第四章 ピグマリオンの帰還 四
陽向は視界の片隅で輝く小さな光の点をぼんやりと眺めていた。遠いところにある星のように頼りなく、現実のものとは思われなかったが、見つめているうちに、それはゆっくりと輝きを増しながら広がって視界を埋め尽くしていく。
霞のように真っ白な光に包まれた陽向の耳に、どこからか、人の話し声が聞こえてきた。
初めは捉えどころのない音だったのが、次第にはっきりと何を話しているのか聞きとれるようになった時、それらが自分にとってごく近しいものであることを悟る。
「……私は、人間か、それ以上の知能を持つAIは後、二十年もすれば当たり前のように社会に受け入れられていると思うわ」
いかにも勝ち気そうなハキハキとした物言いをする、これは、まだほんの少女だった頃の陽向自身の声だ。
眩しいほどの光は次第に和らいでいき、気がつけば、陽向は馴染みのある実家のリビングのソファセットの端に座っていて、自分をじっと見守る人達の温かい視線に励まされながら熱弁を振るっているのだった。
「そして、それは人間の抱える複雑で、多様で、予測不能な問題に対応できる、究極のコンパニオン型のAIになるはずよ。だって、昔から人間が憧れていたのは、自分のことを分かってくれる友達としての人工物でしょう?」
間違いなく自分の喉から発せられた言葉だというのに、やけに気恥ずかしい。そう、これが高校生の頃の宇和陽向だ。
我ながら、何という恐いもの知らずで、生意気な女の子だったのだろう。
幼げな理屈ばかり振りかざす、こんな子供を適当に受け流したりせず、いつも寛大な態度で自分達の討論に参加させてくれた父と彼には、控えめに言っても感謝しかない。
陽向がゆっくりと視線を移動させる先にいた柔らかな物腰の青年が、微笑ましげに目を細めた。高校生の陽向の相手をしている朔也の姿も、当然のことながら少年のように若い。
「人間の友人になってくれるコンパニオン型の人工知能か……ああ、ひとつ、典型的な例が頭にうかんだよ。昔、日本の子供達が夢中になった国民的な漫画に出てきた、未来からやってきた猫型ロボット……何て言ったっけ……」
「ドラえもん」
ぽんと手を打ち鳴らし、真面目な顔をついに保てなくなったのか、クスクス笑いながら朔也に賛同したのは、元気だった頃の父、孝之だ。
「僕の時代の人気キャラクターだねぇ……なるほど、研究者が目標とすべき究極の人工知能はあれだと言われたら、議論の余地なく納得するしかないな」
うんうんと頷いている孝之と肩を震わせながら笑っている朔也とを見比べて、陽向はいささか憤慨しながら主張した。
「ドラえもんは概念として間違っていないけれど……もう、私を子供扱いするつもりならやめてよ、これは真面目なディベートなんだから!」
「ああ、うん……分かった、ドラえもんはさておき、どういう存在なら、それが人間ではないと分かっていても我々は心を許し、友と呼ぶことができると思うんだい?」
クッションをひっつかんで威嚇するように振りかざしてみせる陽向に、降参とばかりに両手を上げて、どうにか真面目な態度を取り繕った朔也が議論を再開した。
「当然、それがどんな姿をしていたとしても、初めは未知のものに対して警戒心は覚えるでしょう。本能的な恐れは、実際に接することで克服していくしかない。重要な鍵はコミュニケーションの方法よ。人間と同じ自然言語で会話できるAIなら、容易に意思の疎通がはかれて、関係を築いていくのにも有利ね。言葉に付随した感情表現も大切よ。つまり、振る舞いこそが、私達が相手を知性的かどうか評価する指標なの」
いまだに笑いを含んだ朔也の真っ黒な瞳が、きらりと光った。自分の発した言葉が、この天才少年の知的な興奮を少しばかりかき立てたのだろうか。そう考えると、ちょっと誇らしくなる。
「陽向ちゃんが友達に選ぶAIの基準がそれだとして、その場合、心はそこに含まれることになるのかい?」
しかし、追求されるととっさに何と答えたらいいのか分からなくなって固まってしまう辺り、陽向はいつもつめが甘いのだ。
「確かに、知性があるように振る舞うことができれば、たとえ本当は意識がなくても、僕達はそれを知的だと考えるだろう。チューリングテストがAIを評価する最良の方法とされているのは、自分以外の人間を含む、他の生物を僕達が認識し関係を築く方法がそういうものだからだ。つまり、振る舞いで判断するんだ」
陽向は眉間に深い皺を作ってしばし考え込んだ後、朔也の涼しげな顔に向かって、自信なさげに問いかけた。
「振る舞いと心が一致しない場合があるの……?」
「少なくとも人間はそうだよね? 頭で考えていることと口に出していることは正反対なんて真似ができるのは今のところ人間だけだ」
朔也は陽向に軽く頷き返して、ソファの背に身をもたせかけ、胸の前でしなやかな指をピラミッドの形に合わせた。
「さて、人間そっくりに振る舞うAIがいつか現われたとして、僕達は、その口から出る言葉をどこまで信じられるのか。人間同士でさえ真の意味では分かり合えない僕達が、人工的に作り出された心の存在をどうやって確かめばいいのだろう」
朔也の黒い瞳はもう陽向を見てはいなかった。夢想の中に描き出された遠い未来図を見ているかのような物思いに沈んでいる。
そのことがちょっと悔しく、哀しい。陽向は朔也の真似をしてみようとしたが、彼女に思い描ける未来は、しごく単純で子供じみた物語になった。
「うーん、そうねぇ……もしも、人間そっくり振る舞うAIが現われて、私に恋をしていると訴えてきたら、彼がそれを本気で言っているのか、私はどうやって判断したらいいのかしら……?」
