第20話 凪


 悪者・・。――「孤独なものだけが悪い!」とディドロが叫んだ。そこで直ちにルソーは致命傷を受けた気がした。


      ――ニーチェ全集7「曙光」(ちくま学芸文庫)



 いけども、いけども、微動びどうだにしない黒いタンカー。とおくからのぞ岩山いわやまみたいに、かたくなに、そのすがたを変えてくれません。白い陽射ひざしかげをうばい、かくれを消しさります。あまりの図体ずうたいに、避難ひなんをあきらめた海の怪獣かいじゅうレヴィアタンが、おひるねをしているよう。赤いおなかをしずませ、べったりそべっています。ばけものじみた容積ようせきをほこるふねが、はるか沖合おきあい停泊ていはくしていました。

 小さなヨットは、波をかきわけ走ります。のないふねは、プレジャーボートぜんとして疾駆しっくします。まひるの太陽たいようかげをしぼり、テラテラ海面かいめんを、水銀すいぎんみたいに光らせます。空にはくも一つありませんでした。




 たった一つの目標物もくひょうぶつをうしない、後ろかべのような地平線ちへいせんは海にのまれ、ぐるりと、見わたすかぎりの水平線すいへいせん。空と太陽たいようと海。それいがい、なにもありません。風はそよともかず、海鳥うみどりかず、魚一ぴきねませんでした。


 子らは、時間がなくなったような感覚かんかくに、おちいっていました。それぞれカンオンでゲームを立ち上げ、時間つぶしをはじめています。しだいにがカクカクしてきました。クッソ重たくなり、やがてかたまりました。みんな、しぶしぶオフラインに切りかえ、あそびをつづけました。


 二度目にどめ食事しょくじをはさむと、すぐにウトウトに、おそわれました。船橋ブリッジの三人は、おひるねのまっさいちゅう。甲板デッキのソルは、くもの形を言いあてるのに、もう、あきあき。しかたなく、五周目ごしゅうめのローカルRPGに、とつにゅうしていました。

 ゆうだいな自然しぜんのまったただ中で、虚構きょこう異世界いせかい無双むそうするソル。いったいだれが、彼をわらえましょう? なんでもいいから、とにかく目あたらしいものを、志向物ヒマつぶしを、彼は渇望かつぼうしていました。それが人のさがでした。




 夜もとっぷりくれました。風はいでいます。しおのながれも止まったまま。さんざめく満天まんてん星灯ほしあかりの下、すべてが停滞ていたいしていました。今日一日の落差らくさたるや、午前中におきたことが、おなじ一日のできごととは、とうてい思えませんでした。星々ほしぼしのざわめきが、聞こえてきそうな夜。なみ船腹せんぷくにあたる音しか、聞こえませんでした。

 ほしは黒い盤面プレイフィールドに打ちこんだ、きらびやかな金釘きんくぎ。夜空の書割バックグラスえがかれた黄色い満月まんげつ。それへ、つきささるよう着陸ちゃくりくした銀色ぎんいろのロケット。人面遺跡じんめんいせきへとひた走る月面車ルナビークル。つきっぱなしのかたまったスコア。ぬるっとすべるフリッパー。だいじなところで横切る、いじわるスパイダー。ソルは甲板デッキに、ねころがっています。意地いじでも課金かきんしない、やりあきたピンボールの画面ホログラムを、無表情むひょうじょうで見つづけていました。

 ところでみんなは、一ばんだいじなことを、わすれていました。たび目的もくてき、および目的地もくてきちです。ソルはジュリたち他の三人に、まだそれを、たずねられていませんでした。聞かれたって、答えられやしませんが。なにしろ彼の目的もくてきは、出発しゅっぱつすることだったのですから。ゴールなんてはじめっから、なかったのです。

 どうせ、テキトーなトコで引きかえすだろう。てぢかな島にたどりつくだけだろう。よくあるミステリーツアーの茶番ちゃばんなんだろうと、みんなタカをくくっていました。たいくつな予定調和よていちょうわと見下しながら、ソルじしんも、けっきょくどこかで安心あんしんしていました。

