夜間飛翔

翳目

前半


 強い風が吹いていたのを覚えている。開け放たれた窓から、真夏の焦げつくような青い光をいっぱいにふくんだ、重苦しい風が吹き込んでいた。静かなように思えたのは、おそらくまなぶの錯覚だろう。本当は五月蠅うるさかったはずの教室の中で、學の耳には木霊こだまする級友の声以外聞こえていなかった。

望月もちづき、自殺したって、」

 明るすぎる真夏の青空にはあまりにも不釣り合いなその一つの言葉を、學は自らも、一度繰り返した。そうして、目の前の級友の口元を見つめた。高台の校舎から見渡せる海沿いの街の不揃いな輪郭と、その上に打ち立てた巨大な柱のような一筋の入道雲が、それきり口をつぐんだ級友の背後で白く光っていた。かつての級友が飛び降りたという、見知らぬ校舎の白い壁を學は思い浮かべ、そうして微かな眩暈めまいをおぼえた。それほど離れてもいない隣町の高校へ進んだ彼とは、それきり会っていない。學は会いたいと願っていたが、そもそも卒業して連絡を取り合うような仲ではなかった。

 望月とは中学の三年間だけの付き合いだった。思春期特有の脆い感傷を持て余していた學とは違い、望月は他の生徒にはない妙に大人びた空気をまとっていた。生徒会の副会長という肩書を淡々と背負い、学級クラスのなかでは自ら市井しせいに沈もうとするようなあからさまな謙虚さが、かえって彼の静かな存在感を深く印象づけた。學は、折々に生徒会のめいが刺繍された紺の腕章をつけて生徒たちの前に立つ望月の姿をただ見守っていた。他の生徒と同様に、尊敬と微かな敬遠を、無関心を装った視線に重ねていた。

 望月は搬送先の病院で死んだらしい。校舎の四階から飛び降りた彼が、血だまりにぽっかりと浮かんでいる様を、學は想像できるような気がした。若干の乱視だった彼が体調によってかけていたブローの眼鏡が、破片になってそばに転がり、ほどよいバター色の肌は血を失って蒼白になる。水槽から放り出された鮒のように口を動かし、僅かな酸素を求めている裂けた唇の毒々しい赤までも、まぶたの裏にありありと思い浮かべることができた。激しい対照コントラストを生む斜陽に焦がされていくようで、眩暈がした。

「……ガク、」

 不意に級友が呼んだ。「學」とは「まなぶ」と読むのが正しい。だが、親しい者は皆、學を「ガク」と呼ぶ。

「大丈夫か。……顔色が悪い。」

 三枝木さえきは口調だけで、心配する素振りを見せはしなかった。こういうときに、周囲への配慮を怠らない。耳元まで顔を近づけて声を低めた三枝木を見て、學の声も自然と無声音になった。

「……少し、眩暈がしただけだ。」

 三枝木が声をやたらに低めるのはなぜだろうと思った。机を挟み、触れるほど顔を寄せ合って話す二人を誰も気に留めることはなく、不意に耳に戻ってきた教室の喧騒けんそうで、學は級友が声を低める理由を察した。

 望月の死は、当時の同期生の殆どにはまだ知れていなかった。三枝木がどうしてそれを知ったのか學は聞かなかった。この友人は昔から、どこからともなく、様々な情報を仕入れる術を持っている。信憑性の有無は學以外にも保証できる者がいくらかいるから、決して出鱈目でたらめではない。午後の授業を二つとも抜け出した學は、そのまま四階の階段を上り、立ち入り禁止の張り紙がされた戸を開けて屋上へ出た。

 風は相変わらず強く、纏わりつく湿度の高い風は、生温い大きな掌に体を掴まれるようで不快だった。立ち入り禁止とは名ばかりで、大昔に鍵が壊れて以降、施錠されていない屋上は誰でも自由に出入りできるが、好んで訪れる者は少ない。

「何してるんだ、」

 學の予想に反して、其処にはすでに先客がいた。

「……咲田さきた、」

「早く閉めろよ。」

 咲田は、特別親しいわけでもない、互いに強い関心もないような同級生クラスメイトの一人である。一人きりになれないとわかり落胆する學を他所に、粗雑なコンクリートの床に四肢を投げ出している。一瞥をくれると命令口調で指図され、學は鉄製の扉から手を離した。支えを無くし、わりに大きな音を立てて扉が閉まる。

