった。

 不安はあったが、それでも持ち前のメンタルと、そして何より新しい世界への希望を胸に抱え、自立していったのだと言う。


 そして、これはつい最近になって知ったそうなのだが、本当だったら両親はいつでも彼女を連れ戻すことができる状況で、母親が影で父親を説得してくれたんだそうだ。暖かく見守りましょうと。



「両親のことは別段嫌ってもいないし、憎んでもいません。育ててくれた恩義は今でも持っています。それでも、私は外の世界へと飛び出したくて……人の心に触れてみたかったのです」


 彼女の吸い込まれそうな瞳は、窓ガラスの向こうにある外の世界を見据えていた。そんな波瀾万丈を経て今日まで生きてきたなんて、想像だにしなかったし、同じ状況でも僕にはできないだろう。


「私が初めて触れた人の心。それは弖寅衣てとらいくんの心だったのです」


 ここで僕の名前が出てくるとは思わなかった。僕、一颯いぶきさんに何か失礼なことをしてしまったのだろうか? 全く身に覚えがない。


弖寅衣てとらいくんは覚えてないかもしれないですけど、入社して間もない頃、私がミスを犯してしまって残業をしていた時に、弖寅衣くんは何も言わずに私の仕事を手伝ってくれたんですよ?」


 そんな事があったような気もする。いや、すみません、覚えてないです。


「ちょうどその残業があの倉庫での作業だったんです。だからさっき2人で片付けていた時にあの時のこと思い出してしまって。今日こそは声をかけるぞって決めたんです」


 並々ならぬ思いを胸に秘めて僕を誘ってくれたのか。仕事をそつなくこなす彼女のことをいつも凄いなと感心していたのだが、もしかしたらそのミスをしてしまった時の事をきっかけに、より一層努力しようと決心していたのかもしれない。彼女はとても真面目で、真面目だからこそ人知れず努力をしていたに違いない。


弖寅衣てとらいくん、あの時はありがとうございました。みんなは無感情だとか、ロボットみたいだとか弖寅衣くんのことを言うけれど、私はそうは思いません。誰よりも人間らしい方だと断言します。本当に心がある人間は言葉ではなく、行動に表れるのだと、あれ以来私は信じています」


 そんなことは今まで誰にも言われなかったし、自分でもロボットみたいな人間だと思う。なので、照れ臭いような恥ずかしいような少し不思議な気持ちになる。昔から他人に褒められることなどなかったからな。ただ一人、姉を除いて。


「ずっと言いたかった思いも伝えることができて、スッキリしました! でも、いっぱい話したせいかちょっとお腹もすいちゃいました……」


 ふと見ると、さっきまであったパンケーキはいつの間にか綺麗になくなっている。

 彼女は迷うことなく店員を呼び、ミルフィーユを注文するのであった。こんなに身体が細いのにまだ食べるなんて……彼女の意外な一面をまた一つ知ることとなった。


 一颯いぶきさんはミルフィーユを平らげた後もキッシュを注文した。このくらいの量は普段通りらしい。それでこのスタイルを維持しているのだから、モデルさんにでもなればいいのに。


弖寅衣てとらいくんは明日の飲み会には参加しないのですよね? いいなー、私も断る勇気がほしいです」


 彼女はふとそんなことを言い出したのだが、彼女の立場上周りから誘われてしまうのだろうな。飲み会は好きじゃないのだろうか。そう思って聞いてみると、


「お酒あまり飲めないんです。横沢さんがいつもお酒飲ませようとしてきて、断るのも一苦労なんですよ?」


 と言いながら苦笑した。彼女もやはり横沢さんには苦戦しているんだろうな。


「僕もお酒はそれほど好きじゃないんです。何より飲み会の空気が嫌いです」


 僕は平然と抑揚なく言ってのけた。一颯いぶきさんはわかりますと同意しながら何度か頷いた。


「塩見さんはお酒強いみたいで何杯飲んでも平気なんだそうです。でも酔ったふりをして部長たちにべたべたしてるんですよ? さっきも酷かったですよね? 弖寅衣てとらいくんのこといじめすぎです」


 先ほど塩見さんが僕に嫌味を言ってた所を見ていたのか。そしてその現場を思い出しているからか、今日はいつもニコニコしていた彼女だったが、珍しく口を結んで不機嫌そうにした。こんな表情もするんだな。


「僕も、一颯いぶきさんに聞いてもらいたい話があるんです」


 そう切り出すと、彼女はどうぞと優しい笑みを浮かべながら首を横に傾けた。


「さっき、あの倉庫で倒れて意識を失った時に、僕は夢を見たんです。でも、それはいつも見るような夢じゃなくて……とても現実味があって、もう1つの世界にいるような。そこで僕は6年前に亡くなった姉と雑談をしたんです。紅茶を飲みながら」


