第3話 お互いの部屋へ行く関係
椎橋仄香ちゃん。
ほのかちゃん。
うん。
やばい。
料理は。あの日の夕飯はマジで美味かった。なんていうか、もう。いやほんと、語彙が死ぬくらい美味かった。
もう味覚えてない。なんだそりゃ。
彼女の部屋は、間取りこそ俺の部屋と同じだが、内観は全く違った。家具の配置もカーペットもカーテンも。
小物もクッションも、匂いも。
滅茶苦茶良い匂いがした。なんだあれ。女の子の部屋ってああなのか?
仕事の疲れなんか一瞬で吹き飛んだ。つい、また作って欲しいと口走ってしまった。断られても良いように冗談ぽく言って保険を張って。
俺は、恋人が欲しいと思ってはいなかった。
面倒臭いからだ。時間もお金も消費してしまい、自分の好きにできない。それらリスクとデメリットを対価として払い、得られるメリットが家事とセックス。
それは釣り合わないと、思っていた。
そして。誰かに言われたことがある。「それは、お前がそのデメリットを押してでも一緒に居たいと思う相手に出会ってないだけだ」と。
多分、それは正しかった。
あの香りと。空間と。ご飯と。控えめな笑顔と。赤らめた笑顔の為なら。
人生の半分くらい余裕で支払える気がした。
好きな漫画も楽しみなゲームも、全部差し出せる気がした。
「美味しい」と俺が言った時の。
「……良かった」と言う彼女の顔が見れるなら。
仕事ならいくらでも頑張れるし、なんでもできる気がした。
でも、気を付けなければいけない。落ち着け俺。
別に俺達は恋人じゃない。たまたま、気紛れで、ご飯を作ってくれただけだ。それっきりになる可能性の方が高い。
俺のこれまでの人生を振り返れ。そうそう良いことなんて起こらない。特に女性関係は。
これしきで舞い上がるな。別に彼女は俺に気がある訳じゃない。ハナからそう思っていた方が後々楽だ。それは経験で知ってるだろ。
——
「……椎……ほの、かちゃん?」
「っ!」
次の日。そう。昨日の今日だ。ほのかちゃんが自分の部屋から、食材を持ってきたのだ。
危うく椎橋さんと呼ぶところだった。名前を教えて貰ったということは、それで呼んでくれということだ。慣れないとな。めっちゃ恥ずかしいけど。
女子は基本名前で呼び合うからな。
「……お釣りを、ですね」
「えっ」
あ。そうか。俺1万円渡したんだっけ。
「台所……借ります」
「えっ! ちょ!」
「?」
ほのかちゃんが俺の部屋に入ろうとしてきた。
俺は慌てて立ち塞がる。無理無理。
「……中?」
「はい。おにーさんのなので」
「待っ。……2分! 待って」
ひとり暮らしの男の部屋だぞ。
滅茶苦茶散らかってる。別に、ほのかちゃんを入れるのは良い。ていうか歓迎だ。何だ、今日は俺の部屋で料理してくれるのか? 嬉しすぎる。
だが。
ちょっと待って欲しい。
片付けなければならないものが死ぬほどある。
やばいファ◯リーズ切らしてた気がする。
「……お時間は」
「ああ、いや。大丈夫だけど」
ほのかちゃんが。
俺の部屋で。料理をしている。
とても現実とは思えない。休んでいてくださいと言われても、何か落ち着かない。
適当にテレビを点けたけど、内容なんか入ってこない。
なんだこの状況は。この現状は。この状態は。この現況は。
音が聴こえるんだ。台所から。俺以外の『誰か』の音。同期も呼んだことの無い俺の部屋から。
俺を高揚させる『音』が。
——
——
これは自己満足だ。
おにーさんに喜んで欲しい……?
全然違う。
「……どう、ですか?」
「滅茶苦茶美味しいっ」
「…………」
私が、見たいんだ。おにーさんの笑顔を。それで満たされたいだけだ。
私が。やりたいだけなんだ。だから、おにーさんの迷惑も考えてない。考えてたとしても、自分の気持ちを優先してしまっている。
またお願いしても良いかな、なんて。お世辞じゃないか。おにーさんは社会人なんだから、それくらい普通なことなのに。
私は馬鹿みたいに鵜呑みにして、その揚げ足を取って。
「マジで美味いよ」
またお世辞を言わせてしまっている。
おにーさんは本当に良い人だ。それに引き換え私は。
自分の欲望と感情のためだけ。おにーさんを利用している。
だって。
私はおにーさんのこと、何も知らない。何も知らないのに、その人個人を好きになるなんておかしい。
外見でなら、一目惚れはあると思うけど。私は別に、おにーさんの外見が好きな訳じゃない。
『歳上』が好きなだけだ。
「ご馳走さまでした」
多目にしたのに、ぺろりと平らげてしまった。凄い食べっぷり。ここまでされると、不味くは無かったんだと思って良いかも。
「じゃあ、洗い物を」
「あー。いいよ。それは自分でやるから。ほのかちゃんも忙しいでしょ」
「…………分かりました」
「また、何かあったとき頼むよ。美味いし」
「……本当ですか?」
「ああ」
脈あり、だと。
思ってはいけない。これで。
浮かれては。
「…………っ」
部屋に戻った瞬間。玄関を背にしてへたり込んだ。
身体が熱い。心臓がばくばく言っている。顔が、制御できないほどにやついてしまっている。
格好良い? 違う。
可愛い? もっと違う。
今の感情を言葉にできない。おにーさん。
何かあったら。
何かって、何だろう。何かあるのかな。今後。
冷静に。考える。
『次』の約束をしていない。お釣りも全部返した。食材も置いてきた。忘れ物は無い。
もう、終わり……?
しまった。何か忘れたら良かったのに。
……こういう浅ましい所が嫌。
でも。もう。これから自分で私から言ったら、なんか変だ。おにーさんからお願いされたらいつでもやるけれど。
向こうがどう思っているかが、分からない。
今日のことも、ただ『楽』だから頼んだだけの可能性だってある。それで私が勘違いしてたら恥ずかしいどころじゃない。
相手にとったら、私は歳下なんだ。そもそも『対象』に見られてない、筈。
……私は、おにーさんと付き合いたいのか?
多分、仮に『そう』なれば嬉しい。と思う。だけど。
『彼氏が居る状況が欲しい』んじゃない。そんなのは最悪だ。
別に良いんだ。交際関係に無くても。毎日おにーさんと会って挨拶して。たまにご飯を作ってあげて。
……作って『あげて』?
なんて恩着せがましい。烏滸がましい。私は、歳上のおにーさんを『世話してる』気にでもなっているのか。
……もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。
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