不救のロータス
月啼人鳥
第1話 動き出す淀み
あのバイオテロから3度目の冬。
「……」
多くの人々にとっては、もう遠い過去なのかもしれない。
けれど当事者と、当事者に近しい者たちにとって、3年という月日は短かった。特に怒りや悲しみといった感情を薄れさせるには、あまりにもわずかな期間だった。たとえこの街の、この冬の空気がいくら冷たかろうと、大切な者を奪われた者たちが抱える、ドロドロと煮え
それでも、と彼女は大きく息を吸った。
この感情を今捨てることはできない。しかしずっと抱えていることが良いとも思えなかった。
「いぶきさん、まだかな……」
公園内にある【
「!」
とその時、スマホが震える。慌ててポケットから取り出すと、着信相手は『
『遅れてごめんなさい。南側の道路に車停めたから、来てくれる?』
言われたとおりに南の道路に出てみると、見覚えのあるグレーの軽スポーツカーがハザードを炊いていた。サイドミラーで背後を見ていたのか、運転席の窓が開いて手が振られていた。
「お疲れ様です」
「お疲れさま。そこのミルクティー、良かったら飲んで。寒かったでしょ」
「ありがとうございます」
助手席に乗り込みつつ、少女は運転手に礼を言った。
「いい?」
「はい」
助手席がシートベルトを締めたことを確認すると、運転手――いぶきは車を発進させた。一方通行の道路から幹線道路に出ると、ほどなくして車は信号で停車する。
「呼び出して悪かったわね、
「慣れてるから大丈夫です。いぶきさんこそ大丈夫ですか? お忙しいでしょう?」
「まあね」
「大変ですね。大人は」
「大変なのよ、大人は」
とはいったものの。
運転席に座るこの女性、正直大人に見えなかった。はっきりって小学生、頑張っても中学生くらいとしか思えない容姿だった。背も低いし、顔も童顔で、若々しいを通り過ぎて幼い。飾り気のないパンプスとスーツ、年齢相応の振る舞いが、かろうじて『彼女は社会人である』と主張していた。ややブラウンな髪はふんわりしたボブにセットされている。
「これでも今日は早く
「いまも実質仕事中ですよね?」
「かわいい子とお話する仕事なら大歓迎よ」
「あ、信号青です」
「わかってる」
今時珍しいマニュアル車を、いぶきは小さな体でスムーズに発進させた。
「それで、話って何ですか?」
「とりあえずはこれ」
離々洲と呼ばれた少女に、いぶきが1枚のカードを手渡した。
少女はカードを覗き込む。先日撮影した自分の顔写真の隣に、【
「職員証の新しいヤツ。まぁ、滅多に使わないと思うけど」
「見せても説明に困りますしね」
苦笑いしながら計都はカードを受け取り、財布の中にしまい込んだ。「ふるいやつは回収するわ」といわれたため、古い職員証をいぶきに返却した。
「とりあえずは、ってことは、まだ何かあるんですよね?」
「……どう切り出そうか、今でもまだ悩んでるわ」
「……」
運転席のいぶきの顔を計都は盗み見る。いぶきの眼差しは前を向いているものの、どこか違う場所を見ているような気がした。外から反射した白い光が、いぶきの頬を撫でていった。
「早いものね、もう3年だなんて」
「……そうですね」
2人の間で「3年」といえば、1つしかない。
この淀宮で起こったあの事件。
バイオテロ。
それからもうすぐ、3年が経過しようとしている。
「最近はご家族に会いに行った?」
「明日行こうかなって思ってました」
「……そう」
なぜそんなに悲しそうな目をするのか。あるいは、自分がそんな顔をしているからだろうか。計都は無性に鏡が見たくなっていた。
「……率直に言うわ。あなたに隠し事できないから」
「ありがとうございます? でいいんでしょうか」
「あなたのためじゃない。私のため。もっとあなたにショックを与えない方法あるかもしれないけど、私が耐えられないから、一気に言ってしまうだけよ」
「その一言のご配慮だけで十分です」
「……あなたは優しいのね」
いぶきは前を見たままふっ、と柔らかく微笑んだ。
しかし、彼女はすぐに表情を引き締めて、一言こぼした。
「テロの犯人が――釈放されるそうよ」
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