百合短編集 甘め

詩乃

また来る明日のために

天を仰いで目を覚ます。仰向けで眠る私は365日それを繰り返している。けれど、どこで眠るかはバラバラだ。自宅のベット、友達の家のソファ、宿の布団・・・

ぱちっと目を開ける。今日は知らない天井だ。もちろん病室ではなく、ありふれたアパートの一室の白い天井なようだった。

まだ完全に覚醒していない意識でぼんやり感じ取った、やわらかな感触の元を辿ると、左手の指に誰かの指が絡み付いていた。

頭が重く、鈍く痛む。その痛みが、昨日は相当飲んだようだと知らせてくれた。


こんなことはよくあることだ。知らない人の家や、どこかのホテルの一室で目を覚ます。

友人に、まるで根無し草のようだと言われたことがある。ふらふらと、気まぐれに行動してしまうからだ。自宅のこともどこか仮住まいのように感じている私には、どこで眠るかはあまり重要なことではなかった。極端な話、寝られるスペースがあって雨風がしのげれば良いと思っていた。


起き上がって水を飲みたい。けれど、振り解こうにもツタのように絡みついた女の指先は、まるで自分の指先と一体化してしまったかのように外れそうになかった。

仕方がないので、右手で相手の身体をゆすって起こす。女の髪は長く明るめの茶色がカーテンの隙間からもれた光できらりと透けて見え、毛先はゆるくパーマがかかりウェーブしている。目を閉じていても整っていることがわかる顔立ちで、すっとのびた鼻筋にまっすぐと朝日がさしていた。


女はみじろぎし、呻きながら目を覚ました。彼女は「おはよう」と寝起きの眠たげな声で言って、繋いでいた指をするりと解き、自分の髪を手櫛で梳かした。

私は頭の痛さにおでこを手で押さえながら「おはよう」を返す。

記憶は完全に無くしてはいないが、うっすらとベールがかかったように輪郭が曖昧だ。

昨日は、結婚式に出席して、飲み直そうと二丁目に行って、それから・・・


あ、と思い出したように彼女が叫ぶ。

「お腹減ってない?朝ごはんでも食べよう。ちょっと待っててね」

慌ただしくキッチンの方向へ向かいかけた彼女に、名前は、と尋ねる。

彼女はふわふわの髪を揺らしながら振り返って、スズ、と言った。

スズは、わたしは覚えてるよ、優、と私の名前を呼んだ。


スズは、頭痛い?昨日あれだけ飲んでたもんね、とリビングの片隅にある薬箱から頭痛薬と、キッチンから水の入ったコップをてきぱきと用意して、私に薬を飲ませてくれた。なんだか、風邪で寝込んだ時に世話をしてくれる母親のようだ。そんな風に優しくされるのは久々で、知らない人の家で張っていた気持ちの糸が緩んだ。自分の服装を見ると、白地にイチゴの柄が入ったパジャマを借りたようで着ていた。もこもこしていて着心地が良く、柔軟剤のいい香りがした。


勝手にテーブルの上のリモコンを操作してテレビをつけると、ちょうど天気予報で雨が夜まで降り続くと伝えていた。

「オムレツにチーズ入れるー?」

キッチンからの問いかけに「お願いします」と答えて、ぼんやり待つ。窓際に、小さな多肉植物の鉢植えが置いてある。ふっくらとしていて可愛らしく、きちんと手入れされている。部屋の雰囲気も、シンプルだけれど可愛らしい印象だ。自分の家にはないカレンダーが、ちゃんと壁にかかっている。

スズは小走りで、トーストした食パンと、オムレツと、カップスープを持って木製のローテーブルに並べてくれた。人が用意してくれた食事を食べるというのも、一人暮らしの生活が長いとなかなかなく、あたたかな気持ちになる。食べながら、何を話したら良いのかわからず、しばらく口に物を運ぶ動作だけをただ続けていた。黙々とオムレツを口に運んでいると、スズが口を開いた。


「昨日のこと、覚えてる?」

「ぼんやりとは」

そう、本当にぼんやりとなのだ。結婚式のためにめずらしくワンピースを着て髪もセットした状態で、二丁目のいつも行くバーに入った。お気に入りの、ゆっくりすごせるお店だ。そこで飲んでいると、隣の席に彼女がやってきたのだった。何か、熱く語り合った気がする。でも、だいぶアルコールがまわっていて、どういう話をしたのかという肝心な部分には鍵がかかっていて開けない。

スズは、「昨日あったことを一から説明するのも、なんだか違う気がする」

「もう一回、最初から自己紹介をしよう」と言ってから、またスープを一口飲んだ。


スズの本名は涼川明音で、スズは学生時代からのあだ名なこと。仕事は家具メーカーの事務職を3年やっていること。実家で飼っているポメラニアンのナナを溺愛していること。年齢は25歳で、昨日2丁目に初めて行ったこと、そこで私と会ったことなどを教えてくれた。

私も自己紹介をした。本名は佐々木優子。でも優子という名前の響きがあまり好きではなくて、普段も優と呼ばれていること。仕事はWebデザイナーで、一応ちゃんと働いていること。年齢はスズの3つ上。

