消滅トリック

 マジシャンの控室に、ひとりの男が訪れた。

 男も、やはりマジシャンだった。しかも、世界的にも有名な魔術師、ミスターMである。だが、控室で待っていたもうひとりのマジシャンの名前を知る者は、このイベントの中には一人もいない。

 ミスターMは、挨拶もそこそこに、さっそく用件を切り出した。

「先ほどの君のマジックだが……簡単そうに見えてなかなか実に奥が深い。何というか、その……」

「光栄です、ミスターM。私のマジックに興味を持っていただけましたか?」

 無名のマジシャンはうれしそうに目を輝かせた。

 そのマジックは、箱の中に入った物を瞬時に消してしまうという、実にシンプルなものだった。中に入れるものは大きなものでも小さなものでもなんでもいい。しかも、その箱は透明のガラスだ。マジシャンが箱を両手で抱えるようにすると、透けた中身が衆目の前でするすると消えていくのだ。

 会場内でそのトリックを見破る者は、誰もいなかった。もっとも、簡単にタネが割れるようでは、マジックをオークションにかける値打ちはない。なにしろ、会場の客は世界中から集まった有名無名のマジシャンたちなのである。

 超マジックのトリックを考える天才は、世の中にそんなに多くはいない。このイベントは、それら一握りの卓越したマジシャンが、同業のマジックのプロを相手に奇跡のようなトリックを高額で取引する、トリックオークションだった。

 ちなみに、かつて一世を風靡したイギリスの超能力者が、スプーン曲げのトリックを仕入れたのもこの会場だった。その後、そのトリックは一定の独占期間を経て世界中に伝播した。今ではスプーン曲げはよく見かける普通のマジックの一つになっている。

 が、この不思議なマジシャンが先ほど見せたトリックは、ひょっとしたらスプーン曲げ以上にマジック界、魔術界を涌かせる可能性があった。ミスターMは長年の経験でそう感じていたのである。

「失礼。私もこの世界は長いが、君とは初対面のようだ」

「ええ、実は、私はマジシャンではありません。出鱈目博士……科学者です」

「ほう」

 と、ミスターMは感心したような声を出した。実をいうと、マジックのトリックを考える人間には科学者や数学者なども少なくないのである。

 ミスターMは、マジックは物理学や化学などと同じ、独立した科学だと思っている。その証拠に、例えば「ミステリーサークルの謎」は、どんなにたくさんの科学者が研究しても解くことが出来ないが、すでにミスターMや多くのマジシャンは、それは手品にすぎないと見破っているのである。数学者に言語学がわからないのと同じで、学問の分野が違うのだ。

 ともあれ、ミスターMはこのトリックを誰よりも先に手に入れたいと考えていた。トップマジシャンとしての長年の勘が、彼を突き動かすのだ。

「出鱈目博士……」

 ミスターMは急にひそひそ声になった。

「そのトリック、私にだけに教えてくれないだろうか。君のような部外者が、この私に声をかけられること自体、名誉なことだと思っていただきたい。わかるかね」

「それはわかりますが、私はこの世界で名を広めようなどとは考えてはいないのです。ただ、このネタを少しでも高く売るために参加しただけです」

 出鱈目博士は、相手よりもさらに声を潜めた。

「実はこの手品には、厳密に言うとトリックなどないのです」

 そういいながら、出鱈目博士は近くにあったテレビを両手で挟んだ。

どうぞ、といわれて、今度はミスターMがそのテレビを持ち上げると、風船のように軽い。なんと薄い外枠だけ残して、一瞬の間に、中身がなくなっていたのだ。テレビを床に落とすと、たまごが潰れるようにぺっちゃんこになった。

 ミスターMの目が輝いた。

「私はこのように両手に指輪をしています。この指輪が二極になっていまして、それを挟む空間の中身が瞬く間に消滅してしまうというわけです。トリックといわれればそれがトリックなのですが、実は純粋に科学的な結果なのです。その秘密は私の頭の中にあって、誰にもお渡しすることは出来ません」

「それは実に画期的な発明じゃないか!」

「ははは、しかしまだまだ実用化には程遠いものですよ。可能性の段階にしかすぎません。完全なものにするには、研究も足りませんし、お金も要ります」

 出鱈目博士はすでにミスターMの意図がわかっていた。トリックがオークションにかけられる前に、自分のものにしようとしているのだ。だが、この中途半端な研究を今のうちに高く売りつけ、次の研究費に当てようとする目論見を読まれてしまって、値を叩かれても困るのである。

 ところが、ミスターMの勢いは大変なものだった。

「では、それを私に売ってくれないか。金に糸目はつけない」

 ミスターMは足元においていたトランクを指差した。

「十万ドル入っている」

「そ、それはすごい!」

 さすがに世界的マジシャンだ。出鱈目博士は、思ってもいない大金の提示に驚いた。ミスターMは博士の喜々とした表情に安堵して、握手の手を差し出した。

「契約成立だな」

 しかし博士は、喜びのあまり我を失っていた。その手を両手で受け入れてしまったのである。

 刹那、ミスターMは、ぎょえ、という奇妙な声を出した。すぐに手を引っ込めたが遅かった。脱ぎ捨てた手袋のように、袖口から手の皮だけがぶらんと垂れ下がっている。

 凍てつくような空間が二人を包んだ。何が起こったかを理解するまで、お互いにある程度の時間が必要だった。

 だが、すぐに沈黙は破れた。ミスターMが半狂乱になって、出鱈目博士に突っかかってきたのだ。

「な、なんてことだ。これじゃ、もうマジックは一生出来ない!」

「すみません、不注意でした」

 出鱈目博士は悪びれたように舌をだした。内心あたふたしていた。

「不注意で済むことか!」

「まあまあ、興奮しないで……」

 といいながら、組み付いてきたミスターMを引き離そうとして腰を掴んだ。

 すると、見る見るうちにその腰がしぼんでいき、まるで砂時計のように真ん中がくびれた。驚く暇もなかった。はうああ、と断末魔の悲鳴を上げたまま、ミスターMは腰から二つ折りに重なって床に倒れた。内蔵が瞬時に消滅してしまったのだ。

 出鱈目博士は、自分の発明品の威力に舌を巻いた。

「こ、これはすごい……しかし、まさか殺してしまうとは……」

 まず落ち着こうと思ったが、状況をあらためて分析してみると、やはり動揺せざるをえない。とにかく、すぐ逃げなければ、警察に捕まってしまう。事故とはいえ、裁判になれば研究は頓挫するし、発明の秘密も公になってしまうだろう。

 と、突然、ドアの向こうから人の声が聞こえた。

「エントリーナンバー42番、出鱈目さん。オークションの出番です」

 もしここで、誰かがこの部屋に入ってきて現場を見たら、もはや万事休すである。

 出鱈目博士は、こうなったらやるしかないと、ミスターMのトランクに飛びついた。逃げる前に金だけはもらっておいて損はない、そう考えたのである。

 しかし、やはり慌てていた。

 トランクを両手で持ち上げていたのだ。あっと思って、トランクを開いたが、すでに中身は空っぽになっていた。

「し、しまった!これでは、何もかも水の泡じゃないか」


 出鱈目博士は、思わず頭を抱えた。











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