10.屋敷編[四]
――某所。
部屋の柱時計がかちこちと時を刻む中、あたしたちは無言のまま、重い空気が漂う食卓に着いていた。家政婦が緩慢な動作で食事を運んでくる。
屋敷の中で確認できた人物は、家政婦と、個室で出会った青年だけ。あたしを含めて三人しかいないということになる。
あの後――今はあたしの正面で、食事が運ばれてくる様子を硬い表情で見つめている青年を見付けた後――あたしはすぐに部屋を飛び出していた。そして残りの部屋を調べた。案の定、窓が開かないことを知ってしまった。他には誰もいないということも。
どうしようもなくなった為、よろよろと青年のいる部屋に戻った。青年は疲れた顔をして、相変わらずベッドの縁に座っていた。三十代前半ぐらいの見た目に、黒い髪が、どこか懐かしい。白いシャツにジーンズという、着たことがない人の方が珍しいのではないかと思えるような組み合わせの服装をしている。
あたしと同じように連れてこられたのだろうか。
ここで目覚めた直後のことを思い出す。頭がぼんやりしていて、上手く思考が働かなかった。頭痛は今も続いている。彼もそういう状態なのだろうか。
「名前は、なんていうんですか?」
彼の側に立ったまま、そう尋ねていた。ほとんど無意識だった。尋ねられた当人は、気怠そうにこちらを見た。ふと、まずは自分から名乗るべきだっただろうかと思い直す。
少しの間を置いた後、彼は名乗ってくれた。
「カズ」
……どうやらフルネームを教える気はないらしい。
しかし今はそれだけで十分だった。
目の前にいるこの男の人は――カズさんは、違う。あたしの大切な人じゃない。
だというのに、こんなにも似ているこの人は一体、誰なんだろう。わからないことが増えてしまったようにさえ思える。
あたしは、そろそろと窓に近付いた。そして、人違いをしたことへの動揺を誤魔化すように手で探る。……ここも、はめ殺しだった。
「あんたは?」
そう問われてから、今度は自分が名乗る番だということに気付くまで数秒の時間を要してしまった。相手が答えてくれたのだから、自分も答えない訳にはいかない。だけど。
「名乗りたくないです」
首を左右に振っていた。
「人には名乗らせておいてか?」
カズさんは呆れているようだった。確かに上か下、どちらかだけなら名乗ってもいいのだけれど……。
「あたし、自分の名前が原因で死にかけたことがあるんです。他人に、迷惑をかけたことも……。だから、この名前が嫌いで」
「なんだそれは。俺は名乗ったぞ」
カズさんはあたしの弁明をばっさりと切り捨てた。
答えるしかないのだろうか。たっぷりと間を置いた。カズさんはその間、あたしの目から視線を逸らさないで見つめ続けている。
諦めて、口を開くことにした。
「さくら、です」
「それ、今考えたんじゃないだろうな」
「違います。ほんとにさくら」
カズさんが訝しそうな目を向けてくる。あたしはなるべくその目を見ないように、視線を相手の顔の下の方にずらした。ただ黙って、その視線と、頭痛に耐える。
相手は納得していない様子だったけれど、問い詰めるほどの価値はないと判断したのだろうか。
「そうかよ、さくらさん」
そう言ったきり、もうこの話題には興味がないという態度でそっぽを向いた。
回らない頭で考える。何か、他にも聞いておくべきことがあるんじゃないのか。
そして、はっとした。
カズさんはこの屋敷の住人ではないという前提で会話を試みていたけれど、この人こそがあたしをここに連れてきた犯人、またはその仲間じゃないとは限らないのではないか? どうしてそのことに思い至れなかったのだろう。
今度は警戒心を露わにして、別の質問をぶつけることにした。
「カズさんはどうしてここにいるんですか?」
「ここって、この屋敷のことか? 俺が知りたいぐらいだ。なんでそんなことを聞く?」
「だって全然、あたしを警戒してるように見えないから」
「この家の人間だとでも思ったのか? それを言うなら、そっちこそ怪しいぞ。最初に話しかけてきたのはそっちだろう」
カズさんの声は怒っているようにも聞こえた。演技かもしれない。でも本当に、あたしと同じで何も知らない可能性もある。
どうすればいいのかわからない。
だけど言えるのは、今は争いなんてしたくないということだった。現状で彼を問い詰めるべきではないかもしれない。
「ごめんなさい……。でも気付いたらここにいて、訳がわからないんです」
