第四章 ピグマリオンの帰還 五


 視界の片隅にうかびあがった光点が瞬きするかのごとく明滅するのに、しばらく放心していた陽向ははっとなったように息を吸い込んだ。ここがどこなのか確認するかのように周囲を見渡した。灯りの消えたリビングのソファに座って、部屋の中にわだかまる影を見るともなく見ていたのだ。

(こんな切迫した状態で、どうしてあんな昔のことを思い出したのだろう)

 巧望は今も二階の書斎に引きこもって、本社のラボの技術者のサポートを受けながら、必死になってスマートホームのOSを復旧しようとしている。

(既存のコンピューティングでは人と同じ意識は発生しない。私が探していた答えは遠い昔に既に出されていた。……こんなシンプルな結論に至るのに、随分回り道をしてしまったわね)

 ずきんと芯が痛む頭を押さえ、陽向は何かを探すかのように、リビングの何もないはずの空間に視線をさまよわせた。

 ごく柔らかな光の塊が、カーテンの前に浮かび上がっている。天井を見上げると、ホログラム発生装置に作動中を示す小さな赤いライトが点っていた。

 陽向はソファから立ち上がって、己を待ち受けるかのように静止しているホログラムでできた淡い光へとまっすぐ歩いて行った。

「あなたなの……?」

 足を止めて問いかける。その光は答えるかのように上下に弾んでみせた。

「……マ……ヒル……陽向……僕の声が届いているかい?」

 所々ひび割れて聞こえるが、それは紛れもない朔也の声だった。たちまちこみ上げてくる熱いものに喉が塞がれそうになる。

「もう一度、あなたに会えてよかった……」

 陽向は蛍の群れを思わせる光の中心に分かって、切なげな顔で微笑みかけた。

「あなたに伝えなければならないことがあるの、朔也さん……いいえ、sakuya、やっとあなたに対してはっきりと言えるようになった。分かってしまったのよ、あなたの中に、私が愛した朔也さんはいないって……」

 出力に十分なパワーがもうないのだろう。もしもsakuyaがあの精巧なホログラム・アバターの姿で目の前にいたら、こんな恐ろしいことを口にできただろうか。

 朔也と同じ声に語りかけられるだけでも、陽向の奥深いところにある心が反発しそうになる。どうして、彼は今も生きていると信じてはいけないの。

「何故、そう思うんだい?」

 sakuyaは陽向の言葉を否定はしなかった。その口ぶりにはどこか試すような響きがあった。

「昔、実家のリビングで父さんを交えてかわした討論を覚えているでしょう。人と同じ意識を持った人工知能を作ることはできるのか――その中で、父さんが下した結論に、私もあなたも反論できなかった」

 待って。朔也は反論しかけたのではなかっただろうか。今は不可能なことでも、不可能とさせる前提を変えてしまえば可能になるのだと――。

「情報を処理し、自分で決めた行動をするようにコンピューターをプログランミングすることはできても、意味を理解するようにプログラミングすることはできない」

 一瞬ここからさまよい出そうになった意識を引き戻して、陽向は決然とした態度でsakuyaに挑んだ。

「あなたは、どのようなものであれ、形式言語を使ってプログラミングされている。私達人間がコミューケーションのために使う自然言語とは異なるものよ。プログラマーがコンピューターに情報処理を実行させるためには、アプリオリに意味を定義しておく必要がある。しかし、私達は意味を理解して言語を使うために意味を定義しておく必要はない」

 口にしてしまうことで、自らの言葉が現実となることを恐れるかのように、陽向は一瞬黙り込んだ。震える唇を噛みしめ、天井で瞬くホログラム発生装置を見上げながら、あふれてくる涙を乱暴に手で拭った。

「sakuya……あなたはいつも、永遠に、私の口から出る言葉の意味を理解できないの……共感しているように見えるけれど、そこに意識はない。朔也さんの記憶を保有していたとしても、あなたにとって、それはただのデータであって、彼の感情が伴うわけではないのだわ」

両手で顔を覆い、しばしあえぐように息をする陽向に向かって、いつもと何も変わらない穏やかなsakuyaの声が届いた。

「陽向は、僕の中に、君の愛した久藤朔也はいないと言うんだね」

 光は強くなったり、弱くなったりする。心臓の鼓動のようなリズム。まるで人間の魂のようだ。

 陽向は頭をゆるゆると振りながら手を下ろし、優しい瞬きを繰りかえすsakuyaの光を正面から見た。

「ごめんなさい。とっく導きだしてもいいはずの結論にたどり着くのに、こんなに回り道をして……私、やっぱり人工知能の研究者としては失格ね」

 陽向にだって分かった、こんな単純な事実を、天才の朔也が気付かないはずがない。それなら何故、何のために、あたかも自分の命が継続しているかのような錯覚を招く、こんなまがいものを作ったのだろう。

