切磋琢磨

 自分のことは結局自分で解決するしかない。他人に結果を求めるのはお門違い、すなわち八つ当たりである。

 魔麟学園三級生(高等部一年生)のE組壱拾参番の定吏零彦ていりれいげんは冷めた目つきで、真っ白な紙を見下ろした。彼がそこに書き入れなければならないテーマは――【いじめ】弱いものを肉体的・精神的に暴力や嫌がらせなどによって苦しめる行為。特に、一九八五年頃から陰湿化した校内暴力をさすことが多いそうだ。

 最近多面化および過激しつつある身近な人権侵害――そしてそれが原因の自殺防止対策に、学校側が緊急に――というより、文部科学省などから要請があったのかもしれない――クラス内で話し合う時間を設けたのだ。そして最後に、【君は一人じゃない】なんて、綺麗事がつらづらと書かれたプリントが回ってきた。おそらく、他の学校も同じようなことになっているのだろう。

 どうせしばらくしたらマスコミもそういう話題も別の事件で忘れ去られ、視聴者も他のことに興味がうつりゆくものなのに。

 六十分と少しの話し合い(かなり脱線していたが。委員長が二度三度「静粛に」と叫ばねばならなかったほどだ。このクラスの連中はどうも一つの話題にいつまでも噛みついていられないらしい)は終わり、この白い紙にいじめの原因及びその対策等について、個人で考えたものを書いて提出ということだ。

 全くもって、青春の暇つぶしにもならない滑稽で陳腐としかいいようのない対策だ。クラスで一時間ほど話し合って、個人でちょっと考えてみるだけで【いじめ】がなくなるか。――答えは『あほくさい』。話し合いだけで世界が平和になれば、軍隊も城壁もいらない。つまり、そういう事だ。


「あ、まだ一行も書いてないんだ」


 零彦はその声に視線だけ動かした。そこに、幼馴染みの神風夜空が立っていた。毎回毎回この幼馴染みは唐突に零彦の前に現れるが、扱いやすさは他の女の例外だ。外見と学力に惹かれてすり寄ってくる女豹集団よりマシである。正直、異性というよりは、宇宙人を相手にしている気分だ。嫌いではないのだが。


「さあ早く書いて。そうでないとカンニングに来てあげた意味が成立しない」

「何だ……ずいぶんと偉そうな不正行為があるものだな」

「ようく考えてみなさい。単位のかかったテストであるいまいし、こんなもの考える事態が面倒だし億劫」

「それには俺も同意だ」

「何その言い訳は? なら私に壱から考えろと? そんな横暴が許されるとでも思っていて?」

「横暴なのは厚かましく不正行為をしている上に逆ギレしているお前だろうが」


 効果は無いと分かっていながらも、ジトリと睨む。予想通り、鼻で笑われて終わりだった。


「……複写したいなら当ては他にいくらでもいるだろう? さっきお前と話していた及川はどうした」


 この及川というは、及川涼華おいかわりょうかのことを指す。夜空の友人の一人で、零彦はあまり話したことがないが、中学が同じだったので多少面識はある。


「涼華さんは駄目だった。点数稼ぎの綺麗事しか書く気がない」

「おい……いいのか? そんなことを言って」

「その本人にそう言われた」

『こういうのは自分の内申書のために綺麗事を書いといたらいいんだよ』

「だってさ」

「…………」


 零彦は何も言えなくなった。夜空に顔色一つ変えず言っている縦ロールの少女の顔が、容易に想像できてしまうのが恐ろしい。 夜空は零彦の前の席の椅子に勝手に座る。教室で零彦に絡む時の夜空の定位置だ。その席の主は別のところに出張中なので問題ない。

 自分のシャーペンと紙を零彦の机に置いた夜空も彼と同じく、名前が記入されている以外は配られたままの状態だ。コツコツと白い紙をシャーペンで指す。


「それで、お前はこの件をどう考えているの?」

「……別にどうも考えていない。正直に言わせて貰うなら……下らないの一言に尽きるな」


 いじめというのは、言葉であれ行動であれ、一方的な暴力行為だと聞く。それを基準とするならば、おそらく零彦は一生【いじめられる】ことはないだろう。もちろん、彼の見た目と身長だけの問題ではない。