 カンオンにゆだねることが最善さいぜんさくであるとは、すでに実証済じっしょうずみでした。それは、ゆるぎようのない、たしかな結果けっかであり、またその確率かくりつでした。今さら、ぼう大な一次資料いちじしりょうに目をとおし、個々ここ検証けんしょうし直すような酔狂すいきょうな人は、もはや、いませんでした。そんな懐疑かいぎ季節きせつは、とうにすぎさっていたのでした。

 万全ばんぜんすため、今現在いまげんざい検証けんしょうがなされている、といわれています。ある証明しょうめいがなされる時、それをているカンオンはべつのカンオンにられ、られているカンオンもまた、ちがうカンオンをている。カンオンはカンオンの監視者かんししゃであり、監視対象かんしたいしょうでもあります。どのカンオンも判断はんだんする主体性しゅたいせいをもち、かつその対象物たいしょうぶつでもありました。

 人は聞かされていました。全体的個ぜんたいてきことしてのカンオンによって、今も証明しょうめい証明しょうめいがされつづけていると。そこに不確定要素ふかくていようそである、人の入りこむ余地よちなど、まったくないのだと。疑問ぎもんをさしはさむ人は、そくざに問われます。安心あんしん効率こうりつをすてるだけの価値かちが、いったいどこにあるのだと。その結果けっかに、おまえは責任せきにんがとれるのかと。過剰な伝聞スキャンダル・コミニュケーション短期的たんきてき受動的信仰むいしき即製そくせいし、あらがいがたい空気となるのでした。

 ようするに、だれもわるくはないのです。なまけることは、最善さいせけん選択せんたくでした。はじめは警鐘けいしょうをならす人もいました。とうしょ、良識派りょうしきは無邪気むじゃき自認じにんする人たちは、すぐには浸透しんとうしないだろうと、楽観視らっかんししていました。「人はそんなにおろかかではない」とか。「歴史れきしに学べ、人はカンタンには変われない」とか。「私は信じる人の良心りょうしんを」とかなんとか。でもその期待きたいは、すぐに裏切うらぎられました。カンオンによる全面ぜんめんサービスが施行しこうされるやいなや、あっという間に、人はそれになれてしまいました。一部ですが、なぜもっと早くから、そうしなかったのか? という責任論せきにんろんさえ出るほどでした。

 自己正当化じこせいとうかが生きものの必然ひつぜんであるいじょう、それに積極的価値せっきょくてきかちを見出す人たちがあらわれるのは、とうぜんのなりゆきです。「いい時代になったものだ。これからは一億総隠居いちおくそういんきょの時代だ」とか。「じゅうよくごうせいす。受動的じゅどうてきなものに積極的価値せっきょくてきかちを!」とか。進歩しんぽと、とりちがえ「これは退化たいかではない、あらたな進化しんかなのだ」とか。さまざま解釈かいしゃくがなされました。しらずしらず市民らは、ひくい木になったブドウを楽々らくらく手にいれたような、きみょうなルサンチマン(恥辱感の正当化)ぷりを、はっきしていました。――ちなみに、ここでいうルサンチマンとは、劣等感れっとうかんや、不正ふせいに対するいかりではありません。情念じょうねんではなく、愚劣ぐれつな「解釈」のことです。自他未分じたみぶん快楽原則かいらくげんそくの世界を生きつつ、強度の低い言葉イメージ受動的じゅどうてき倫理りんり武器ぶきとし、自分につごうのわるい社会しゃかいを、さかさまに、無責任むせきにんにひっくり返そうとするこころみです。わかりやすくいえば、赤ん坊の記憶きおくを引きずったままの、そぼくな物質現実モノへの反逆はんぎゃくのことです。

 とはいえ、人ができるような仕事だけは、たっぷりのこされていました。気づけば、抽象的ちゅうしょうてき仕事しごとにつく人々は、自立民じりつみんとしてカンオンをもち、より具体的ぐたいてき仕事しごと従事じゅうじせねばならぬ人々は、自由民じゆうみんとしてカンオン・フリーな生活様式ライフスタイルをえらんでいました。市民は、おのずと分かれていったのです。いつしか、かまびすしい議論ぎろんも消え、カンオンは空気くうきになっていたのでした。

