第三章 コギト・エルゴ・スム 二

 人工知能が一方的に人間達に語りかけるという嵐のような数分間が過ぎ、sakuyaは現れた時と同様、唐突に姿を消した。

 初めて彼と接した巧望の受けたショックが大きかったからだ。彼は、双子の兄の幽霊に相対しているかのように真っ青になって、陽向に相手に振るっていた饒舌は凍り付いたまま、顔を背けることもできずにsakuyaが話し続けるのをただ見守っていた。

 陽向にとっては一緒に暮らしている間にすっかり当たり前になってしまったsakuyaだが、人間に与えるインパクトはかくも大きいのだ。 

 巧望は手を額に押し当てて、憔悴しきったように、ぐったりと椅子の背に寄りかかっている。

「大丈夫、巧望さん……?」

 陽向が心配そうに声をかけると、巧望はやっと顔を上げて、陽向をまともに見てくれた。

「君を疑ってすまなかった、陽向」

 開口一番に謝罪する巧望に、陽向はとんでもないというように、頭を振った。

「この家のOSが不審な動作をしているとは、本社の会議で報告にもあがっていたんだが、こんなことになっているとまでは想像できなかった。スマートホームのAIが、自らの判断で行動するなんてことは前代未聞どころか、あり得ない話だ」」

「それは……そうでしょうね」

 陽向はためらいがちに頷く。

「実を言うと、君に黙っていたことがある」

 こんなふうに切り出されて、陽向は再び警戒心をかき立てられたが、それを表に出すことはしなかった。

「あなたにはきっと、私に話していないことがたくさんあるんでしょうね。それを全部話してとは言わないけれど、少しは私を信じられるようになったのなら、いいわ、聞かせてちょうだい」

 落ち着いた態度の陽向に促され、巧望も居住まいを正して、語りだした。

「兄さんの死の前後、俺はドイツのAGIショーでのデモンストレーションにかかりきりになっていた。ミュンヘンのホテルでのことだ。葬儀を終えてアメリカに戻ってきた母から電話があった。珍しく感傷的になっていた彼女を慰めてやった後、ホテルのバーに行って、一人で飲んでいた、その時、スマートフォンにメールが入ったんだ。確かめてみると、それは死んだはずの兄貴からのものだった」

「朔也さんが死んだ後に……彼のアドレスからメールが送られてきたっていうこと……?」 

 巧望は真剣な顔で頷き、スマホをいらって問題のメールの画面を開いて見せてくれた。

 確かに、そこには朔也の名前で、弟に対する短い、しかし、気遣いに溢れたメッセージが書かれていた。


『巧望はきっと、僕の死の事実を受け入れられないあまりに、他の人のように泣いて悲しむという真似はしないだろう。葬儀に参加しなかったのは、僕の遺体を見たくなかったからだよね。そんなおまえを薄情だとなじる人は多いだろうが、僕はそうは思っていないから安心してほしい。

お前とは色々あったけれど、本当は、ずっと愛していたよ。

 もしも巧望が、僕という罪を許してくれるのなら、ひとつ、頼みがある。おまえにしか、託せないことなんだ。

 どうか、近いうちに日本を訪れて、陽向に会ってやって欲しい。

 彼女はきっとお前の助けを必要とするだろう。そして、それはおまえ自身にも救いをもたらすはずだ』


 陽向は、その謎めいた文面を繰り返し読んだ後、受診された日時を確認して、スマートフォンを手で押しやるようにして巧望に返した。

「死期が近いことを知った朔也さんが、予め打っておいたメールを予約機能で後日送信できるようにしていたんでしょうよ」

 巧望を陽向に会わせたいなんて、死の前日まで一度も聞いたことはなかったから、奇妙と言えば奇妙だ。それに、朔也の言う『罪』とは一体、何のことだろう。この兄弟の間には、余人の測り知れない何かがある。

「朔也が生前に書いてよこした遺書だろうとは、俺も最初は思った。しかし、それならどうして、俺が葬儀を欠席したことを知っている?」

「あ……」

「俺は、これも君の仕業だと疑っていたんだ。一体、何の目的で兄貴を騙って、この俺とコンタクトを取ろうとするのか、出方を窺うつもりで、ずっと放置していた。そんな時に、社のサーバとデータセンターに対する不正アクセスが発覚して……ますます君に対する疑惑は深くなった。ひょっとしたら、朔也の遺した技術に対しての権利を妻の立場で要求するつもりではないかと……」

「あなたの発想って、つくづく即物的で下劣だわよね。そんなふうに会ったこともない他人をすぐに疑うということは、自分だったら同じことをするかもしれないからでしょう?」