 言葉でも行動でも、やられたらその倍にしてやり返せ! そんな祖父母両親の教育方針を受けてきたのだ。殴られたらその倍を殴り返し、無視されたらその倍に無視を決め込む。つまり、【いじめられる】ではなく【喧嘩を買っている】なのだ。

 自分を害する者に対しては容赦しないが、基本的に自ら一方的な加害者になるようなことはしない。それは確かなことである。――あまりにも弱い身の程知らずに喧嘩を売られた時は別としてだが。

 要するに、複数対一だとか一方通行だとかねちっこいだとか陰湿だとか、【卑怯な暴力】とは無縁の零彦にとって、どこか遠い別世界のこと。クラスメイトに恵まれていたという考えもできるだろうが。つまり、 「くだらない」  その一言で一蹴できてしまう。それだけのこと。


「成程成程……それで、もしいじめの現場を目撃したらどうするの?」

「そうだな……」


 零彦はふと天を仰いでしばらく黙考する。


「助けを求めるのならばら、助けてやろう」

「求められなかったら?」

「助けん。というか知らん」


 きっぱりと言い切った。


「はあ、それはそれは。冷たいね」


 全然全くもって冷たいとは思っていない口調だ。夜空も零彦と同様、一方的な暴力とは無縁である。実感起こっていないことは無いのと同じ。テレビドラマのような、現実味の薄い遠い世界で――これから起こる【かもしれない】ような出来事には――ちっとも表情を曇らせることはない。


「自分で如何しようもないのに誰にも言わずにいるのが可笑しいんだ」

「でも、報復が怖くて言いにくいのかもしれない」

「己の命を壊す妙な覚悟が出来るのであれば、誰でもいいから助けを求める勇気ぐらい出せるだろうが。勝手に死んでから【誰も気付いてくれなかった】なんてどうしろというんだ。自分から助かろうとしないヤツを、誰が助けると?」


 一見情け容赦のない発言だろうが、零彦はそう考える。自分で本当にどうしようもなくなった時、自分以外に頼るのは悪いことではない。それが人間というものなのだ。

 病気になれば医者に頼るし、歳を取ればいつかは介護が必要となる。当たり前すぎることだからこそ、忘れてはいけないのだ。頼るのは、弱さではないことを。縋るのも庇われるも、選択肢の一つだ。だからと言って、ただ手を伸ばしてもらうのを待っているだけというのは、都合のよすぎる話である。

 生きている限り、どう巡ったところで戦いは避けられない。最後には必要悪としての殺し合いが要求される。それなばら最大の効率と最小の浪費で、最短に処理をつけるのが最善の方法だ。それを卑劣と蔑むなら、悪辣と詰るなら、ああ大いに結構だとも。正義で世界は救えない。嫌なこと苦しいことから逃げるなというのは、世間の言い訳。人の不幸は蜜の味だ。

 どこぞの黄門様のように、都合よく現れては無償で救ってくれる世直し大明神様なんていないのだ。待っているだけでは結局どうにもならない。お互い、問題は自分のできる範囲でするべきだ。いじめを打破するのは、自分。信頼できる人間を選び抜けるのも、自分。立ち向かう勇気を、自分から一歩踏み出す勇気を持たなくては。命を簡単に棄てる、無謀さなんか捨て払って。零彦は苦く笑った。


「誰かのために動くのは偽善らしいが、それが結局誰かのためになるなら結果往来だ。その代わり、助けを求められたら俺は全力で助ける気はある。……まぁ、その時になってみないとわからないがな」


 結局のところ、こんな考えもほとんど無駄なのだ。現場に直面した時、自分は本当に思っている通りに動けるか。それは実際に起きてみなくては、わからない。遭遇してみなくては、ただの妄言虚言と同じ。助ける側にも、行動という一歩が必要なのだ。


