お盆特別編 受験生、生と死についてかく語りき
お盆ですね。皆さんはお墓参り行かれましたか?私は行ってません。いえ、行けてないのです。如何せん遠いので。
余談ですが、私はお墓に入りたくありません。お金積まれても入りません。
ちなみに死んだら海に散骨してほしいと思ってます。土の中は寂しいですからね。それに海は生命の起源がどうのこうの言われますし、土に還るのではなく海に還りたい…
これ以上書くと遺書になりそうなのでやめます。
さて、筆者(18)受験生、この前ふと思った疑問を、ここに記しておきます。
それは「不死になったら、生きるも何も無くない?」ということです。何を言ってるのか分からないですよね。私もよく分かりません。ここでは「生と死」をコインの裏表ように完全に対となっているものとして考えてみましょう。不死になるということはコインで言えば、どちらかの面を無くす、ということになります。例えばコインの裏を無くしたらどうなるでしょう。どの面を表とするのでしょうか。そもそも裏のないコインに「面」は存在し得るのでしょうか。さらに言えば裏のないコインはコインなのでしょうか。そこで生きること、死ぬこともコインの裏表と同じようなものでは?と私は考えた訳です。「死」ということがあるから「生」がある。もし生命が不死を獲得したとしたら、それは永遠に「生きている」と言えるのか。むしろただただその場に「存在している」だけになるのではないか…
そんなことを考えていました。何故そんなことを考えていたかって?知りませんよそんなの。むしろ私が聞きたい。理系がなに哲学チックなこと考えてんだよ。
で、結局何が言いたいのか。それは
「不死になる必要は無い。」ということ。
(意見には個人差があります)
限りがあって、とても短い人生だから人はその短い人生をなんとしてでも充実したものにしたくて、いろいろ努力してるわけです。(意見には個人差云々…)
勉強して収入の多い職に就いたり、たくさん練習して大会に出て勝ったり、頑張って働いてお金貯めて、美味しいもの食べたり、好きなもの買ったり、ライブ行ったり、イベント行ったり、旅行に行ったり、自分を磨いて時には恋したり…
もし人生無限にありますよーとなったらどうなるか。これらのことに価値を見出だせなくなるのではないか。
ほら、物だってそうでしょ?《期間限定》とか《数量限定》とか言われると俄然ほしくなるじゃないですか。それはきっと"限りある"ということに自然と価値を見出だしてるから。
人の一生だってそれと同じことだと思うんです。しかも人生は人それぞれに違って、同じものが2つと無いもの。という固定観念があるのでこう思うのかもしれませんが、なんか不死を手に入れたら、それと引き換えに何かしら大きなものを失う気がします。その1つが「生きている」という実感なのかもしれません。
よし、楽しもうか。
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