2.外の世界編[一]

 ――三月某日。夕方。

 私の恋人である彼の部屋で死体を見付けた日から、彼は行方不明になっている。多分、あの死体は彼だったのだと思う。多分、とか、思うって曖昧な表現になるのは、死体が誰なのか、脳が理解することを拒んだから。

 顔が、見えなかった。あれは、顔じゃなかった。潰されていた。あんなに残酷で、真っ赤で、思わず目をそむけたくなるようなものが彼であって堪るか。

 彼は……死んだのだろうか。そう思う度に、誰かもわからぬ死体を想って涙を流してしまうのだ。今だって、薄気味悪いぐらいに静かで暗い空間に、私の嗚咽だけが響いている。

 死体を見付けた後のことは、よく覚えていない。でも通報をしたことに間違いはないだろう。

 私が今いるここは、警察署の待合室。にしては、薄暗い。節電ってやつだろうか。国民の血税を大切に使おうという試みは立派なものだが、だったら一部の税金泥棒に退職金は出さないで欲しいものである。

 私が座る長椅子の前にはローテーブルが置かれていて、そのテーブルを挟んだ向かい側と両サイドも、同じ長椅子で囲んである。

 第一発見者としての事情聴取はすでに終えている。あの日は半ば監禁状態だった。何度も何度も同じことを聞かれて、何度も何度も同じことを答えた。何を聞かれたのかというと、覚えている範囲だとなぜ部屋に入ったのかとか(その日に部屋の住人と会う約束をしていたから)、どうやって入ったのか(数ヶ月前に貰った合鍵を使ったから)とか、住人との関係性(恋人同士)とか、死体発見時の状況(ひどい有様だった)だとか、そんなところ。

 傷心の人間にはあんまりな仕打ちじゃないかと思う。つまりは、疑われているのだ。当然のことだと言い捨てるのは簡単だけれど。メインでの担当だった婦警さん――というか、女性刑事――が優しかったことぐらいが救いだろうか。その場にいた私服警官のオヤジの態度は最悪だった。

 今日ここに来たのは、その時の女性の刑事さんから呼び出されたのが理由だ。

 でも私が泣いたり吐き気に苦しんだりしたから、彼女は何か落ち着ける物を用意すると言って席を外している。落ち着ける物って、ハーブティーとかだろうか。あの独特の匂いが苦手なのだけれど。

 そんなこんなで刑事さんが戻ってきたのは、私がここのトイレでもゲロを吐いてから十分ほど経つ頃になった。

「お待たせ。これ、飲めそう?」

 目鼻立ちのはっきりとした顔に柔らかい笑みを浮かべて、彼女は側まで歩み寄ってきた。

 身長は私――一六〇センチもない――より少しだけ高い程度――一六〇センチ強――なのに、黒のパンツスーツをすらりと着こなしている。きっと脚が長いせいだ。同じ女としてなんだか悔しい。

 彼女の手にはマグカップが二つ。どちらのカップからも湯気が立ち昇っている。

「それは?」

 私は涙と胃酸で枯れた喉から掠れた声を出した。

「カモミールよ。気分が落ち着くし、吐き気もましになると思うわ」

 うげっ、やっぱりハーブティーかよ。差し出されたカップをこわごわと受け取った。思わず眉間にしわが寄る。

「苦手だった?」

 彼女は気分を害した様子もなく、隣に腰かけた。

 そう言う彼女のカップの中身はコーヒー。ブラックだった。大人だなぁ。

 彼女の方が年上とはいえ、同じ若い女という括りでは色々と負けている気がして、また少し悔しく感じた。いや、私だってブラックが飲めない訳じゃないけれど。少なくとも彼女がこの若さで刑事をやれていることに関しては、私なんて足元にも及ばない女なんだと素直に認めざるを得ない。

