第4話 ラブ・ホテルは突然に ②

 部屋の中は、外観のボロさに比べるときれいだった。けれど、やはり、ラブホテル特有の臭いはして、なぜかその匂いにノスタルジーを感じた。

 ラブホテルに入るなんて、もう何年ぶりだろうか。

 確か、大学生の時、当時付き合っていた妻と行ったのが最後だろう。

 少なくとも10年近く前だ。

 確か、妻と付き合うようになってから、ラブホテルに行ったことは一回きりだ。

 妻が一人暮らしをしていたこともあったが、お互いにこのラブホテルの匂いがどうしても好きになれなかったのだ。

 「「ラブホテルってなんか独特の臭いがする」」

 記憶の中の妻の声と小石川の声が重なって、それは妄想なのか現実なのか、すぐには判断できなかった。

 「先輩、大丈夫ですか?」

 「ああ、ごめん。水飲むか?」

 小石川をベッドに座らせ、冷蔵庫に入っていたペットボトルの水を手渡した。

 水を少しずつ飲みながら、「すみません、先輩」と小石川は謝った。

 「気にすんなって。気分はどうだ?」

 「だいぶ、よくなってきました」

 「そっか。まあ、今日は、おとなしく、ここで寝て、明日帰れよ」

 「え。先輩はどうするんですか?」

 「俺は、適当に朝までどこかで時間つぶすよ」

 「ここに朝までいればいいじゃないですか」

 「それは……、駄目だろ」

 「なんでですか?」

 本気で分からないという顔をする小石川に少しいらつく。

 「なんでって。そりゃ、恋人でもない男と女がこういうところにいるのはいかんだろう」

 「……そうですか?」

 「お前だって、俺に襲われたら嫌だろ」

 沈黙。

 気まずすぎる空気に俺まで吐きそうになる。

 さすがに、まずかったか。

 と、少しばかり後悔するが、逆に、これでよかったのだと自分に言い聞かせる。

 実際に、そういうことにはならない、とは思う。

 さすがに、小石川に、会社の後輩に、手をだすわけにはいかない。

 そして、俺には妻がいるのだから。

 けれど、小石川には、こういう時に、男女が一緒にいても大丈夫だとは思ってほしくない。よくわからないが、これは、単なる会社の先輩としてのエゴなのかもしれない。

 来週から顔を合わせるのが、めちゃくちゃ気まずくなるのは、間違いないが、この場はこれでよかったのだ。

 「じゃあ」と、俺は部屋を出ようとすると、小石川は俺の袖をつかんだ。

 「……嫌です」

 「……だったら、離せよ」

 「違います。襲われたら……ってことじゃなくて」

 「なんだよ」


 「いてくれなきゃ、嫌です」


 小石川は、涙を流していた。

 まさか、ここで、そうくるか……。

 俺は、若干ふらつきそうになる。

 小石川梓。

 何度でも、言う。

 こいつは、天使のように可愛い小悪魔なのだ。

 こんなことをされて、部屋を出ていける男がいるのならば、俺はそいつのことを 一生、尊敬するだろう。

 そう、俺には、そんなことは来来来世くらいにならない限り無理なのだ。

 俺は、ベッドに座り「なんで泣くんだよ」と、目をそらして言う。

 この場所で、涙を流す小石川は、通常の3倍色っぽいシャア専用小石川だ。目が合えば殺される。などと、つまらないこと考えても状況は好転するわけがない。

 実際に、18歳には思えない色気なのだから。

 「なんで、わからないんですか?」

 「……ごめん」

 何を謝っているのだ、俺は。

 もう、完全に形勢逆転である。

 「先輩に行ってほしくないからに決まってるじゃないですか」

 いや……うん。

 だから、今までの話、聞いていたのかな?