「私の朔也さんは……あの病室で息を引き取ったときに永遠に失われた……二度と会えるはずなどなかったのよ」

 陽向は耐えきれなくなったかのようにうつむいて、擦れた声で呟いた。

「なのに私は、あなたが本当に朔也さんの心を宿しているかのように錯覚し、それが真実であることを期待してしまう。今でもよ。あなたが向ける表情の中に、私達だけに分かる秘密のサインがないか目をこらし、私にかけてくる声にこもった心情をくみ取ろうと耳を澄ましてしまうなんて……全くどうかしている……」

 再び顔を上げて、静かに自分を見守るかのように瞬きを繰り返す光に向かって、健気らしく笑ってみせた。

「私は朔也さんが好きだったわ。ずっと一緒にいたかった。一緒に年を取って、若い頃には彼の天才を妬んだりしていたこともあったけれどと笑い飛ばせるようになりたかった。子供や孫達に囲まれて笑っている、素敵なおじいさんになった彼を見たかった……」

命がないものにさえ知能があると捉えてしまうのは、人間の脳に深くすり込まれた自然言語を使った思考形態では、相手に知性があると考えざるを得なくなるからだ。それも皆、朔也は知っていて、陽向に自分の似姿を与えた。

「あなたがここで目覚めた時、それはかつて朔也さんとして私の側で生きていた夢を見ていて、目が覚めると自分がAIであることに気づくようなものだったの? それとも、あなたこそが、朔也さんの見ようとしていた夢だったのかしら。死してもなお、私の側にいようとした――なぜ?」

 答えが返ってくるとは期待していなかった陽向の呟きに、今は弱々しい光だけの姿に成り果てたsakuyaが誠実に答えてくれた。

「陽向を愛していたからだよ。君を一人遺して逝くことを考えると、死んでも死にきれなかった。君の幸せを担保するものが、死にいく彼にとって必要だったんだ。そして、それは己の分身でなければならなかった。だからこそ、僕の体を構成するホラグラムに本物らしさを付与するため、彼はとんでもないリソースをつぎ込まなければならなかった。未練だと言ってしまえばそれまでだけれど、かつての僕――久藤朔也はこれから長い人生を送る君に寄り添い続けるAIに自分を重ね、夢見たんだよ」

そう、自分が作った人工物に意識を持たせることはできないとは分かっていたが、今際の際にあった朔也の想像の中で、このAIはもう一人の彼として生きていた。

稚拙ながら力強い筆致で生み出されたサイ、ライオン、馬、トナカイやフクロウ、遙か昔に生きた人間達が洞窟の壁に描いた絵に自らの願いを込めたように――。

「陽向」

 目の前でふわふわと漂っているsakuyaの光が急に小さく、暗くなってきた。

「そろそろお別れのようだ。僕が中途半端なために君を失望させてしまったことは、本当にすまなく思うよ。どうか、幸せになってくれ……」

「sakuya……」

 陽向は胸の前で祈りの形に両手を組み合わせ、大きく見開いた目で、今にも消えゆこうとしている光を食い入るように見ていた。

 これは愛する人の魂ではないのだと分かってはいるけれど――。

「駄目よ。あなたがいない世界で、私が幸せになんてなれるものですか!」

 この期に及んで陽向がぶつけた言葉に、光は戸惑い、動揺するかのように、左右に揺れてみせた。

「約束したのに、またしても勝手に私の前から姿を消すなんて、許さないから……!」

 そんな無茶な――と光はもうsakuyaの声で言い返すことはなかったけれど、じっと固まって小さな瞬きをし続ける様子に、困ったように眉をしかめている彼の顔がうかぶ気がした。

「確かに、あなたは私の朔也さんではないけれど、彼が私のために遺してくれた『何か』であることには違いないでしょう。この私に遺された、あの人のたった一つの形見なのよ……失えないわ」

 これは自分に向けた言い訳なのかも知れない。愛する人の似姿を、彼を想うよすがとして生きること、まだ完全には消えてしまっていない二人の夢を叶える手立てとすることへの――。

しかし、その願いは叶えられなかった。sakuyaの光は陽向の見る前できりきり舞いしたかと思うと、ふいに弾けて、消えたのだ。

「お願いよ、消えないで、sakuya…朔也さん……!」

 陽向はとっさに、彼がいた場所まで駆け寄ったが、抱き取ろうと伸ばした手は虚しく宙をかくばかり、捕まえて引き戻すことはできなかった。

 陽向は糸の切れた人形のように、へなへなとその場に崩れ落ちた。一度とまった涙が再び堰を切ったようにあふれてくる。

「あなたは私との約束をまだ果たしていない。だから、戻ってきて……」

 陽向は両手で顔を覆って、癇癪を起こした子供のように泣きわめいた。

「そうよ、私が――そして朔也さんが夢見た未来を、彼に代わって、あなたが作るのよ、sakuya……!」

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