「一応、お茶請けも用意したんだけど」

 そう言って彼女が上着のポケットから取り出したのは、個包装された紅茶クッキーだった。四袋ある。

「ちょっとでもお腹に優しいものをって、おからクッキーを持ってきたの。どうかな?」

「いただきます」

 彼女の気遣いが胸に沁みる。

 ここまでして貰って断るのもどうかと思ったので、苦手なハーブティーも頑張って飲んでみることにした。思ったより悪くはなかった。

「どう、落ち着けそう?」

「はい……ありがとうございます」

「呼び出したのは私だもの。今日はわざわざありがとうね」

「それで、どうかしたんですか?」

 気遣いは感じられるものの、はきはきとした口調を崩さない彼女をちらりと見てから、もそもそとクッキーを齧った。彼女には悪いけれど、あんまり味は感じられなかった。

「ほんとは、言わない方がいいことなのかもしれないけれど。――遺体の指紋と、あなたの彼の部屋から最も多く検出された指紋が、一致しました」

 それを聞いた瞬間、私の中に小さく灯っていた、希望の光が消えた。刑事さんが発した言葉の意味なんて、みなまで言われずとも理解できる。

 彼は行方不明になんてなっていなかった。彼は、どこにも、いない。

 私は前屈みになると、押し殺した声で悲鳴を上げた。ひどくか細い、掠れた声だった。

 刑事さんが背中を擦ってくれる。

 彼の顔が脳裏によみがえった。優しい笑みを浮かべる、彼の顔が……。



 彼と出会ったのは、もうそろそろ一年ぐらい前になるだろうか。高校を卒業してすぐに就いたバイト先でのこと。

 当時、社員の一人から嫌がらせを受けていた私は精神的に参っていた。

 嫌がらせの内容は本当に些細なものだった。挨拶を無視されたり、いちいち言葉尻を捕らえられたり、私の分だけ資料を用意されなかったりといったその程度のこと。でもそれが、心にちくりちくりと棘を刺した。

 入社してまだひと月足らずのバイト先なのに、こんなことのせいで挫折しそうだなんて。

 私の何が気に入らなかったのかはわからない。でも何かが、その人には気に入らなかったのだろう。

 そんなことがあったせいだろうか。廊下ですれ違ったのに気付かず、うっかり浮かべていた暗ぁい顔を彼に見せてしまったのは。

 私は彼に引き止められていた。

 中肉、中背。顔は、どちらかというとイケメン……精悍、っていうのだろうか。顎には会社員としてのマナーに反しない程度の髭が、うっすらと生えている。色白ってほどじゃないけど、多分、日焼けしにくいタイプだろう。

 彼は、私が勤める会社の取引先に勤務している営業マンだった。私とも顔見知りである。

 私は慌てて取り繕おうとしたけれど、だめだった。何かあったのか聞かれて、口ごもる。社外の人に、どこまで話していいのかわからなかった。

「あの、無駄話だと思われると、まずいので」

 そこで切り上げれば何事もなかっただろう。なのに私はなぜか、重い口から言葉を続けていた。

「嫌がらせ、って、大人の世界でもあるんですね。最近、身をもって知りました」

「どうしたの。まさか、いじめられてるの?」

「一人から。周りは知らないのか、誰も助けてくれません」

「そうなんだ。それは、可哀想に」

「……それじゃ」

 ぺこんと頭を下げると、今度こそ私は歩き出した。少し後悔していた。私は何を期待していたのだろう。逆の立場になって考えてみればわかることだ。関係ない、興味もない他人の悩みをどこまで真剣に聞くだろうか。泣きたくなった。でも私はそういった類の感情とか声を全部、飲み込む。

 後ろから声がかかった。

「言い返せ」

 その言葉を聞いた私の足は止まっていた。彼が続ける。

「誰も助けてくれないんだろ? このままじゃやられっぱなしになると思うけど。悔しくないの?」

「で、でも、相手は社員だし、私よりずっと長く勤めてるし」

「人間性はそいつの方が下だ。違う?」

「エスカレートするかも」

「却ってややこしくなるようなら、その時は俺を巻き込んでくれて構わない。偉い人に、被害者がどっちかさり気なく伝えるから」

 びっくりした。私の短い人生至上、こんなに頼もしいことを言ってくれる人がいただろうか。

「名前は?」

 聞かれて、彼に対してまともに自己紹介をした覚えがないことに気付いた。ただのアルバイトだから、本来ならする必要はないのだけれど。そうじゃなくても、私は名乗るのが苦手だった。そのせいですぐには答えられなかった。

 でも私は彼の名前を知っている。この時も彼の首にかけられていた、彼の会社の名札が視界をかすめた。フェアじゃない気がした。それに、こんな提案をしてくれる人に名乗りもしないで、一体何を期待しようというのか。