「俺だって同じだよ。あの家政婦なら何か知ってそうなものなんだが」
「なんとか聞き出すことはできないんでしょうか」
「俺が問い詰めても無駄だった。何を聞いても、自分はただの雇われの身だから、の一点張りだ。名乗りすらしない」
「名乗ることもしないんですか?」
「あんたの方がまだ素直ってことらしいな」
カズさんが口の片端だけを吊り上げて笑う。あたしの名前が本名じゃないと、疑っているらしい。自分だって、嘘を言っていないという証拠がある訳でもないのに。
「それはそうと、カズさんにもあの家政婦と話す機会があったってことですよね。いつの間に?」
「もう何日も前だ」
「何日もですって?」
驚いたあたしは、なぜか一歩後退っていた。
「どういうことです? カズさんもいきなりここに連れてこられたんじゃないんですか?」
カズさんが頷く。肯定か否定か、どちらの意味かはすぐにはわからなかった。
「俺が最初にここで目を覚ましたのは、もう二週間近くも前だ。寝て起きた時に数えるようにしてるだけで正確な日付かどうかはわからないけど、少なくとも十日は経ってる」
「そんなに前から、ここにいるんですか」
「信じられないなら、無理に信じろとは言わない。だが事実だ。俺から言わせれば、ずっとあの家政婦しかいなかったこの場所に、いきなり現れたあんたこそ何者なんだと問い詰めたいぐらいなんだが、どうせ無駄だろう」
あたしは返事をしなかった。できなかった。
彼が怪しいことに変わりはない。けれど同時に、あたしの潔白を証明する術もない。結局のところ争わない為には、この話題は避けるべきなのかもしれない。
それきり、今のあたしたちには話すことがなくなってしまった。じっとしていても埒が明かないので、一度、自分が目覚めた部屋に戻ることにする。一人で考える時間が欲しかった。
少しだけ冷えた、でも相変わらず痛みの続く頭で廊下を歩いていると、鞄が落ちていることに気付いた。あたしの鞄だ。落としたまま忘れてしまっていたらしい。自分の迂闊さに呆れながら拾い上げると、部屋に入った。
敵か味方かもわからない者同士が、三人。あたしが被害者であることはあたし自身がよくわかっている。カズさんも同じかどうかはわからないけれど、同じであって欲しい、とは思う……。それとあの家政婦は、間違いなく怪しい。あたしたちと一緒になって閉じ込められている理由は、わからないけれど。
その怪しい家政婦が、食事の準備が出来たと告げに来たのは、彼と出会って一時間も経たない内のことだった。あたしが大慌てで屋敷中を走り回って、その中で見付けたカズさんと話している間、あの人はずっと料理をしていたらしい。呆れるような、恐ろしいような。
あたしはテーブルに着く前に、キッチンで水道水を一心不乱に飲んだ。怒涛の展開にすっかり麻痺していたが、ここで目覚めた時に感じた強烈な喉の渇きを思い出すと、もう我慢ができなかった。
ひとしきり喉を潤すと、口元を拭いながら席に着いた。ほぼ同時に家政婦が料理を運んできた。グラタンだった。器がプラスチック製というところ以外、特に変わった点は見られないけれど……。
恐る恐るスプーンで掬って口に運ぶ。それきり、食べる気が失せてしまった。カズさんに関しては全く口を付けていない。三人分の食事を運び終えてから席に着いた家政婦は、表情を変えることなく、黙々と食事を続けている。
あたしはスプーンを置いて、目を泳がせた。カズさんへと視線を留めると、彼は片肘を突いて目の前のグラタンを睨んでいた。
「カズ様……」
しばらく食事を続けていた家政婦だったけれど、ふと手を止めると顔を上げた。彼女の目元に落とされた前髪の影が、隈をより一層濃く見せる。眼窩が落ち窪んでいるようにも見えて、背筋に冷たいものが走った。カズさんを下の名前で呼びかけたところを見るに、彼女も彼のフルネームを知らないのだろうか。
「お召し上がりになりませんと、体力が持ちません。どうぞ、少しだけでもお食べになって下さいませ……」
「あんたが食ってるその皿の中身とコレは、ほんとに同じものなのか」
「と、仰いますと」
「言葉通りだ。本当に、なんの違いもないのか?」
「同じでございます……。疑わしいのでしたら、交換を」
「いらん。よくこんな不味いものが食えるな」
それは同感だった。味が薄くて、牛乳の匂いしかしない。若干の塩味はあるものの、それが却って不快な要素になっている。とてもじゃないが食べる気にはなれない。