 どう説明していいのかわからず、歯切れが悪い内容になってしまった。それでも彼女になら話せると、不思議と打ち明けてしまっている自分がいた。


「私、信じますよ、弖寅衣てとらいくんのお話。弖寅衣くんは少し変わってるけど、それでも現実と幻想の区別ができる人だとわかってますから。不思議な体験をしたんですね」


 彼女の言葉はとても柔らかく、包容感があった。そして何より変な人だと思われなくてよかったと僕は胸を撫で下ろした。いや、少し変わってるとは思われていたのか。


「僕は、自分でもまだ半信半疑なんです。本当にこんなこと起こるのかなって」


 自分の中ではもう九割方信じているのだが、彼女の意見も聞きたくてそんな言い方をしてみた。

 僕らは日々の仕事をこなす上でも現実的な思考でなければいけない。それは、裏を返せば非現実的な事象は排除しなければならないということだ。それを踏まえた上で彼女の意見も聞いてみたかった。


「私も不思議な体験はしたことあります。本当にまれではありますけど、世の中にはそう言った現象は存在するんだと思いますよ。理屈や理論で説明がつかないことが。ところで、弖寅衣てとらいくんのお姉さんはどんな御方だったのですか?」


 彼女が決して否定的な意見を言わなかったことに僕はとても安堵した。

 そして、僕は姉の高校時代のエピソードを少し語った。さすがに一颯いぶきさんも姉の破天荒で、非常識な逸話を聞かされて、驚嘆したり、時にはお腹を押さえて笑っていた。


「素敵なお姉さんだったんですね。さすがに助けた人に痴漢をされて、怒って相手を殴ってしまったのはどちらも可哀想ですけど」


「こっちの身にもなってください。姉は怒りが収まらなくて、呼び出された僕が何度も頭を下げたんです。その時まだ僕、小学生だったんですから」


 そう言うと彼女はまた笑い出した。今となってはいい思い出か。姉には散々迷惑をかけられたが、それを補ってあり余るほど助けられた。本人に面と向かっては言えないが、抱えきれないほどの感謝の気持ちでいっぱいなんだ。


一颯いぶきさんの家庭とうちは大違いですね。両親とは僕も疎遠なんですけど。姉にも厳しい教育してみたいです」


 とは言ったものの、姉は頭脳明晰でもあるからその必要はなく、逆に覇権を奪われて僕が厳しく教育させられるんだろうなと、想像は容易い。


弖寅衣てとらいくんは親孝行してるイメージあったので、それは意外でした。私も両親に今会わせる顔はないですけど、いつか自分の納得できる答えを見つけたら、笑顔で会いに行きたいです。でも、いいなぁ、私もお姉ちゃんほしかったなー」


 彼女は、存在しえないもしもの世界を夢想しているのだろうか、指先をくるくると回している。僕は姉のことは尊敬しているが、姉のような姉は決して他人にはオススメできない。

 一颯いぶきさんはいつの間にかアイスコーヒーを注文していたようだ。と、何を思ったか、テーブルの上に置いてある塩の小瓶をとり2、3度振った。


「ちょ、一颯さん、それ塩ですよね? 大丈夫なんですか?」


 さすがに口を挟んでしまった。コーヒーには塩を入れる主義だという可能性もあったが、ないよなそれは。


「え? え? これ、お塩!? やだ、どうしましょう。私、お砂糖だと思ってて」


 間違えていたのか。赤面しながら慌てている。


「じゃあ、僕が飲みますね。さすがにお嬢様に飲ませるわけにはいきません」


 そう言ってから僕は店員にもう一つアイスコーヒーを注文した。そして新しいストローで塩味のコーヒーを飲んでみた。少ししょっぱいくらいかな。


「もうっ、お嬢様扱いしないでください。でも、気を遣ってくれてありがとうございます。実はあまりこういうの知らなくて」


 むすっとした反応をしたがすぐにまた恥ずかしそうにしていた。やはり少し常識知らずな所があるようだ。


一颯いぶきさんはてっきりこういう場所にもよく来るのだと思ってました」


「全然ですよ。よく誘われるんですけど、男性と2人きりになるのは避けてるので、きっぱりお断りするようにしてます」


 そうだったのか、そういう所はしっかりしてるんだな。


「誰かを誘うのだって初めてだったんですから」


 と、小声で続けたがしっかり聞こえている。そうなのか、 少し一颯いぶきさんのこと誤解していたな。と、そこへ先ほど注文したアイスコーヒーがきた。


「はい、どうぞ。あ、アイスコーヒーには砂糖じゃなくてこっちのガムシロップの方がいいですよ」


 彼女は少し気恥しそうに僕を見てから、ありがとうございますと言った。

 こんな何気ないやりとりをして時間を過ごすこともあるんだな。世間のしがらみ、面倒な人間関係から解放されて過ごす有意義な時間の過ごし方、そんなことが僕にもできるんだな。そんな一時の幸せを感じてしまった。

 そして、これが社会人になってからの僕にとって、人生初のアフターファイブだった。

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