 腹を決めた。

「走り歩」

「えっ、何?」

 ――言っておくが、私はちゃんと名乗った。それなのにほら、見たことか。聞き返されることなんて、知っていた。いつも、こうなのだから。

「はしり、あゆむ」

 今度は苗字と名前を区切って、はっきりと発音した。

 私が名乗りたくない理由。ただでさえ珍しい、送り仮名付きの苗字、走り。その下の名前が歩だなんて、うちの親は頭がおかしいのだと思う。走っているのか歩いているのかどっちだよと突っ込みたくなる。

 私は、自分の名前が大嫌いだった。

「それ、本名?」

 いっそ本名じゃなかったらどれだけよかったか。私は苦ぁい表情で頷いた。それで彼も何かを察したみたいだった。

「そうか、走りさん。俺の名前は知ってるね?」

「はい――日根野さん」

「頑張るんだよ」

「あの、なんでこんなことを……」

「いいから、行っといで。時間押してるんでしょ」

 そう言われてしまうと引き下がるしかなくなる。疑り深く彼を見てから、その場を後にした。

 それから数日後。私は彼の助言の通りに行動することになっていた。

 結果は、私の負けだった。何日か経ったある日いきなり席を取り上げられ、個人デスクのない部署に異動させられたのだ。

 でも、後悔はしていない。一矢だけでも報いることはできたと思えたし、どういう訳か周りから私が悪者にされることもなかった。何よりも、今は意地悪な人がいない。

「今の上司から聞きました。根回しして下さってたんですね」

 四月も中頃まで過ぎた頃、ようやく彼と話をする機会を得られた私は、挨拶もそこそこにそう切り出していた。

「例の社員の機嫌は損ねちゃいましたけど、ちょっとスッキリしました。お陰で今は平和です」

「外部の人間にできることなんて限られてるよ」

 否定はしないところを見るに、根回しは事実だった模様。

 私が向ける感謝の眼差しを受け流して、彼は続けた。

「俺は走りさんが愛想よく頑張ってることを部長さんに話しただけ。今の環境は、走りさんが自分の手で勝ち取ったんだ、胸張ってよ」

「なんで、ここまでしてくれるんですか?」

 以前に聞きそびれたことを、もう一度尋ねることにした。

 単純に優しい人ってだけかもしれないけれど、私の言い分だけを聞いてこんな風に動いてくれたのには何か特別な理由があるのだろうかと――つまり、私にとって都合のいい理由を期待した訳だ。

「嘘で泣きそうな顔ができるような、器用な子には見えなかっただけだよ」

「空気読め過ぎじゃないですか」

「走りさんが素直なだけだと思うけど。こんなこと言うのも意地が悪いと思うけど、それが原因なんじゃないの?」

「原因?」

「嫌がらせの」

「……あ」

 私は、わかってしまった。彼が、何を言いたいのか。

 そうだ、そうか。世の中は優しい人ばかりじゃないんだ。そうだった。知らなかった。いや、知っていた筈だ。忘れていた。

 私が相手の言葉を馬鹿正直に受け止めてしまう人間だから、底意地の悪い人にそれを悟られて、付け上がられてしまったんだ……。

「でも走りさんは今回、頑張ったんだから、立派なもんだよ」

 けれど、ちょっと嬉しかった。少なくとも彼は認めてくれるのだ。私の在り方を。

 この時私は、彼が見せる笑顔を可愛いと思ってしまっていた。

 それから彼とプライベートでも会うぐらいに仲良くなるまで時間はかからなかった。そして彼は、私にとって特別な人になった。私は彼の特別な人になれた。

 彼は私にとって、とても大きな存在だった。

 それが、こんなことになるなんて。

 こんなにも胸が掻き毟られるような、痛くて、辛くて、悲しい、まるで体の一部を喪失するかのような絶望の中に、いきなり蹴落とされるだなんて。溺れてしまいそうなほどの感覚に、呼吸が、上手くできない。