 巧望はあいたというように、大げさに天を仰いで、額に手を置いた。

「これから、そのことについても謝るつもりでいたんだよ。君を疑って、本当にすまない……君がやったのでなければ、これも兄貴のふりをしてここにのさばっているAI、sakuyaの仕業ということだ」

「sakuyaが自分の判断で、あなたを私に会わせるために、ここに招いたというの? 何のために、そんな……」

「sakuyaを作ったのは朔也だから、その行動には兄貴の遺志が反映しているはずだ。一体、何のために、朔也はあれを作ったのか……」

 陽向の脳裏に、sakuyaの月の差さない夜空のような黒い瞳が思い出された。巧望とも違う、それは生きていた時の夫とそっくり同じものだ。

(朔也さんは、何のためにあなたを作ったのかしら)

 ここで暮らし始めて間もない頃のsakuyaとの会話を思い出していた。

(君のためだよ。こんな状態の君を一人残して行かなければならないなんて、死んでも死にきれなかった。陽向の幸せが、彼の願いだった)

 誠実そのもののsakuyaの顔を見ていると、ともすれば、信じてしまいそうだった。自分にも、まだ幸せになる資格が少しは残されているのかもしれないと――。

「朔也さんは私のために、彼を遺した……sakuyaは私の幸せを最優先事項としてプログラムされているのよ」

「君のために兄貴が遺した愛のプログラムか……なかなかロマンチックな話だな。しかし、幸せだなんて、その人の主観でしかない、あいまいなものを、人工知能が一体どうやって評価できるんだい?」

「それは、私にも分からないわ。私が知っている既存の理論では不可能なことを、sakuyaはたやすくやってのけているように見える。ここで一緒に暮らし始めて分かったのは、彼は、とても人間らしく見えるし、その振る舞いは朔也さんそのものだということだけよ」

 巧望は、面白そうに片眉を軽く跳ね上げて、陽向に追求の視線を送ってくる。

「どうやったら、そんな途方もないことが可能になるんだろうね ?」

陽向は一瞬言葉に詰まった。研究者として信じるわけにはいかない、生前の朔也が語った、ほとんど妄想のような話を恐る恐る口にしてみた。

「朔也さんは、自分の知識や技術だけじゃない、人をその人たらしめる意識――全ての記憶、感情のパターンをデータ化して、コンピューターにアップロードし、リカバリーさせることは技術的に可能だと言っていたわ。私は信じなかったけれど、sakuyaを見ていると、ひょっとしたら――」

「意識のリカバリー? まるでイーガンの作品に出てきたような話だな」

「イーガン……何……?」

「グレッグ・イーガン。ナノテクノロジー、量子論、認知科学、宇宙論、数学等、広範囲な分野を題材とした作品を書く、ハードSFの代表的作家だよ。何だよ、科学者のくせに、イーガンも知らないのか」

 もとの元気を取り戻した巧望はやっぱりちょっとむかつく奴だと再認識しながら、陽向は、天井のホログラム発生装置の脇にあるカメラの方に助けを求めるような視線を送った。すると、即座に反応があった。

「……『ぼくになること』という短編がある。頭の中に宝石と呼ばれる小型コンピューターを埋め込んで自分のバックアップを保存させるのが当たり前の世界。多くの人は脳の機能が衰え始めた30代で自身の脳を除去し、宝石のバックアップから自分をリカバリーする中で、主人公『僕』はリカバリーを受けるべきかどうか思い悩むんだ」

 どこからともなく響き渡るsakuyaの声に、陽向は微笑み、巧望はしゃきりと姿勢を正した。

「あなたは宝石なの、sakuya?」

 声だけで姿を見せなかったが、それでも巧望には相当なプレッシャーになったようで、たちまち行儀よくなってしまった彼に陽向は思わず吹き出しそうになった。 

「陽向はどうして、主人公がリカバリーを受けるべきか悩んだんだと思う?」

 ざっと説明された筋書きから主人公の気持ちを想像しながら、陽向は答えた。

「自分の脳を除去されたら、人はまず死ぬわよね。たとえリカバリーされたとしても、バックアップされた意識は、本当に自分のものなのか、確信が持てなかったらではないかしら……?」

  自ら放ったその言葉は、池に投げ込まれた小石のように、陽向の胸をざわつかせた。朔也が自らの意識をアップロードさせることに成功したとしても、それは本当に彼のものなのか。