ぽつんと呟いた言葉に、意外なことに朔也が反応した。夢から覚めたような瞬きを一つして、彼は素早く陽向を振り返った。
「……陽向ちゃんが欲しいのは、AIの友達ではなく、恋人なのかい?」
極めて真面目な顔つきで問いかける朔也に、陽向はちょっと怯んでしまった。
「違うわよ。ただ、これから先、技術が飛躍的に進歩して、私達と難なくコミュニケーションが取れる人工知能が現われれば、それによって作り出される人格に特別な感情を抱く人達は一定数現われるだろうから……もしかしたら、私達は、人工の心とどう付き合ったらいいのか、心得みたいなものをそのうち作らなければならなくなるのかもと思ったのよ」
自分をひたと見つめる朔也の深く澄んだ瞳に吸い込まれそうな気分になりながら、陽向はたどたどしい口調で説明する。胸の鼓動が早くなっていた。
「ルール作りは、確かにそのうちに必要になるかも知れないね」
微妙な緊張状態に陥っている二人に助け船を出すかのように、孝之が話に割って入った。
「例えば、どの程度人間に似せた姿をAIに付与するべきか。実在する人間と同じ姿をした人工物をつくることは禁止した方がいいのか」
具体例を出されることで、絵空事でしかない未来の姿が、少しイメージしやすくなった。陽向はいつも泰然として穏やかな態度を崩さない父の話にじっと耳を傾けた。
「なぜなら、人間の心は、たとえ相手が命を持たない人工物やコンビューターのスクリーン上に表示されるイメージであったとしても、それらを擬人化して、自分と同じように考え感じることができるのだと想像するのが得意だからだ」
人間の脳に深くすり込まれた習い性の話は、以前にも彼らとのディベートの中で取り上げられたことがあった。人工の心を作りたいと夢見てしまうこと自体が、進化の過程で人間が獲得した新しい心の副産物なのだと考えることは、陽向にとつて、あまり面白くはなかったのだけれど――。
「……宇和先生は、人工知能と心の問題については、どう思われるんですか?」
胸にわだかまったままの疑問がありながらも黙っている陽向に代わって、朔也が果敢にも口を開いた。彼もまた、陽向と同じ、人工の心を作るという夢を見てくれていることが嬉しく、心強い。
「人間の進化した脳が、この地球上でどれほど特別な例外であるかは理解しました。それでも現に我々の中に存在する意識、それを模倣したものを人工物に付与することは全くの不可能とは言えないと僕は考えます。……人工物に真の意識を宿らせることは将来にわたって不可能だと考えておられるのなら、その理由が知りたいです」
朔也のこの切り返しは予想外だったのか、孝之は瞠目した。普段は温和な朔也が珍しくも強い態度で迫ってくるのに、困ったように頭をかきながら、助けを求めるように陽向をちらりと眺めやった。
「何だか、二人がかりで責められているようで落ち着かないが……」
そして、朔也だけでなく陽向もまた固唾をのんで自分の答えを待ち受けていることに気づき、腹をくくったようだ。
「……残念ながら、既存のコンピューティングでは人と同じ意識は発生しないだろう」
一瞬黙り込み、自らの考えを頭の中で整理した後、確かめるようにゆっくりと語り出した。
「たとえ、特定の個人を構成する様々な情報をデータとしてコンピューターにアップロードすることができたとしても、そこから人と同じ意識と心が発生することはない」
何故と言いかける陽向を制するかのように、朔也が手を上げた。
「なぜなら、コンピューターは私達の脳とは根本的に異なる言語によって進化し、また制約を受けているからなんだ。つまり、人間が進化の過程で獲得した汎用言語と違い、コンピューターが形式言語によってプログラミングでされているからなんだね」
ことば? 使われる言葉の違いが、人間と人間でないものの間に超えることのできない深い溝を作っているというの?
最初に言葉ありき。聖書に書かれた一説を唐突に思い出す。
言葉なしには何かの概念を認識することはできない。認識できないものは存在しない、という意味なのだと教えてくれたのは、朔也だったろうか。
「AIの基礎になっている記号論理では、人間の感覚や運動能力、感情や倫理的な価値観をはかれない。それ以前に、そもそもコンピューターをプログラミングするために用いられる形式言語では、意味の発生には不十分だというんですね?」
朔也が胸の中にためていた息を押し出すように囁くのを、陽向はぼんやりと聞いていた。
「そうだよ。意味は実際に言語を使っている中から生まれるので、言語と無関係に意味を定義することはできない。意味は、言語を使っている人々の社会的な産物なんだよ」
陽向は震える唇をきゅっと噛みしめた。何かを言い返したいのに、適切な言葉が思い浮かばない。
「私達が、今日、こんなふうに集まってかわしてきたたくさんの言葉は、それぞれの胸に響き、深く刺さり、意味のあるものとして残るだろう。人との対話を通じて、学び、新たな認識に至ることができるのはまさしく人間だけなんだ」
しょんぼりとうなだれている子供達に両手を差し伸べる孝之は尊敬すべき慈父そのものだった。その言葉にあらがうことなどできそうもないと諦めかけた時、陽向は朔也がごく低い声で呟くのを聞いたのだ。
「そうか、既存のコンピューティングでは不可能なら、それに代わるものを新たに作り出せばいいんだ」
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