 と、俺は喉元まできている言葉を飲み込んで、「そう言ってもな。その、さすがにまずいだろ」と、穏やかに話を戻してみる。

 「何がですか?」

 ループしている。完全に話がループしている。しかし、気にしてはいけない。

 この小石川タイムは絶対時間、全ての念能力を100%使えるのは、当然、小石川のみである。

 「男女が、そのホテルで宿泊したら、さ」

 「……先輩、私、気分は、よくなってきました」

 「うん。そりゃ、よかった」

 「だから、大丈夫ですよ?」

 「うん。そうか?」

 「エッチできますよ」

 小石川はさらりと言った。

 いや、だから、そのワードを慎重に避けてきた俺の努力は?

 「……何言ってんの?」と、俺は平常心を必死に保ちながら言う。

 「だって、先輩言ったじゃないですか。こういうところで、一夜をともにするってことは、そういうことだって」

 「ちげえよ!……いや、違わないけれども。そうじゃなくて。だから、駄目だって話だろ!」

 「……それは……なんで?」

 心底、意味がわからない、という顔で小石川は俺を見た。

 「なんでって。だって、俺たち、そういうんじゃないし。っていうか、俺は、だから、嫁がいるって」

 「……知ってますよ」

 「そう、知ってるよな。だから、駄目ってわかるだろ」

 「でも……、先輩の奥さん、どっか行っちゃったんですよね」

 直球ストレートど真ん中に、小石川はボールを投げた。

 最近では、同僚も友達も家族も誰も彼もその話題を避けるか、遠回しにしか話題にしないというのに。

 しかし、小石川の言ったことは、まさに事実で。

 あらためて、言われると、頷くしかない。必死に目を背けているのは、誰でもなく、俺なのだ。

 「……ちょっと、出てるだけだ」

 「3年も?」

 小石川は容赦がなかった。

 「……夫婦には、そういうときもあるんだよ」

 そんなことはない。というか、そんな夫婦がいたら、離婚寸前か、もうとっくに離婚している。そんなこと、小学生にだってわかる話だ。

 「わかんないです。私。バカだから。そういうの。好きだったら、ずっと一緒にいたいです。ずっと、イチャイチャしてたいです。離れてるって、それも、そんな長い間。それって、もう、「好き」じゃないってことじゃないんですか?」

 小石川は正しい。

 小石川の言ったようなことを、俺はこの3年間、何度もあらゆる人から聞かされて、その度にバカみたいに、虚勢をはっていた。

 「それでも、妻を愛している」

 なんて、今では、自分の本心かどうかすら、怪しいっていうのに。

 でも、まだ、今は、待ちたいのだ。信じたいのだ。

 いつか俺のもとに帰ってくるあいつを。

 「バカですよ。先輩は……。大バカです」

 「ま、バカだな」

 「バカバカバカバカバカ」

 「……言い過ぎじゃない?」

 「……罰です」

 「え?」

 「あ、流れ星」

 窓のないこのホテルの部屋から、流れ星が見えるとしたら、それは、頭の中に流れている星であって、現実の星ではない。

 小石川の指さす方向を、正直に見た俺は、頬にやわらかい感触を感じるまで、自分のバカさに気が付かないままだった。

 「なに、やってんの?」

 「へへ。ほっぺたいただき」

 なんじゃ、そりゃ。

 「わかりました!」

 なぜか、元気になった小石川は、しゃきっと手を上げる。

 「なにがだよ」

 「私が眠るまででいいので、一緒にいてください」

 「……」

 心配そうな、小石川の「だめ、ですか?」という声に、ため息をついて、俺は、「わかったよ」と言う。そんなことくらい、お安い御用とは、言ってやれない申し訳なさを少しは感じていた。

 「やった。じゃ、お風呂行ってきまーす。めちゃくちゃ、べとべとして気持ち悪かったんです」

 「おい、バカ!」

 「あ、やっば」


 小石川が脱ぎ捨てたトレーナーがベッドに落ちる。

 だから、ここで、脱ぐなっつーの。

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