 あの彼が、どうしてあんな死に方をしなければいけなかったのか。あんな死に方に見合うだけの理由があったのか。誰か、教えて欲しい。



「心中、察するわ。とても辛いでしょう」

 刑事さんの声が聞こえて、我に返る。顔を上げると、両目の端から涙が伝い落ちた。

「あ……ごめんなさい。私、また」

「構わないのよ」

 彼女は一度、体を離すと、持っていたカップをテーブルに置いた。それからそっと肩を抱いてくれた。

「今はただ、悲しみに身を任せるといいわ。目の前の感情に向き合わないでいたって、次の感情はやって来やしないもの」

「ありがとうございます、刑事さん」

「楠葉よ。楠葉絢子。覚えてなかった?」

「あっ、えっと、ごめんなさい」

 口元に笑みをたたえて言う彼女――楠葉さんに調子を狂わされながら、彼女の名前を口にした。

「あなたは謝ってばかりね。……どう? 少しは落ち着けそう?」

 きっと楠葉さんは、私がここに来た時点で彼の死を覚悟していたことを知っているのだろう。口調は穏やかだったけれど、どこか諭しているみたいにも感じられた。

 私はまだ泣いていたけれど、静かに頷いた。それを見た楠葉さんが耳打ちしてくる。彼女の黒いボブの毛先が、服の上から私の肩を撫でた。

「これから言うことは、他言無用でお願いしたいの。特に、警察には」

「それは、事件に関することだからですか?」

「そう。だから、約束できる?」

 事件に関することというのが、どの程度のものなのかわからない。些細なことかもしれない。でも、真相を知りたい私には願ってもない申し出だった。また、無言で頷いていた。

「実を言うと、私はあなたのことを疑ってなんていないの。あなたは誰も殺してないと思ってる」

「どうして言い切れるんですか?」

「というよりは、そうであって欲しいっていう願望かしらね。だってあなたは、犯人に最も近い場所にいる筈だもの」

「どういう意味ですか?」

「遺体の状況や事件現場から言って、通り魔的な犯行とは思えない。オートロック付きのマンションの、それも四階に住んでる男性を衝動的な感情で襲ったりするかしら? 被害者、ないし被害者の知人と面識のある人物による犯行と見る方が、可能性としては高い筈。たとえば――あなたに横恋慕している人物の仕業、とか」

 まさか、と思った。そんなこと、あるだろうか。

 彼と共通の知り合いなら確かにいる。職場の人間ならほぼ百パーセントがそれに当てはまるだろう。だからといって。

「人を殺すに至るぐらいの激しい感情を向けられた覚えは、ないんですが」

 少なくとも私は自分でも鈍感な類じゃないと思っている。私に気がある人がいたなら気付ける自信があるし、自覚できていないってことは、あったとしても横恋慕とはいえないぐらいの些細なものだと思うけれど。

 彼女は、はふんと息を吐いた。

「まあ今のは一例ではあるけどね。少なくとも被害者の恋人だったあなたなら、現状で私たち以上の情報を持ってる可能性だってある。そこでね、走りさん」

 彼女はまた声のトーンを落として、ついでに姿勢も落として、私を見上げる格好になった。この薄暗い中で、目の前に迫った二つの眼球がぎらぎらと光って見えて、少し怖く感じてしまった。

「私と、手を組まない?」

 低く落とされたその言葉を聞いた途端――ああ、これは毒だ。と思った。

 扱い方を間違えれば命取りにもなる薬品。すなわち用法と用量さえ守れば薬にもなる、諸刃の剣。そんな危険な武器を、この人は差し出してきている。

 この提案を聞いた今、冗談だと思いたかった。だって、いきなり重要な判断を迫られていたのだから。

 手を組むとは、一体、どういうことなのだろう。

「あなたにとっても悪い話じゃない筈よ」

 彼女が続ける。

「あなたは、あなたの知ってる情報を提供する。その情報を補完する手助けを私がする……つまり、警察の権限を提供する。あなたは私と捜査をするの。結果、より早く犯人に行き当たる」

「ちょっと待って下さい」

 恐怖心に耐え切れなくなった私は、彼女から目を逸らしていた。

「だって、こんなの、バレたら大変なことになるんじゃ」

「守秘義務に反したとして、私が処罰を受けるのは間違いないわね」

「さらっと怖いこと言わないで下さい! それにこんなの、楠葉さんにはメリットがないんじゃ……」

「実を言うと、この提案は自分の為でもあるの」

 そう言った彼女の目に浮かぶのは、さっきみたいな不気味な光ではなくて、どこか確固たる信念みたいなものを感じさせる色だった。決意と、ほんの少しの憂いの色。

 私の顔を通り越してどこか遠いところを睨むようにして、彼女は口を開いた。

「私は、もっと、上に行きたい。キャリアとして刑事になれたぐらいじゃ足りないの。だから、手柄が欲しい」

 楠葉さんの声は、不思議な音だった。淡々と述べているように聞こえるのに、火傷しそうなぐらいの熱を伴っている。

 キャリアとか、ノンキャリアとかっていうのは、私にはよくわからないけれど。

「楠葉さんは、私を利用したいってことですね」

「あなたが私を利用する、って思ってくれても構わない」

 返事に困ってしまった。だって、この人と協力して事件のことを調べて、それで犯人に辿り着いた先に私が望んでいるものが、一体なんであるかが見えないでいたのだ。

 いくら覚悟ができていたとはいえ、まだ彼の死を受け入れ切れていない自分がいるのだ。当たり前だ。亡くしたのは、私にとって大切な人だったのだから。それなのに、こんな混乱した気持ちで積極的に動くことなんてできるのだろうか。

