バーにいた男



 バーは夜になると本性を見せる。適度に賑わうその店『250 5thフィフス』は、この町でもランクがあまり高くない、場末にあるバーのひとつだった。


 カウンター席に腰を掛けながら、私の指はずっと、ウィスキーの注がれたティスティング・グラスのリムを這っていた。


 すでに数杯は熱いものを流し込んでいるから、体は反応しているかもしれない。だが酔ったという実感がなかった。今日私が味わったように、世界がこうして確実に目の前にあるのに、そこに生きている証が無いのと似ていた。


 この世界の歯車がどこか狂いかけている。それを追いかけるように、私がおかしくなってるのも間違いがない。


 子供が誘拐されたかもしれないのに、堂々とバーで酒を飲んでいるなんて、普通の母親がする事とは思えない。かといってパニック症状を起こして、泣いたり叫んだりする気持ちも起きない。


 強気なのは時々出る悪態だけで、行動が伴わない。どうすればいい。ドライブしても娘は見つからない。警察や役所に行っても存在を否定される。なら家で待つべきなのに、今一番いたくないのが自宅だった。結局そぞろ歩いた先のバーで、こうして酒を飲む事しか出来ない。


 私はグラスから視線を反らした。横にはひし形のピンクの錠剤が3つ積み上がっている。ほうを解かれた薬剤は、私に飲まれる準備を終え、熱い胃で溶ける瞬間を待っていた。


 残された道はここしか無いのか。これを体に放り込めば、世界から阻害される感覚ははたと止み、私は安息を手に入れられるだろう。だが次に目覚めるのは硬いスティールのベッドの上、拘束具ジャケットを着て一生を過ごすことになるかもしれない。もちろん誰にも会えずに。


 空調の効いた部屋なのに、背筋に身震いが起きた。残りの蒸留酒を一気に飲み干す。空いたグラスを押し出して店員に告げた。「同じものをセイム


 錠剤から視線を外せない。どうせこのままでも娘と会えないなら、生きる場所がどこだって同じではないか。


 オールバックの店員が、琥珀色の液体の入ったおかわりを静かに差し出す。その振動のせいか、薬のひとつがポロリとテーブルに転がり、私の目の前で不規則に回転し始めた。


 手に取れ。染まってしまえ。そういう暗示なのか。カウンターにひとつだけあるキャンドルの炎が揺らめき、グラスに複雑な反射と慕う影を作る。私の人差し指がすっと伸びる――。


「そのような薬物に頼るのはおやめなさい」


 私が手を止めたのと声をかけられたのは、ほぼ同時だった。


 その男はいつの間にかそこにいた。カウンターチェアに浅く腰を掛け、薄い瞼の下の黒い目が私を見つめていた。


 手元にはグラスがあり、緑色の飲み物――エメラルド・アイだろうか――がまだ半分入っていた。アジア系の黒い髪で、上着とパンツも併せたように暗黒色だ。私が気づかなかったのは、彼がジャケットを深く羽織り、薄暗いバーに擬態して存在を埋もれさせていたからに違いない。


 いま私を見る彼は、逆に歯とシャツの白さが目立ち、妙に痩せて見えた。シャツのボタン穴から懐中時計の鎖が伸びていて、胸ポケットの中に通じている。理由はわからないが、この男性は神経質な職業に就いている感じがした。


「誰……」私は充血した目を開き、もう一度男を見つめた。私の記憶を照らし合わせたが、該当無しN/Aだった。


「あなたは私を知らないはずです。私も初対面なのですから」身についた職業的慇懃さなのか、彼は丁寧に口上を述べた。「そして私の名前はこの際、あまり重要ではありません」彼はポケットの中に手を入れ、中身を取り出した。


 丸い懐中時計。その金属の蓋を開き、針の位置を見た。「あなたと同じように、私にもあまり時間は無いのです」


「時間って?」


「私が『ここにいられる時間』です。その間に私はあなたに説明をしなくちゃならない。言い方は悪いですが、網を張ってあなたが来るのを待っていたんですよ? もう来ないかと思っていました」


