シトラス



 途方にくれる私のもとに足音が近づいてきた。視界の端にヌバックのワークブーツを履いた右足が現れた。


「メイヴィ? メイヴィじゃない! わぉわぉわぉ。アタシよ。あ、た、し! あれぇ? その死んだみたいな顔色なによぉ、忘れちゃったのかしらぁ?」


 混乱が大きすぎてロクに返事が出来ない。女? 男? そいつは呆ける私の肩を、熊みたいに分厚い手で遠慮なく叩いてきた。私の頭は揺れるがままにされた。


「あのさぁ? いま、変なやつに絡まれていなかったん? 危ない所だったんじゃない?」


 いちいち気持ち悪い喋り方。スキンヘッドにピンク色のトサカが生えた頭。真っ白の巨大なファーでも隠し切れない、岩山みたいな肩幅。こんなやつは他の街を探してもひとりといない。


「もしかして……あんたやけ食いブリミアのシトラス? ヤクのやりすぎで、死んじまったって聞いたけれど……」


「いやっだぁーん。シディって呼んでよぉ、メイヴィちゃん」


 私は思い出した。間違いなく、いまこの瞬間に一番会いたくない奴の一人。こいつは正真正銘の最低スカムな薬物中毒のオカマ野郎だった。


「メイヴィちゃんたら、ブリっブリに可愛らしい旦那ちゃんと合体しちゃったって噂で聞いてたのよ? オチビちゃんもいるって、オカマ……いゃあだぁ、間違えちゃった。仲間ナカマから聞いたのよん?」


 見苦しく悶える大男は、久しぶりに見ても胸糞が悪い。


「今日は娘ちゃんは? ママが、こ~んな危ないトコをウロウロしてたら駄目じゃん。おマタにもうひとつ、アナが開いちゃうわよん」


「下らないね」冗談にも品ってものがあるだろうに。私はたまらず言った。「あんたになんの関係があんのさ。いまの私にゃあ、娘も旦那もいないんだよ!」


「わっ! やだん! そんなこと言っちゃって。おいが足らないんじゃない?」急に野太い声になったシトラスが、店員に凄みを効かせた。「お前! この人に安酒呑ませんじゃねえよ! 最上級スパーブ持ってきな!」


 シトラスがこの店にどんな影響力があるかなんて、私は知らない。だが店員は作りかけのカクテルを放り出し、別の棚から取り出したマッカランで私の水割りトゥワイスアップを最優先で作った。


 私の手元に琥珀色の液体が滑り込む。


 シトラスはその巨大な鼻腔を1.5倍に広げ、空気を塊で吸い込んだ。「うぅん、いいわぁ。私にもおんなじのちょうだい」甘ったるく言う。


「出会いに乾杯していいかしらぁ?」


勝手にやんなスーツ・ユアセルフ」私はそのレアカスクの液体の半分を、口に一気に流し込んだ。シェリー樽の香りが鼻を抜けていく。


「いいわねぇ、その飲みっぷり。昔を思い出すわん……」シトラスはカバのように口を開き、ひと飲みで自分のウィスキーを吸い込んだ。「あなたは忘れん坊さんになっちゃったみたいねぇ、でも覚えているでしょ? アタシたちが一番ビカビカぁってしてた、やんちゃな頃のコト……」


 私が聞きたくない過去の事実。隠してたわけじゃないが、よりによって醜悪なシトラスの口から暴かれれるなんて――。


「あの頃のメイヴィ、ピンピンにとんがってた。アタシだってピーピー泣いちゃうおクスリを、ガッツリくわえこんで、自分のもんにしちゃってたじゃん。憧れてたのよぉん。で、アタシも真似したら、薬に負けてハマっちゃった。マッポに嫌ってほど世話になっちゃってさぁ。おかげで牢屋ん中で、男たちにグチャグチャにほぐされちゃて。おかげでいま体の方はそっちに依存しちゃったわあ」


 シトラスの頬が欲望にだらりと下がる。口が半開きになっていた。「アタシの憧れ! 仲間内でもあなただけ・・は違ってたから。あんだけ自分を追いこんで、体をめちゃくちゃに虐めたくせに、あなたの人生、なぁぁぁんにも汚れてない! 過去にも体にも、ひとっっつも汚いシミが残ってないなんてぇ!! すごいわぁん! それでこそアタシのメイヴィちゃんよ!」こっちを見る目が信者のように熱を帯びていた。


 シトラスの毒気にあてられてきたのか、頭がぼんやりしてきた。いや、これは気のせいじゃない。本当に視界がグラグラと揺れているのだ。


 少し落ち着いた表情に戻ったシトラスの、唇が妖しく歪んだ。「さすがのあなたも……酔ってきたんじゃなあい? アタシたちのひっさしぶりの出会いの夜の、雰囲気にさあん」


 私は一瞬、不自然な頭のふらつきを感じた。「シトラス……あんたまさか……」


「アタシはねぇ? あなたの味方になりたいのん。とーってもとーっても憧れてたあなたの。あらん、眠いのね……さあ、行きましょうかぁ……心配しなくても大丈夫よお? ここはあたしのねぇ……オ・ゴ・リ!」


 私の指がグラスを離れた。自然と頭が下がっていき、意識は一木造りのテーブルを突き抜け下へ下へと沈んでいく。睡眠薬か何かを盛られたのは間違いない。酒が年代物だっただけに、意地汚く一気に飲んでしまった。


 今日をずっと支配していた心配と不安が、心から消えていくことに少しだけ安堵しながら、私は偽りの眠りへと落ちていった。

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