 確かに真相を知りたいとは思っている。でもそれは、彼の死に納得できるだけの材料がないからで……。

 自ら調べるなんて考えは思い付きようもなかった。警察と関わることすら今回が初めてだというのに、捜査なんて言われても漠然としたビジョンしか浮かばない。

 全然、本調子じゃない私は、頷くことも断ることもできないでいて――

「あっ、いたいた。楠葉さぁん」

 その時、誰かが遠くから楠葉さんを呼ぶ声がして、びくっと肩を跳ねさせてしまった。響いたのは、場違いなぐらいに間延びした声。

 楠葉さんと揃って、声のした方へ顔を向ける。廊下の向こう側から黒いスーツを着た男性が足早に歩み寄ってくるところだった。

 男性は若かった。楠葉さんと同い年ぐらいだろうか。少し痩せ型で背が高い以外に、これといった特徴がない人だ。どちらかといえば「優しそう」と形容されるタイプの人だろうか。

「探しましたよ、もう」

「どうしたの、高田」

 楠葉さんが立ち上がる。

「どうしたもこうしたもないですよぉ。巡査部長の小言が煩くってしょうがなくって……って、そちらの方は確か」

「走りさんよ。追加で情報を貰ってたの。走りさん、彼は部下の高田」

「は、初めまして」

 楠葉さんからの紹介を受けて、高田と呼ばれた刑事さんに会釈をした。高田さんは表情を沈痛なものに変えて私を見ている。初めまして、で合っていただろうか。

「そういえば、二人が顔を合わせるのは初めてだったわね。高田はあの時、席を外してたから」

「何か用事でも?」

 楠葉さんの発言に思わず聞き返していた。警察って普通、二人一組で行動するものじゃないのだろうか。高田さんの言う、小言の煩い巡査部長とやらが、楠葉さんの相棒って可能性もあるけれど。

 疑問に答えたのは高田さんだった。

「楠葉さんからの頼まれ事で、少し。でも、遺体発見当時は僕も近くにいましたよ。それにしても大変でしたね。聞きましたよ、被害者の方は」

「高田。余計なことは言わなくていいから」

 楠葉さんが高田さんの言葉をぴしゃりと遮る。多分、私に気を遣ってくれたのだろう。高田さんは「失礼しました!」と身を固くした。

 それにしてもこの二人――歳の近い上司と部下、ってことになるけれど、どういうことなのだろう。さっき楠葉さんが言っていたキャリアっていうのが偉い立場なのだとすれば、高田さんはノンキャリアということだろうか。警察の図式には詳しくないけれど、なんとなくわかった気がする。

 もしかして楠葉さんって、何気にすごい人なんじゃ……。

「今日は疲れたでしょう? 一度家に帰って、ゆっくり考えるのがいいと思うわ」

 楠葉さんはそう言うと、私の手を引いて立ち上がらせた。ほぼ同時に、スカートのポケットに何かが捻じ込まれる。

 高田さんから付き添おうか聞かれたけれど、私は首を左右に振って断った。今日のことで、うっかり余計なことを口走ってしまうのが怖かった。

 持っていたカップを、楠葉さんに返した。

 警察署の入り口まで見送りについてきてくれた二人の刑事に頭を下げてから、背を向ける。ポケットの中で、紙片のようなものが音を立てた。二人の視線が届かない場所まで歩いてから、それを取り出してみる。

 楠葉さんの連絡先が書かれた、メモ用紙だった。



 あの後、自室まで戻った私はベッドの上に身を投げ出して、ずっとメモを眺め続けている。リビングのテレビでは、今日も猟奇事件のニュースが流れているのだろう。彼を奪った、忌まわしい事件のことが。