 不安に駆られて視線を泳がせると、自分たちのやりとりを興味深そうに見守っていた巧望と目が合った。

「どうしたの、巧望さん?」

「いや、僕が今目の当たりにしたことを社の人間に話しても、なかなか信じてもらえないだろうなと思っていたんだ。全く、sakuyaには驚嘆するよ、彼を作り出した兄さんは、やっぱり天才だったんだな」

 その口調に苦いものが混じっていたよう感じたのは、陽向の気のせいだろうか。巧望は遠い目をしてしばしどこかに思いを飛ばした後、改めて、陽向に向かって切り出した。

「いいか、陽向、我が社の作ったスマートホームは日本ではまだ実験段階でも、アメリカでは既に主要都市での販売数を着実に伸ばしている。しかし、edenシステムを搭載した他のスマートホームで、バトラーやセクレタリーが同様の自己表現をしたという報告は今のところなされていない。朔也が生前にOSの書き換えをおこなった結果、このスマートホームの汎用型人工知能に何かが起こった」

 巧望は気持ちを落ち着かせるために深呼吸して、陽向に向かって、重大な事実を打ち明けるような重々しい口調で言った。

「今まで汎用型を標榜して発表されたAIはどれもが与えられた指示に従うことしかできない特化型のものの範疇を出ていない。sakuyaが与えられた命令をただこなすのではなく、人間のようにどんな条件下でも柔軟に自ら考えて行動できるのなら、sakuyaは完璧な汎用型人工知能だということになる」

 自分で語っているうちに、募ってくる興奮を抑えきれない巧望を見て、これがどんなにすごいことなのか、陽向も今更ながら気がついた。

陽向の研究室のマスコットのRUIやREDAとは似ても似つかない。sakuyaは人間のように自然な思考ができ、それゆえ予測不能の行動をする。それは、陽向が子供時代に夢見ていた、人間の友ともなれる人工の心に不可欠な要素だ。陽向には一生かかっても作れそうにないものを、朔也が完成して、遺していった。

その考えに、しかし、陽向は素直に飲み下せないものを覚えた。久藤朔也が天才だとしても、こんなに短時間で完成できるはずがない。そうだ、どうして、一度も科学者らしい目でsakuyaをチェックしようとしなかったのだろう。

「sakuyaをテストする必要があるわ」 

 sakuyaと親密になりすぎて、これまで科学者の視点で評価できていなかった。sakuyaがシンギュラリティと呼べる真の汎用型人工知能なのか、そこに意識は――朔也の心はアップロードされているのか確かめたい。

「ねえ、巧望さん、協力してちょうだい。私には、客観的にsakuyaを評価できる手段が必要なの」

「テスト……ああ、そうだな、sakuyaの能力がどこまでのものなのか、その安全性も含めて、確かに必要だな」

巧望はちょっと意表を突かれたような顔をしていたが、すぐに、陽向の話に乗り気になった。

「俺だって、兄貴の遺した大変な発明であるsakuyaを我が社の次の商品として、活かしたいからね。そのためなら、どんな協力も援助も惜しまないさ」

 巧望は、陽向とは根本的に異なる価値観の持ち主のようだ。そのことに苛立って、陽向は思わず感情的に叫んだ。

「sakuyaは商品じゃないわ! 朔也さんが私に遺してくれたものよ。私達の家のことを勝手にどうこうしようとしないで――」

そこまで言いかけて、陽向は、自分は被験者としてこの家に実験的に入居しているに過ぎないことを思いだした。

もしも、これが契約外の事態と判断されたら、ここを追い出されるのではないか。sakuyaを取り上げられるのではないか。

そんな不安が伝わったのだろうか、巧望はビジネスマンとしての冷たい顔はやめて、親身な口調で語りかけてきた。

「陽向、俺も子供の頃は、人間のような心を持つAIを作りたいと夢見たことがあったんだよ。兄貴から聞いてないか?」 

 テーブルの上でぎゅっと握りしめられた陽向の手にそっと自らの手を重ね、かき口説くように囁く。

「それは……随分昔に、聞いたような気もするけれど――」

 巧望の顔が、ぱっと輝く。朔也はこんなふうに喜びをあからさまに出さなかったから、どんなふうに反応したらいいのか、陽向はちょっと困ってしまった。

「起業してビジネスのことばかり考えるようになってからは、人間らしく振る舞ってみせることができれば、心なんか別になくったっていいと思うようになっていたが、それでも、sakuyaを見ていると、純粋に好奇心をかき立てられるし、久しぶりにわくわくするんだ」

 屈託なく笑う巧望は、子供のようなキラキラした目をしていて、まだ完全に信じ切れないでいる陽向も、その言葉だけは真実だと感じるのだった。


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