スズは、まさか人を家に連れ帰るなんて、そんなことになるとは思わなかったけどね、と言って「人生何があるかわからないね」と笑った。スズは見た感じの印象は垢抜けてはいるがチャラくはまったくなく、口調が落ち着いていて年齢よりも大人びて見えた。ガードの堅そうな、真面目な雰囲気の子だ。

私はと言えば、その場のノリや雰囲気に流されて、勢いで行動しがちだった。だから、私がスズの家に来たのは、酔っていたからとはいえ想定外の流れではなかった。

「なんで初対面の私を家にあげてくれたの?」

スズはうーんと一言唸って、ゆっくり言葉を選ぶように喋った。

「あ、連れて帰らないといけないんだな、って直感でわかったから」

私の目をまっすぐと見て、そう言った。


◆◇


女の子が好き。一度も自分の口から出したことのない言葉だった。

それは本当のことなはずなのに、口から出さないでいると弱い炎が消えてしまいそうだった。その炎を消したくないという気持ちに背中を押されるようにして、その日私は初めてレズビアンの人たちが集まるバーの扉を開いた。

バーというもの自体、普段行くことがないので緊張した。チャージ料という言葉を初めて知った。ネットの書き込みやHPをチェックして、なるべく明るく広い落ち着いていそうなお店を選んだ。重い扉を開き、漫画や占いの本が並んだカウンター席にぎこちない動きで腰をかける。目が合ったお店のお姉さんは、室内なのに帽子を被っていた。

座った席の隣の人は、底の方に少しビールが残ったグラスをぐいっとあおって「おんなじの」とお店のお姉さんに言った。それが、優だった。

新しいビールのグラスがやってくると、ごくごくと2,3口飲み、私の方に向いて「お姉さんは何飲むの?」と聞いた。すでに少し酔っぱらっているようだ。失礼な感じではないが初対面にしては距離感が近く感じ、一瞬身構える。けれど、知らないだけでこういう文化の場所なのかもしれない、とも思う。みんなに同じ、大きな共通点があるから、壁がない場所。私は、お姉さんに「シャンディガフをお願いします」と言った後、はじめて来たんです。とその人に伝えた。

そこからはお互いに軽く名前など自己紹介をして、乾杯をした。偶然に隣合った人と喋るというのは、普段の生活でないことなので新鮮だ。本当は、電車で隣り合った人とも雑談が出来る世界のほうが生きやすそうだとも思う。

はじめて来たきっかけを、誰にも女の子を好きだって言ったことなくて、と話すと「じゃあ女の子と恋と愛の話をしよう」と言って、優はふにゃっと笑った。笑い方が気が抜けていて

、さっき身構えていた身体の緊張がほぐれる。

優は、私もさっきまで、すごくすごく好きだった女の子の結婚式に行ってきたんだ、と教えてくれた。すかさずそれを聞いていたカウンターの中のお姉さんが、それでちょっと荒れてるのよこの子、いつもこんなに飲まないのに、と茶々を入れてきた。

優は、スマートフォンを取り出して、ほら、と綺麗な花嫁姿の写真を見せてくれた。後ろ姿で、とても痩せていてシュッとした印象の人だった。お色直しの後でね、薄くて海の色というよりは澄んだ空の色に近い、この青色がすごく似合ってて。私は気持ちの整理はだいぶついてたと思ってたのに、嬉しいのと悲しいのとがないまぜになって、久しぶりに人前で泣いちゃったよ。はたから見たら、友達思いの友人にしか見えないんだろうけどね。と言って、肩をすぼめて寂しそうにひっそりと笑った。

優は、その子のどういうところが好きだったか語った。観光地に遊びに行ったとき、興味のある場所にどんどん足早に向かっていき、置いていかれかけたこと。そうやって好きなものにまっしぐらな背中をよく見ていたこと。文芸部に入っていて、自分の書いた作品の登場人物を、まるで大切な友人かのように扱っていたこと。唇の左上にあるほくろ。とめどなく湧き出て、止まる様子はない。

愛や恋を語る機会も場所も無かった私は、熱っぽい瞳でひたすらに好きだった子について語る優が、暗い店内で眩しく照らされて見えた。私は、恋愛については生まれたばかりの赤ちゃんとあまり差がないと言っても過言ではない。まだ、恋愛という概念を知っているだけ、新生児よりは大人に近いのかもしれないけれど。

そんなまっさらな私の内側に、優の瞳から熱が伝播し小さな火が灯るのを感じた。


優は、ビールをまたおかわりして、ずっと飲んでいた。ペースが早いような気がする。

「スズはどういう人が好き?」

聞かれてもわからなかったし、こういう質問にどう答えるのが正解なのかも知らなかった。優のように実在する好きな人がいたわけでもない。ただ、自然と女性に目が向いている自分に気付いただけだ。本当にあるのかわからない母性に焦がれて、女性の精神性を神格化しているのかもしれなかった。何か大きいものに包まれたい、それが自分にとって男性ではないというのははっきりとしていた。