カズさんはよく食えるな、と言ったけれど、まず、よくこんなものがつくれるな、と思う。仮にも家政婦じゃないのか。そうじゃなくても、味覚障害でも患ってるんじゃないかと疑わずにいられない。
「お口に合いませんでしたようで、申し訳ございません……」
家政婦が深々と頭を下げる。その動作はどこまでも無感動で無機質だった。
「すぐにつくり直させていただきます……」
そう言って彼女が立ち上がった時、カズさんが小さく舌打ちするのが聞こえた。
「もし……」
立ち上がったばかりの家政婦が、あたしの頭上で声を落とした。びくっと震えて顔を上げると、ばっちり視線がかち合った。その覇気のない目に、また身震いしそうになる。
「何?」
「お召し上がりにならないのでしたら、一度お引きいたしますが……」
「あの、さ。ここには調理済みの食糧はないの? レトルトとか」
思い切って尋ねていた。家政婦が、背中を丸めた立ち姿のまま答える。
「床下の備蓄庫にいくつかございますが……」
「できればそっちを食べたいんだけど……今後、ずっと。だめかな?」
「かしこまりました。どうぞ、お好きにお持ち下さい……」
あたしの提案にカズさんが目を丸くしている。もしかすると思い付かなかったのかもしれない。
「ただ、くれぐれも食べ過ぎにはご注意下さいまし……」
「どういう意味だ?」
続けて家政婦が放った意味深な言葉に、真っ先に反応を示したのはカズさんだった。
「お屋敷内の食糧は、三人分となりますと節約しても残り数週間程度の量となります。それまでに外に出られるとは限りませんので、ゆめゆめ、お気を付けを……」
数週間。それはこの状況に置いて、とても長いものだ。カズさんはここにもう十日以上もいると言うが、あたしは、数週間もこんな得体の知れない場所に留まろうものなら、餓死より先にノイローゼになってしまう。電話さえあれば助けを呼べるのに。この屋敷には慣れ親しんだ携帯電話どころか、固定電話さえ見当たらなかった。
なんとかして、食糧を食べ切るよりずっと早くに脱出する方法を見付けないと。
とりあえず、食事を終えたらカズさんが携帯電話を持っていないか確認してみよう。望みは限りなく薄いけれど……。
「じゃあ、もう、解散でいいですよね?」
食事は自由に摂れることが決まった。未開封のものなら、安心して口を付けられるだろう。少なくとも、この家政婦の手料理よりは。
立ち上がるあたしを、しかし家政婦は引き留めた。
「カズ様は存じ上げておりますが、あなた様のお名前はまだお伺いしておりません……」
「えっと、それは、名乗れってこと? あなたの名前も知らないのに」
「わたしは、名乗るほどの者ではありません……」
カズさんが、「ほらな」とでも言うように鼻で笑う。
あたしは軽蔑をたっぷり込めた目で、家政婦を見つめた。
「自分は名乗らないで客人には名乗らせるって……。そもそもあたしの名前って、必要な情報?」
カズさんと出会った時のやり取りを思い出すと、先の台詞の前半部分はまるきりあたしにも当てはまってしまうけれど。
しかし家政婦は表情を変えることなく返してきた。
「わたしのことは『家政婦』という役職でお呼びいただいて結構です。しかしながら、便宜上、お客様とお呼びするのは少し……」
「さくら。便宜上の問題なら、これだけ覚えてくれれば、いいから」
「さくら様……?」
その時、家政婦の表情に感情が混じったように見えた。困惑、不審……そんな色。
しかしそれも一瞬のことだった。彼女は「かしこまりました」の台詞と一礼を残して、グラタン皿を手に、キッチンへ消えていった。
その表情の真意は窺えないけれど、これで自由の身になれたことに違いはない。この屋敷内に限定された、仮初めの自由ではあるが。
家政婦がまとう不気味な空気からひとまず解放されたことに、ほっと胸を撫で下ろした。
「カズさん、ご飯を取りに行きませんか?」
「正直、あんたの提案には助かった。あんな気色悪いメシばかり出されて、まともに食事を摂ってなかったもんだから」
「グラタン以外もあんな感じなんですか」
「どんな一級品の素材でも、あの女なら全部無駄にしてしまうだろうな」
成り行き上、備蓄庫がある場所へは連れ立つことになった。床に四角の切れ目がある場所を、あたしは屋敷内を駆けずり回っている時に見付けていた。キッチンからドアを一つ隔てた先にある小部屋だ。本来は物置部屋なのかもしれないが、申し訳程度に置かれた棚には何も置かれていなかった。