「成程成程。偽善は行為としては善に違いなく、根底が善でできていないだけの話。成した結果に救いがあるのならそれでもよいのかもしれない……」

「ならば零、君がその考えるならば」

「……仮初に私が――」


 夜空は一瞬言い淀む。


「私が助けを求めたら、君は助けてくれるんだね?」


 甘えるような声音で、夜空の両手が零彦の右手を包むように握り締めた。柔らかい体温に、突然何だとギョッとして、思わず後ろに逃げそうになる。だが、見慣れたはずの澄んだ闇色が真っ直ぐに射抜いて、零彦をその場に縫い止めた。その瞬間、零彦の心臓が小さく、だが確かに跳ねた。


「実は」


 白桃のような肌が紅潮し、甘そうな桃色になる。おねだりするような吐息が、零彦の精神を揺さぶる。


「君の物理の課題、写させて」

「…………」

「どうか我に救済を!」


 棒読み。もう少しせっぱ詰まれないものか。


「断る」


 言葉と共に夜空の手を乱雑に払い除けると、零彦はすぐさまソッポを向いた。火照る顔と手を、この癖毛女から隠すために。平常心平常心。教室の大半は自習ととってあちこちで騒いでいるので、幸いな事に、今のやりとりに注目していた者はいないようだ。とりあえず胸を撫で下ろし、夜空にようやく向き直れる顔になると、癖毛の少女は口を尖らせて不満を露にしていた。


「この朝三暮四の嘘つきものめ。助けてくれないんだ」

「自業自得だ、大馬鹿者が」


 そんなことを言ったら、そっちが嘘つきだ。金が絡まなくても詐欺師だ。零彦は叫びたい衝動を必死に抑えこむ。


「それで、お前の方はどんな風に思っているんだ? この問題を。どうしたらなくせると思う?」


 聞いてから、まるで青臭いドラマみたいに真剣な議論を交している気がして、自分が嫌になる。しかし、今は話を逸らすための話題が必要だった。


「いじめを無くすのは、至極簡単な事」


 だが幼馴染は何とも簡単に言い切った。


「それぞれが、他人に一切合切関心を持たなくなればいいだけの話」


 それは確固たる持論ではなく、母親が世間の常識を子供に教えるように、夜空は続ける。


「関心があるから感情がぶつかって、議論を生む。誰かが喧嘩もすれば他の誰かが仲介する。自分が傷つけられないために、人を傷つけるのは自明の理。実力は同等だが違う立場の人間同士が遭遇すれば、どんなことをしてでも相手よりより優位に立っていたくもなる。それが嫌なら、最初から互いに関心をなくし、他人を意識から排除すれば……世界からつまらない争いなんて起きない」

「それは……」


 確かに正論だ。色んな人間が居るから、他人の目を気にする。人であるから他人のことが気になってしまう。憎しみ合うのだって、互いに意識をしているから。争い合うのも、関心があるから。だが、もしそれがなくなれば、人は、世界は――?


「それだと、悲しくはありませんか?」


 二人の会話にするりと割り込んで来たのは、夜空の双子の神風月光だった。夜空の双子の弟である。彼は姉と同じく興味なさそうな話題の時は、辞書を読み耽るし、挙句は堂堂と屋上などでサボタージュをきめこんでいるはずなのだが、今日は真面目に出ていたらしい。一体どういう風の吹き回しなのだろうか。ふと、零彦は彼の姉の存在を思い出す。彼はどうも夜空に執着している部分がある。

 それはいわゆる禁断愛インセストに類するものではなく、『お気に入りの玩具』に向ける子どもの牽制に似ている。もしくは、幼少から付き合いのある友達を中学高校から一緒になった奴らに取られまいとする妙な独占欲。それが最近、輪をかけて激しくなってきた気がするのだ。それがどういう方向に変化しつつあるのかは、零彦にはわからないが。

 そんな彼に、もしかしたら、先程の一件を見られていたのだろうか……零彦の背中に冷たい一筋が流れた。


「それじゃあ人と助け合うことも出来なくなりますよ。ねえ、零彦君」

「そ、そうだな」


 珍しく至極真っ当なことを言う月光に、目を白黒させながら零彦は頷いた。確かに、その通りなのだ。しかし、この少年が言うと一気に胡散臭くなる。それはもう、たまらなく胡散臭いさがひどくなる。


