不救のロータス

月啼人鳥

第1話 動き出す淀み



 あのバイオテロから3度目の冬。


「……」

 多くの人々にとっては、もう遠い過去なのかもしれない。

 けれど当事者と、当事者に近しい者たちにとって、3年という月日は短かった。特に怒りや悲しみといった感情を薄れさせるには、あまりにもわずかな期間だった。たとえこの街の、この冬の空気がいくら冷たかろうと、大切な者を奪われた者たちが抱える、ドロドロと煮えたぎる激情を冷やすには至らない。

 それでも、と彼女は大きく息を吸った。

 この感情を今捨てることはできない。しかしずっと抱えていることが良いとも思えなかった。くすぶり続ける火は、いつか自分を内側から焼くだろう。だからせめて、冷たい空気を吸い込んで、体の中を冷やしてみるのだ。焼け石に水かもしれなくても。はぁと息を吐き出すと、焼け石にかかった水よろしく、白い湯気に似た吐息が夜空に消えていった。

「いぶきさん、まだかな……」

 公園内にある【灯火ともしび】の広場に呼び出されてから、約束の時間をかれこれ5分過ぎている。ベンチにのっかっているお尻に、じわじわ冷たさが伝わってきていた。ちらりと腕時計を見てみると、また秒針が12を回ったところだった。灯火の明かりのせいで、文字盤はオレンジに染まっていた。

「!」

 とその時、スマホが震える。慌ててポケットから取り出すと、着信相手は『三ツ星みつぼしいぶき』と表示されていた。電話に出てみると、開口一番は謝罪の言葉だった。

『遅れてごめんなさい。南側の道路に車停めたから、来てくれる?』

 言われたとおりに南の道路に出てみると、見覚えのあるグレーの軽スポーツカーがハザードを炊いていた。サイドミラーで背後を見ていたのか、運転席の窓が開いて手が振られていた。

「お疲れ様です」

「お疲れさま。そこのミルクティー、良かったら飲んで。寒かったでしょ」

「ありがとうございます」

 助手席に乗り込みつつ、少女は運転手に礼を言った。

「いい?」

「はい」

 助手席がシートベルトを締めたことを確認すると、運転手――いぶきは車を発進させた。一方通行の道路から幹線道路に出ると、ほどなくして車は信号で停車する。

「呼び出して悪かったわね、離々洲りりすさん。直接話したいことがあって」

「慣れてるから大丈夫です。いぶきさんこそ大丈夫ですか? お忙しいでしょう?」

「まあね」

「大変ですね。大人は」

「大変なのよ、大人は」

 とはいったものの。

 運転席に座るこの女性、正直大人に見えなかった。はっきりって小学生、頑張っても中学生くらいとしか思えない容姿だった。背も低いし、顔も童顔で、若々しいを通り過ぎて幼い。飾り気のないパンプスとスーツ、年齢相応の振る舞いが、かろうじて『彼女は社会人である』と主張していた。ややブラウンな髪はふんわりしたボブにセットされている。

「これでも今日は早く退勤あがれたほう」

「いまも実質仕事中ですよね?」

「かわいい子とお話する仕事なら大歓迎よ」

「あ、信号青です」

「わかってる」

 今時珍しいマニュアル車を、いぶきは小さな体でスムーズに発進させた。

「それで、話って何ですか?」

「とりあえずはこれ」

 離々洲と呼ばれた少女に、いぶきが1枚のカードを手渡した。

 少女はカードを覗き込む。先日撮影した自分の顔写真の隣に、【離々洲りりす計都けいと】という名前が印字されていた。ほかのいくつかの情報の最後、カードの右下辺りには【淀宮よどみや市保健署】の文字が刻まれていた。

「職員証の新しいヤツ。まぁ、滅多に使わないと思うけど」

「見せても説明に困りますしね」

 苦笑いしながら計都はカードを受け取り、財布の中にしまい込んだ。「ふるいやつは回収するわ」といわれたため、古い職員証をいぶきに返却した。

「とりあえずは、ってことは、まだ何かあるんですよね?」

「……どう切り出そうか、今でもまだ悩んでるわ」

「……」

 運転席のいぶきの顔を計都は盗み見る。いぶきの眼差しは前を向いているものの、どこか違う場所を見ているような気がした。外から反射した白い光が、いぶきの頬を撫でていった。

「早いものね、もう3年だなんて」

「……そうですね」

 2人の間で「3年」といえば、1つしかない。


 この淀宮で起こったあの事件。


 バイオテロ。


 それからもうすぐ、3年が経過しようとしている。

「最近はご家族に会いに行った?」

「明日行こうかなって思ってました」

「……そう」

 なぜそんなに悲しそうな目をするのか。あるいは、自分がそんな顔をしているからだろうか。計都は無性に鏡が見たくなっていた。

「……率直に言うわ。あなたに隠し事できないから」

「ありがとうございます? でいいんでしょうか」

「あなたのためじゃない。私のため。もっとあなたにショックを与えない方法あるかもしれないけど、私が耐えられないから、一気に言ってしまうだけよ」

「その一言のご配慮だけで十分です」

「……あなたは優しいのね」

 いぶきは前を見たままふっ、と柔らかく微笑んだ。

 しかし、彼女はすぐに表情を引き締めて、一言こぼした。


「テロの犯人が――釈放されるそうよ」


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