「サボり、」

「見た通りだろ。おまえこそ、」

 隣に腰を下ろすと、咲田は少し迷惑そうな顔をしたが、學にはそれに配慮する義理はなかった。学校の敷地から見る空は、遮るものも無くやたらに広々としている。遠くの水平線に打ち立てられた入道雲以外には、千切れたような小さな雲が僅かに浮かんでいるだけだ。横を見ると咲田はを閉じていた。余所者よそものは目に入れたくないとでも言いたげに、眉間に微かに力がこもっている。

「……授業、出なくていいのか。」

 咲田はあからさまに真面目さを臭わせる生徒ではなかったが、学級クラスの中でも上位に入る程度の成績を維持していることを、學はそれとなく感じている。多少口は悪いが、素行不良というわけでもない。そんな彼がこうして授業を抜け出していることを、學は意外に感じた。

「共犯者に云われたくないな。」

「……俺は、体調がすぐれなくて、」

「だったら、保健室に行け。」

 閉まっている扉を指さされ、學は口を閉じた。普段から粗暴な物言いの多い彼だが、虫の居所が悪いらしいことが口調で察せられた。

 蝉の声が、吹き抜ける風にのって砂を流したような音を響かせている。考査期間も終わり、ようやく夏休みに入ろうというこの時期に、學は思いがけない鉛のような衝撃を胸に抱かねばならなかった。夏休みになれば今以上に、漠然とした時間だけが目の前に横たわっているだろう。學は無限に空いた日常の隙間に、望月が飛び降りたというその刹那せつなを繰り返し想像するに違いなかった。

「ここから飛び降りたら、どんな気分だと思う。」

 口をついて出た言葉に、學は自らたじろいた。緑色のフェンスの向こうには、限りない青空と海沿いに続く不揃いな街並みが見える。

「おまえには、保健室より、生徒相談室を勧める。」

 間髪入れずに咲田が答え、學は自分の言葉を無に帰す機会を失った。微かに軽蔑したような響きを持った咲田の声に、なぜか少し傷ついた。それが、望月をおとしめられたように感じたからだと気づき、學は思わず、今朝の衝撃をそのまま咲田の前に吐き出した。咲田は目を閉じたまま何も云わず、さびれた屋上に、ただ反響して消えた自分の声を、學は虚しさのままに聞いた。

 六限の終りをつげるチャイムが鳴り、校舎がどことなくざわつくのを感じながら、學はおもむろに立ち上がった。咲田が目を開けたのが目の端に映る。所々錆びて赤くなっているフェンスの前に立つと、炎天下で干からびた校庭の、白っぽい地面が眩しかった。ほぼ真下にあるプールは死角になっていて見えない。

「……梶原かじわら、」

 不意に、背後から咲田が呼んだ。振り返ると、上半身を起こしてこちらを見ている。

「飛び降りるなよ。そこから落ちたって、すぐには死なない。」

「……知ってるよ。」

 軽口を叩く咲田に、學は苦笑で返した。すぐには、と言った咲田の声で、真っ赤な望月の死体を再び思い浮かべていた。形のよい眉に表情はなく、うつろな目が、青いだけの抜けるような空をふらふらと彷徨さまよい見る。所詮それは學の想像でしかなかった。だが、學は、望月はまさにそうして死んでいったのだと思わずにはいられなかった。

「早く帰れよ。俺を待つ必要ないだろう。」

「誰が、」

 咲田は鼻で笑い、學から目を離した。

「俺にも、都合があるんだよ。」

 咲田が腰を上げない理由に、學は心当たりがあった。それで、終礼が終わってしばらくは、まだ咲田はここに居座るだろうとも端から思っていた。鉄臭いフェンスにかけていた指を、制服のポケットに突っ込んで、學は咲田を揶揄(やゆ)するつもりで口を開く。

「嫌いな奴と顔を合わせたくないなんて、小学生みたいな理屈だ。」

「おまえだって嫌ってるくせに、」

「嫌ってはない、……気味が悪いと思うだけで。」

「どうだかね、」

 大きな欠伸あくびをする咲田の隣に、學は再び腰を下ろした。早々に終礼を終えた学級の生徒の足音や話し声が響いてくる。學はどの部活にも所属していない。咲田もそのようだった。運動部が強豪揃いと有名で、それを目的に入学してくる者も多いなかでは、學も咲田も少数派になる。剣道部の主将である三枝木などは、學の帰りを待たずに部室へ行ってしまっているはずだ。