「これ、まだ考えてたんですね」

「お前は終わったのか」

「はい。写しますか?」

「いや、遠慮しておこう」


 なんだか後が怖いし。これが本音だ。


「そうですか? 必要ならいつでも言って下さいね」

「……何を企んでいる?」

「いやいや、僕はみんなで助け合いたいだけですよ……というわけで」


 ぽんと月光がカットバンを貼りつけた手で零彦の肩を叩いた。


「実は僕、アブサンとの間にトラブルが起こしてしまったんですよ。助けてもらえませんか零彦君」


 彼は夏風のような笑顔をたたえて、とんでもない爆弾発言を懐から出した。珍しく怪我をしていると思ったらこれである。


「……アブサン、だと? それは関東地方最大のあのアブサン総会か!?」

「知ってるなら話は早いですね。さっきの姉さんと零彦君達の話を聞いていたら素晴らしく感動しました。だから是非とも僕を助けてほしいんです」

「そんなもの助けていられるか! 限度があるだろうがッ!」


 急に月光からドス暗いオーラが滲みはじめた。さっきの、シュッシュする消臭スプレーのような爽やかさは何処へやらだ。やはり自分達の話を聞いていたらしいことといい、やはり夜空とのやりとりを見られていたらしい。零彦の嫌な予感的中した。ド真ん中命中だ。これが大会なら優勝しているレベルだ。