小部屋に辿り着いてすぐに電気を付ける。
「電気は使えるんですね」
床下収納の蓋を開く為にしゃがみ込むカズさんの上から、ぽそりと漏らした。さっき水道水も使えたことから、この屋敷のライフラインには問題がないということか。維持管理している人間はいるということだ。
「料理もできるぐらいだからな。シャワーが浴びられるのは、不幸中の幸いだな」
カズさんが床を開くと、中にはレトルト食品やカンパンの類がぎっしりと詰められていた。かなりの量に見えるけれど、三人で分けるとなると数週間しか持たないことにも頷ける。
立ち上がるカズさんの手には、カンパンとミネストローネのパウチが二つずつ握られていた。
「一緒に食うか?」
――気のせいだろうが、そう言ったカズさんの声色が、いやに優しく聞こえた。
あたしは頷いた。そうしてカズさんから手渡された食糧を、大事にきゅっと握った。
「あたしたち、外に出られるんでしょうか」
開かない窓から暮れなずむ空を見つめながら、ぽつんとこぼした。暗雲が垂れ込めていて、今に降り出してもおかしくはないような空模様だった。
カズさんが側に座る。流石に隣り合って食事を摂るということはしない。
スープ皿も電子レンジも勝手に使った。家政婦の姿はすでにキッチンにはなかったし、そもそも自由に摂る許可は得ている。文句を言われる筋合いはない。グラタンに使った皿は洗い上げてあったが、鍋は浸け置きされていた。残りは大皿に移して冷蔵庫に入れられている。なんとも素早い行動だ。
カズさんからの返事はない。自分でも何を言っているのだろうと思った。出られるかどうかじゃない、出るのだ。なんとしてでも。
その為にもまずは腹ごしらえを済ませるべきだろう。
カズさんはすでにミネストローネをかきこんでいる。がっつき具合を見るに、相当お腹が空いていたのだろう。よくもまあ我慢していたものだ。こんなところにいたら、意固地になるのも仕方はないと思うけれど。
あたしの方は……まあまあ、普通に空腹、ぐらいだろうか。この頭痛さえなければ、もう少し食欲もわいたかもしれないけれど。日常で生活を送っていた頃から、ここに連れてこられるまでどれぐらいの時間が経っているのかわからない。でも少なくとも、一日以上ということはなさそうだった。
「ああ、そうだ。カズさんって、携帯電話を持ってたりしませんか?」
カズさんがスープ皿から顔を上げて、こちらに視線を向ける。
「いや、持ってないな。持ってたらとっくに助けを呼んでる」
「そう、ですよね」
「あんたもなくなってたのか」
頷き返す。本当は携帯電話の他にも抜き取られていたものがあるような気がしていたけれど、それが何かまでは思い出せないでいた。起きてからずっと、頭がぼうっとしているのだ。それに無理に考えようとすると、頭痛が増す。
「屋敷内には固定電話もパソコンも見当たりませんでした。あの家政婦が外への連絡手段を持ってたらいいんですけど」
「どうだろうな。あの様子じゃ、持ってたとしても使ってくれるかわからんぞ。俺たちのケータイだって、あいつが抜いたのかもしれんし」
「確かに……」
返事をしながら、それならばどうにかして奪い取れないだろうかと考えていた。幸い、こちらには男性であるカズさんがいる。相手は女なのだから、いざとなれば力尽くでだって――
……いや、それは最終手段にしよう。今は屋敷内の把握に努めるのが先だろう。
「何か、壁を壊せそうなものを探してみたいです。あたしはまだ窓ぐらいしかまともに調べてないから、ちゃんと探せば見付かりそうな気もするんですけど」
そこで、かちゃんと音がした。カズさんがスプーンを置く音だった。
「流石にそれぐらいは俺だってしたよ。でもここにいるってことは、見付からなかったってことだ。望みは薄いだろうな」
「一応、そっちでも動いてはいるんですね」
しかしそれはあくまで、カズさんの行動の結果だ。カズさんが嘘を吐いていないとも限らない。そうでなくても、見落としている可能性だってある。
「でもあたしはあたしで探してみます」
だからそう続けた。
カズさんは「勝手にしな」と返してきた。それはどこか、ここから出ることを諦めているような、投げやりな態度だった。
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