「……外見で差別してるおまえのほうが、小学生みたいだ。」

 咲田がにやにやと笑いながら、學の鼻先を指さして言った。驚いて顎を引いた學の前で、咲田は尚も可笑おかしそうに口の端を吊り上げている。

「差別じゃない、」

「幽霊みたいで、気味が悪い。……それを世間では、差別って云うんだぜ、」

「そうは云ってないだろ、」

 声を荒げながら、學は、与えられた言葉に愕然としている自分に気づいた。そして同時に、咲田への反駁はんばくが意味をなさないことを感じていた。

 新学期の学級替えからそろそろ四カ月経とうとしているが、未だに碌な会話をしたことのない同級生の中に、永峰ながみねという苗字の男子生徒がいる。出席番号順の座席から早々に席替えを行ったとき、誰とも口をかないまま勝手に窓際の一番後ろに腰を落ち着けて以降、彼は学級の殆どの視線から隠れるように生活をしていた。尤も、彼がそういう態度をとることを、学級の者は皆暗黙のうちに了解している。色素を作りだすメラニンが欠乏するとああなる、と三枝木が小声で言ったのを學は覚えている。黒の詰襟つめえりが、乳白色の肌や白い髪との対照コントラストを極端に強めて、春が過ぎるまで、學は生まれて初めて目にするその異様な容姿を、ただ視界に入れないようにひたすら神経を使っていた。学級の殆どが學のように、半ば意識的に無関心を装おうとするのを知ってか、永峰は、昼休みだろうと放課後だろうと、いつも自分の席を動かず窓の外をぼんやりと眺めていた。誰かに話しかけられることも自ら話しかけることもなく、努めて、周囲の意識から消えようとする彼の偏った誠実を、學は複雑な心持で感じ取っていた。咲田がその誠実さを捻くれだと心底嫌い、そういう咲田の正直な態度を、永峰が同じように嫌っていることも、学級の人間関係に敏い學は見抜いていた。

 特に意識することもなく咲田と共に屋上から戻った學は、そのまま荷物をまとめて無人の教室を出た。窓の施錠を確認してから出てきた咲田と、自然と並んで廊下を歩く。これまで親しくはなかったというだけで、一緒に下校することに何の気兼ねもないのは、男同士の気楽さだった。学級の中でも比較的地位の高い咲田や三枝木などとは違って、あまり目立たない場所に落ち着くことが常の學は、教室の中では極力無口を演じている。小中と一緒になってきた三枝木は例外としても、他の同級生と積極的に会話をしようとは思わない。乱暴に絡まった、糸のような絆を必然と要求される日常の中で、學なりにうまい生き方を選んでいるつもりだ。だが、計算的な平穏を維持する代わりに、得られないものも學には多かった。

広西ひろせが泣いていたのも、自殺のせい。」

 遮断機の下りた踏切で立ち止まったとき、咲田がいきなり聞いた。それまでの会話となんの脈絡もない唐突な問いかけに、學は開けかけたペットボトルを手にしたまましばし黙った。罅割ひびわれた遮断機の音にまじって、線路を揺らす車輪の音が近づいて来る。

「……生徒会の役員だったからな、二人とも。」

 咲田は別の中学で、望月のことは名前も知らないはずだ。望月と同じ中学だったのは、学級の中では學と三枝木、それに学級委員の広西だけだったが、そのことも知っていたとは思えない。気の抜けた炭酸水を咽喉のどに流し込んで、學は満員の電車が目の前を通り過ぎるのを見つめた。

 望月はなぜ、死んだのだろう。人としての品性を十二分に備えた端正な顔には、いつも機知に富んだ、それでも少年らしさを忘れない微笑みが浮かんでいた。学級に沈めば窮屈な肩書きを上手く脱ぎ、静かにことの成り行きを見守る。その誠実さに、學は形容し難い居心地の悪さを抱いていたが、望月のことは嫌いではなかった。好く者こそいても、彼を心から嫌う生徒など、いるはずがないとすら思っていた。

 咲田と別れたあと、學は帰宅せずに母校の中学へ足をのばした。夕暮れの空が柑子色に深まっていく中、校庭グラウンドには部活動に励む生徒たちの声が響いていた。フェンス越しに校庭を走る中学生を、學は不思議な気分で眺めた。學の瞳には、想像していたよりずっと、十五歳の少年少女は幼く映った。当時の自分も、そして当時から剣道部を背負っていた三枝木や、あの望月も、きっとそうだったのだろうと學は思おうとした。だが、學の記憶の中の望月は、目の前の日に焼けた活発そうな少年たちよりも遥かに大人び、品格というものをきっぱりと理解した上での控えめな振る舞いのみを、他の生徒たちの前に見せているような生徒だった。



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