「酷いですよ零彦君。困ってる僕を見捨てる気なんですか?」

「ああ、見捨ててやる。貴様の失態なんぞ知らんわ。今の話も全て聞かなかったことにしてやる」


 零彦は耳を塞いだ。先ほど【クラスメイトに恵まれている】というのを撤回してしまいたいくらいだ。部室にイヤフォンを忘れてきたことに今さら後悔する。


「姉さん。これっていじめですよね?」


 ひそひそと双子の姉に振る。といっても思い切り聞こえる声量だが。


「そうそう。これは見て見ぬフリという、立派ないじめだねひどいひどい」


 うんうんと双子の弟に同意。普段バラバラなくせに、見事な連係プレーだ。テレパシーで打ち合わせでもしたのか。


「そもそもお前まだ【狩り】をやっていたの? 可憐さんから聞いたよ、ああそれといい加減に新しい眼鏡を買ってきなさい」

「結構口が軽いですね可憐ちゃん……というか、及川さんに新しいのもらってませんでした? まあそれはそれとして」


 自分に都合の悪いことはあっさりはぐらかす。他人を貶めて不幸にさせるのが好きという、某球技漫画のマロ眉主将のような性格なのだ。


「実は昨日ですね、僕を軟派してきた人が有名暴力団の名前を出してきたもんですから、僕としたことがうっかり」

「うっかり、どうしら?」

「うっかり前歯と膝をへし折って、零彦君のフルネームと住所を書いたメモを落としてきてしまったんです」

「ってオイ貴様ぁぁ!」


 零彦は耳から手を放し、月光の胸倉に掴みかかる。


「なぁにが『うっかり』だ! 『ちゃっかり』の間違いだろうがァァァ!」

「おやおや? ちゃんと聞いているじゃないですか? 君の方が地獄耳じゃないですか」


 月光はにたああと笑う。もう完全に、絵になるような悪魔のそれだ。(自分にとって)オチがあるのは予想していたが、腹が立つものは立つ。


「もしかしたら近近自宅が襲撃されるかもしれませんから、せいぜい後には気を付けてくださいね!」

「きっ……貴様ァァァ!! 殺す! 殺すぞォォ!?」

「まあまあ落ち着いて、零彦君」


 零彦を制して、夜空は弟に厳しい視線を投げる。


「それで月光君、そいつの財布はどうしたのかな」

「その彼は給料日前だったみたいですよ。小銭数枚しか入っていなかったので、メモと一緒にそのまま置いてきました」

「ほほう、やはり今は下っぱ程度では左程儲からないんだ……しかし、そいつから金を取らなかったなんて……君もまだマシなところがあったんだ」

「いやいや、それほどでも」

「……って夜空どこに感心しているんだお前は! というかどこに褒められる箇所がある!?」

「やれやれ、助けて欲しいんだ? 助けて欲しければ報酬は数学のノートと物理のノートとメロンパンを一ヶ月貢ぎで、助太刀致す」

「巫山戯るな! というか何かいろいろオプションが増えているぞ!」

「まあ誠心誠意で頑張って下さいね零彦君」


 夜空の悪乗りに気を取られている間に零彦の拘束を逃れた月光は、若干吊り上がった双眸を細ませて、まるで人事のように――実際厄介ごと押し付けてもう人事なのだろう――愉しそうに他のグループに混じっていった。十分に零彦をいじりまわしたということなのだろう。言葉のナイフを上手く駆使するのは彼の方が上。満足げな、姿勢のいいその背中すら憎らしい。

 だが零彦は追わなかった。もう追っても無駄なのだ。しかも混じっていった先は首絞め悪魔のグループだ。自分が何とかできる問題ではない。というか、双子の姉さえ止められないのに、他人の自分がどう止めようというのか。采はもう、投げられていた。一方的に、しかも物騒で面倒な所に落ちている。


「……なあ、コレっていじめじゃ」

「まさか。月光君、いつもあんな感じじゃないか。自意識過剰も甚だしい」

「……そうか?」

「そうそう。こんなの通常運転だよ」

「ああ……そうだな」


 誰も彼も自分のことしか考えてない。好奇という悪意満載だ。そうだ、これはいつものことだ。零彦は自分に言い聞かせた。いじめなんて、そんなわけがない。これがいじめと呼ばれる行為ならば、これが日常である自分はなんだというのだ。……いや、考えるのはやめよう。いじめなんて、そんなまさか。

 零彦が自分の頭によぎった考えと頬を滑る冷たい汗を振り払っている間に、夜空は相変わらず真っ白なままの紙と文房具を片付けはじめた。気が付けば授業が終わり、お次はホームルーム。確か、プリントの提出期限は今日のホームルーム終了後だったはずだ。席に戻ろうとする夜空を、零彦は呼び留めた。


「――おい、夜空」

「何?」

「さっきの話の続きだが――お互い無関心なればいいとか、本当にお前はそう思っているのか?」


 そうだとしたら、どうだというのだろうか。自分でもわからない。他人の思想は自由なわけであるし。それでも、聞いておきたかった。


「まさか」


 幼なじみの電波少女へんじんは頬にかかった髪を払い、うっすらと微笑んだ。


「完全なる無関心が始まってみるがいい、それこそ人類は全滅する」


 無関心。没干渉。お互いを意に介しない。興味を持たない事は、他人との衝突コミュニケーションを防げる。しかし、その代償として、他人との間に何も産み出されなくなる。

 淡白な関係であれべたべたした付き合いであれ、人が人である故に生まれる感情をぶつけ合わなければ、慈しみも信頼も産まれてくる事はない。嫉妬も嫌悪もそれらと紙一重。自分に自信がなくなって仲間を求めたり助けを求めたり。それと上手く付き合っていく事が、現実を生きていく事なのだ。


「何があっても、生きることにしがみつこうとするのが、幸せの証拠」


 真の危険を知りながら敬遠する事は、その危険に自らを預けるようなもの。つまり、他人への感情ベクトルを手放した瞬間、人は必然的に孤独になる道しか残されていないのだ。やがてゆっくりと穏便に、物悲しい音を立てて、人類は崩壊していく。――きっと、無関心より恐ろしいものはない。どんな暴力より、何よりも。


「……どうするかな」


 夜空が席に戻り、静かになった自分の机で再び白い紙と睨み合う。提出期限は刻一刻と迫っているが、何を書いても綺麗事にしかならない。あの合法教師ロリババアのことだ。出さなければ出さないで何も言ってこないだろう。だが、零彦の几帳面さがそれを許さない。

 時間ギリギリまで粘ってみたものの、結局何も書けずに提出時間が来てしまった。諦めて月光の文章を写させてもらったらしい織田のプリントを見せてもらうことにした。プリントには、たった一行、丁寧に書かれていた。


『いじめられる子が全員マゾヒストなら問題ないと思います』


 零彦が痛烈に後悔したのは、言うまでもない。

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