わからないんだよね、あんまり考えてこなかったから。正直に答えると、優は、これからこれから、これからが長いんだから、と言って、私の肩を軽くはたいた。


その後割とすぐに、案の定だけれど優が酔い潰れてしまった。意識はあるし歩ける程度だけれど、反応が極端に鈍くなって一人で歩くのはきつそうなくらいにはできあがっていた。このまま放置することは出来ないな、と私は思った。多くの人がそうされているように、タクシーやネットカフェに放り込んでも良かったのかもしれない。けれど、私は優を自宅まで連れて帰ることにした。たぶん、このままさようならしたら、一生交わることはないんだろう、と直感的に思ったからだ。それは避けたい、という気持ちが芽生えていたから、連れ帰るという選択をしたんだろうと、今ならわかる。

幸いにも、自宅まではタクシーで帰れる距離だ。優の肩を抱き、タクシープールの行列の後ろに並んだ。夜の闇に溶けてしまいそうな黒い車体が何台もぐるぐると周り続け、乗客を乗せて四方八方に散っていく。その様を見続けていると、現実感が遠のいていき時間や場所の感覚が徐々になくなっていった。そんな途方もない感覚の中に放り出された私は、右肩に生暖かくずっしりとした人間の重みを受けながら立ち呆けていた。


◇◆


解散か、解散じゃないか。

一緒の布団で眠って、夜から朝になった。気が合ったというのはもちろんあるだろう、けれどお酒の影響も多分にある。だから、ここで別れて、元の他人へと戻るという選択肢もある。

そんなことを考えながら、借りたパジャマを脱いで、昨日の服に着替える。脱いだ服も自分なら適当に畳むはずだが、きちんと端をと端を合わせて畳まれたそれは、タンスの上に佇んでいた。

スズは、食べ終わった食事の食器を洗いながら

「お互い休みだし、のんびり一日一緒に過ごさない?」

と、当たり前のように提案した。ここで終わりか、そうじゃないか。そういう選択肢自体が、スズにはないようだった。


食後のコーヒーを淹れてもらい、他愛もない話をした。スズの愛犬の写真を見せてもらったり、自分の仕事の話を少ししたりと、着地点のないお喋りを楽しんだ。話していないことの方が圧倒的に多いから、話題は途切れることがなかった。

お昼ご飯は近所のおそば屋さんに食べに行った。外は雨がぱらぱらと降り、湿気でじめじめと暑かったけれど、あったかいおそばの方が好きだから、とスズはあったかいたぬきそばをふぅふぅいいながら啜っていた。私は、ざるそばを食べた。


帰ってきてから部屋にあった映画を観た。

一作見たことがある監督の作品があったので、食いついて見せてもらった。

インド映画で、突然踊り出して陽気だけれど、社会問題にも切り込んだシリアスなシーンもあり、見応えのある映画だ。私はのめり込んで見て、スズは一度以上見ただろうに何度も

笑いながら見ていた。気分を出そうと言ってコンビニで買ってきたポップコーンは、あっという間になくなってしまった。


絵に描いたように平和な一日で、現実ではないみたいだった。スズは昨日が初対面だということを忘れるくらいに、一緒に居て楽だった。すごく話が盛り上がってしかたがない、という感じではない。爆発的な花火のような楽しさでなくて、しみじみとあたたかい日向にいるような心地よさだ。一言で言えば収まりが良いと言った感じで、お互いがお互いの居心地のいい距離感にすとんと収まっていた。こういうこともあるんだ、と突然降って湧いた不思議な巡り合わせに、まだ実感がついてきておらず置き去りにされている気持ちだった。


明日があるしね、と2人で言って、夕方にはばいばいした。

最寄り駅まで見送ってくれ、やっとこのタイミングで連絡先を交換した。スズのアイコンはやっぱり愛犬の写真だった。

スズはおかしそうに笑いながら、ふざけて両手を広げたけれど、さすがに飛び込むのは恥ずかしすぎて、その両手に思い切りハイタッチして、改札を抜けた。振り返ると、もうスズの姿はなかった。


一人で電車に乗り、いつもの風景に戻ってくると、さっきまでスズと一緒にいた時間が現実のものだったのか、確証が持てなくなってくる。電車に揺られながら、今日一日あったことの輪郭を必死になぞり続けた。

スズの駅から私の最寄り駅へは50分くらいで帰ることが出来た。駅の近くのスーパーで食材を調達して帰ろうと足を向ける。

他に買うものはあるか、考えていて、そうだ、目覚まし時計を買って帰ろう、と脈絡もなくそう思った。新しい朝を迎える準備は、夜のうちにしておかなければ。出来るだけシンプルで、機能があまりついていないものにしよう。絵に描いたようなベタな見た目の目覚まし時計でもいいな、と想像を膨らませる。

本当は目覚まし時計が欲しい訳じゃなく、規則正しい生活が欲しいだけだ。形から入るタイプだから、と自分に言い訳をする。朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、また同じ時間に起きるために眠る生活。それはとても退屈な生活かもしれない。けれど、それも案外いいのかもしれない。もし、彼女がまた朝を共に迎えてくれるならば。

変わりたい、変われるかもしれない、という気持ちを胸に、街灯がきらめく商店街を足早に進んだ。

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