 暮れゆく空は、電気を付けるのも忘れたこの部屋を照らしてはくれなかった。その内に手の中の文字すら読み取ることができなくなっていた。

 バイトを休んで、晩ご飯も食べずに、視界さえ闇に遮られて、ただ呼吸を繰り返すだけの私がここにはいる。

 私は、生きているのだろうか。生きているといえるのだろうか。

 彼を――私という世界の一部を失った私は、果たしてこれからも『私』として生きていけるのだろうか。わからない。わかりようもない。だってこんな経験、今までしたことがない。初めての、愛しい人との別れ。それも無残な形での。

 未来が少しも見えない。これからの日々が見えない。

 気付けば目の端を涙が伝っていた。あれだけ泣いたのに、まだ枯れていなかったのか。

 協力関係を持ちかけてきた時の楠葉さんの声が頭の中で何度も再生される。彼女に協力して、彼女に協力して貰って、それで得られるものは一体なんなのだろう。

 この悲劇が事件である限り、犯人は必ずどこかにいる。だからつまり、行き着く先はそこなんだってことはわかる。

 見付けた犯人は、やっぱり楠葉さんの手によって逮捕されるのだろうか。逮捕された犯人はどうなるのだろう。裁判以降の情報は、私にも入ってくるのだろうか。

 私が望んでいるのは、犯人が逮捕されることなんだろうか――気付けばそんな思考に行き着いていた。

 なんでも一つだけ、願いが叶うっていうなら、今の私が願うことなんて一つしかない。

 彼との日常を返して欲しい。それだけ。

 でも、どんなに願ったって誰も叶えてくれやしない。だって彼はもう、いないから。いない存在をこの世界に連れ戻すことなんてできないから。

 また涙が溢れた。

 なんで、とか、どうして、って考えることにはもう、疲れていた。

 悲しんで、疲れて――こんなクソみたいな時間を過ごしている内に、だんだん腹が立ってきた。

 誰? 私をこんな目に遭わせるのは、どこのどいつだ?

 そこまで思った時、あれ? と首を傾げたい思いが芽生えた。

 彼を殺したのも、今私を苦しめているのも、全部全部――彼を殺した、犯人じゃないか。

 そうだ。彼がいないこの世界に、私は腹を立てているのだ。私から彼を奪った輩に。私を悲しませる、理不尽に対して。

 自覚した途端、憎しみの炎に脳みその大事な部分が焼かれるような感覚がした。熱い血が体の中を駆け巡って、神経だかなんだかが冷えていくような、実に不愉快な感覚。体が、心が、不協和音に苛まれる。

 ……殺したい。

 私にこんな思いをさせている犯人を、この手でぶち殺してやりたい。刺して、切って、剥いで、千切って抉って引きずり出してぶちまけて潰して、思い付く限りの苦痛を与えてから殺したい。そんな欲求が生まれた。

 耳の奥でごうごうと音がする。枯れた喉から漏れる私の唸り声だと気付いたのは、握り締めた拳に爪が食い込む痛みを認識するのとほぼ同時だった。拳を思い切り叩き付けたい衝動を、歯を食い縛って堪える(どうして耐えているのだろう)。大声で吼えたくなる。悔し涙なんてものじゃない、怨嗟の涙が次から次へと溢れてくる。

 ずっと、自分は冷静なんだと思っていた。いや、冷静だと思い込みたかった。激しい感情は飲み込んで、毒として体の中を循環させて、途方もない時間をかけて排出するのだと、そう思っていた。そうすれば、誰も傷付けないから。誰からも恨まれずに済むから。

 でも今の感覚は飲み込めない。溜め込んだら体が、心が、壊死してしまいそうだ。

 のろりと起き上がった。手の中でくしゃくしゃになった紙片の感触を確かめる。空いている方の手を動かして、ベッドの上のどこかに転がっているだろう携帯端末を探る。やがて指先が冷たくて硬いものに触れた。

 無感動な動作で拾い上げたそれを操作する。画面の明かりを頼りにメモを読み取り、番号を丁寧に打ち込んでいく。後は通話ボタンを押すだけというところまで来た。

 深呼吸を一つして、息を整える。強く脈打つ鼓動に合わせるように指先が跳ねている。

 それでももう、心は決まっていた。

 追い詰められたネズミは猫をも噛むのだ。諸刃の剣だろうと、トランプのジョーカーだろうと、利用できるものは使うべきなのだ。

 私の指は、通話ボタンに触れていた。

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