 みんながわるい時、わるい人は、だれもいなくなってしまいます。世間体せけんていというプロクルステスの寝台しんだいが、その社会しゃかい矯正装置きょうせいそうちが、はたらかなくなるからです。一人がおかしくなるのは、百分の一の確率かくりつですが、みんなにあっては、いつものこと。個にあく烙印らくいんをおせても、みんなであくには、なれないのです。だって善悪ぜんあくって、価値かちなんですから。個が貨幣かへい言語げんごをつくれないように、価値かちとは社会しゃかい意志いしそのもののこと。社会しゃかい自己正当化じこせいとうかのこと、なんですからね。

 だからそう、わるい人なんて、だれもいなかったのです。




 二日目。


「ちょっとお、なにやってんの!」

 とつぜんジュリが、おこりだしました。

「?」

 びっくりするソル。

「水がないじゃない、水が」

「……は? だって、のんだじゃない、きのう」

「きのうのうちに、わかってたんでしょ!」

「うん、おまえもな」

 彼はぐるつと見まわしました。マリもニコライも、カンオンが、あいてをしていました。

「みんな、そうじゃん」

「どうすんの、そのカバン(ナップサック)の中に、なんか入ってないの」

「ないよ」

 即答そくとうするソル。

「どうすんの、もう食べもの、みんなないよ」

「いや、しってるけど。しってたでしょ?」

「しってる、しってない、とかじゃなくって。だから、どうすんの!」

「しらんよ。かえれば、いいじゃん」

「はぁ? どーやって」

「いや、しらんよ」

「もういいから、かえして。あんたが、かってにつれてきたんでしょ。もうじゅうぶんあそんだし、気がすんだでしょ? ハイハイ、もういいから。とにかく、はやくかえして」

「だから、さいしょっから……」

 ソルは口をつぐみました。ためいきをついてから、ナップサックを手にとると、ゴソゴソ中を物色ぶっしょくしはじめました。すぐにメンド―くさくなって、さかさまにふりました。 

 他の荷物にもつにまじって、ミネラルウオーター、ばらのキャンディ、子袋こぶくろのビスケットが、ゆかにころげました。

「ほらよ」

「うっわ、サイテー。あるじゃない」

「ふひょー、くれくれ!」

 のりだしてくるニコライ。

「ダメ! マリがさき」

 たしなめるジュリ。

「じぶんさえ、よければいいの? じぶんさえ!」 

「そうだよ。だからついてくんなって、いっただろ?」

「いついったの?」

「……」

 ソルは絶句ぜっくしました。こうなんだ。これがふつうなんだ。と言い聞かせ、気力をふりしぼって切りかえます。

「いいから、空のペットボトルに、みんなのぶん分けろよ」

「よかないわよ、マリには多めにだから」

「えー、ダイジョ―ブだよ。わたし」

 こまりがおで、いちおう、ことわるマリ。

「いいの、あなたじゃなく、赤ちゃんのぶん。これは人命救助じんめいきゅうじょなんだから」

 ほほえむジュリ。

 ケッ、いちいち大げさ。一日いちんちくらい水のまなくても氏なねーよ。目の前のやりとりが、ソルには、おしばいのようにうつっていました。

「あと、かえるんだから、ふねもどして」

「まだ、あんのかよ、もうさぁ、すきにすれば……」

「いちばん、だいじなことでしょ。なにいってんの」

「しってるよ。だから……」

「あきれた。パスワード登録とうろくしたのじぶんでしょ。あんたのいうことしか、きかないんでしょ。わすれたの?」

 なかなか、うごかない、うごきたくないソル。

ふねにいえばいいだけじゃないふねに。カンタンでしょ。さ、はやく」

 しぶしぶソルは、必要ひつようもないのに立ちあがりました。

ふねをもどして。りくにむかって。もとのところに」

 わざわざカンオンにむきなおって、滑舌かつぜつよくいいました。

 米粒大こめつぶだいの青い光がカンオンにともると、空中にうかんだワクの中で、赤いラインがねます。それがパッと、グリーンになりました。(このアイコンはデフォルト仕様です)

「あとは、しらんよ」

 たおれるようっころがり、立てヒジついて、ゲーム画面がめんに切りかえるソル。ジュリが仁王立におうだちのまま、しばらく、じっと見下ろしていました。

「じぶん、かって、なんだから」

 なぜか彼女も滑舌かつぜつのよい、すてゼリフをのこし、いってしまいました。

「へへ、おこられてやんの」

 ニコライが小さく、ささやきました。

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