 男は残りの酒を飲み干した。「これを受け取ってください」男はカウンターの足元に手を伸ばした。中くらいの大きさの黒いボストンバッグを取り出して、カウンターの上にドンと置く。


「なんなの……あんた? 何か売り付けるつもり……それとも宗教の勧誘?」茶化すように言う。


「いえ、どちらかといえばボランティアの宅配人といった役割です」彼は真面目腐った表情で言い、バッグを私の方にぐっと押した。「これは本来はあなたのものと言っていい。私の役目はこれを渡す事と、あなたに気づきを与える事なのです」


「悪いけどさ、話が全く通じない。今日は何もかもがめちゃくちゃで……だからこれ以上何が起こっても、混乱しない自信があった。でもね。あんたの言う事が一番おかしいよ」私は顔を伏せた。「お願い、消えて。凝った手を考えてるようだけれど、ナンパのつもりなら、そんな気分じゃないから」


 彼は私のキツイ拒絶を完全にスルーした。「私から言える提言はただひとつ。あなたはこの鞄を持って、今すぐこの街を出て行くべきなのです」


 私は男を睨んだ。決めつけやがって、何なんだ。ナンパにしちゃ変だけど。どこかに仲間がいて、酒の余興で私をからかってるのか、それとも哀れみ?


 それはそれでムカついた。同情とか媚びる様子とか、そんな物を少しでも感じた瞬間に、あの細い顎を殴ってやろうと、本気で考えた。しかし目を見ているうちに、急に理解が滑り込んできた。この男、自分が得しようとか、さらさら思っていないと。


「今日起こった過去・・に囚われてはいけません」彼は再び時間を気にし始めた。「それにあなたをここに縛り付けているのが、薬物への渇望などではないと、私は理解しています。だからこそ、ここを出るのです。そのカバンを手に取る勇気をお出しなさい。娘さんと旦那を、幻の存在にしたくないのなら」


「あんた!」私は思わず席から立ち上がっていた。「どうしてそれを知ってるのさ!」


 彼はただコクリと肯いた。言葉がなくても真実を伝えるには十分だと言わんばかりに。


「あ……」私は膝から力が抜けて、座り込んでしまった。どんな酒に頼っても訪れなかった安堵感が心を震わせる。「良かった……私、ひとりじゃなかった。母親でいいんだね」どれほど悩んでも出てこなかった涙が急に溢れた。ようやく出口に繋がる道を一本、見つけることが出来たんだ。


 男も満足げな顔で立ち上がった。さぁ行きましょうと、震える私に手を伸ばしてくる。これが救済の一歩になるに違いない。私はその道に乗ることに決め、指を伸ばした。だが結局、二つの掌が交わることはなかった。


 ズンと鈍い音が響いた。男の体全体が不自然に揺れた。


 それは突然の出来事だった。目深にワッチキャップを被った若者がスッとやって来て、腰に構えていた何かで、男の腰の上あたりを刺したのだ。


 若者は躊躇うことなく、私と男の間にあった鞄を奪い取り、カウンターから走り去っていった。


 バーテンダーが振り向いて、ステンレス製のシェイカーを振り始めた。一瞬すぎて私と当事者以外、その惨事に気づいたものはいなかった。


「……申し訳ありません、メイヴィスさん。少し遅かったようです」ニコっと笑ったその刹那、膝が折れ彼はその場に崩れ落ちた。


 カランと金属の音がした。横向きに倒れた男の腹のあたりから、太い刃を持つナイフが滑り出て、私の右の靴先に当たった。


 やいばに赤い付着物を想像していた私は、ナイフを見てぎょっとした。刀身は全く汚れていない。それどころか、刃自体が夜の繁華街のネオン照明のように、赤とオレンジの明滅を繰り返していたのだ。


「はやく……逃げ……な……さい……」男が息絶えだえに警告した。「ああ……荷物が……残念です」驚愕する私の前で彼は3度大きく痙攣すると、動かなくなった。


 私は目を大きく見開いた。命の消えた男の体の輪郭が、カウンターの下でゆっくりと薄らいでいく。やがて床の血の染みと共に、彼の姿は目の前から完全に消え去ってしまった。


 現実が遠のいた。そして私の進むべき道は、また塞がってしまった。

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