百合短編集 苦め

詩乃

最後の晩餐

がらんとしたリビングの中心で、二人掛けの椅子とテーブルだけが照明に照らされて存在感を放っている。無数の段ボール箱たちに囲まれながら、その無垢のテーブルへ、料理の乗った器を黙々と並べていく。

今日は最後の晩餐。私は明日、ここを出ていく。そして、出て行くのは彼女もだ。

ただいま。ドアの開く音と彼女の声がして、わたしは真っすぐと玄関の方を向く。

パンツスーツ姿の彼女が、壁に手をついてパンプスを脱いでいた。この姿を見るのも、今日で最後なのか、とぼんやりした頭で思う。


「私たち、そろそろ終わりにしよう」

そんなドラマでしか聞かないような台詞で、はっきりと切り出してきたのは沙織の方だった。それまでの会話の中から、遠からずこの日が来るような気がしていた。なので、表面上は目を丸くしびっくりした態度を取っていたものの、内心はあまり驚かなかった。そんな自分を斜め上から見ているような気分でさえいた。

「・・・由香は、どうする。実家に戻る?」

うん、そうだね、と答える。何か、もっと話すことがあるはずだとは思うけれど、でもこうなった以上、そんなことを今更話す必要もない気がした。てきぱきと業務的な会話をしようとする彼女の態度は一見ドライにも見えるが、デリケートな部分に触れて私に傷をつけまいとする優しさなのかもしれなかった。


私は女性が恋愛対象ではない。その本質は沙織と付き合った今でも変わっていないと思う。沙織は女性というよりも沙織という存在で、自分にとって別枠の存在だった。

もともと、男性も好きかと聞かれると微妙だった。恋愛自体にそこまで関心があるわけでもなかった私は、恋愛モノのドラマや漫画も別世界の物語のようで、あまりのめり込むことが出来なかった。没頭する趣味などもなかったため、自分はあまり1つのものに熱を上げるタイプではないと思っていた。なので、沙織を好きになったのは、自分としてはある種のエラーだ。

沙織に対する自分の感情が他の人に向く感情とは違うものだと気付いてからも、それはただのありふれた憧れだと思った。かっこいい、一個上のサークルの先輩。


サークルの説明会でブースに座っていた沙織は、目が細く釣り目で、黒いアイラインを長く引いた目が印象的だった。ちょっと怖そうかな、と思ったが、私と目が合うとにこっと笑いかけてくれ、優しそうな人だな、という印象に瞬時に塗り替えられた。

髪型は前下がりのショートで、首の後ろ側を少し刈り上げていて、とても似合ってかっこよかった。自分は茶髪のロングで、真逆だから真似したいとは思わなかったけれど。気付くとちらちらと見ていて、目で追っていた。

同じサークルに入ったのは、サークルへの興味もあったが、半分以上は沙織と仲良くなりたかったからだ。今思うと、下心とも気付けていない下心だった。しかも、沙織と仲良くなってから、バイトと学業の掛け持ちで手いっぱいになった私は、入って半年も経たずサークルをやめていた。

沙織は部室でよくレポートをやっていて、それはあまり部室が使われていないサークルだったからなのだけど、それを早い段階で知った私はよく部室に顔を出し、一緒に勉強をしながら意味もなくお喋りをしてもらった。沙織は邪魔をする私に嫌な顔ひとつせずに、レポートの手を止め他愛もないお喋りに付き合ってくれた。その時よく食べていたメロンパンを、いつも3分の1くらいの大きさにちぎってわけてくれ、一緒に食べた。餌付けされてる、と言うと、そうそう、生き物の世話するの得意だから、と言ってにっと笑った。


あの夜を思い出す。何もなかったといえばなかったとも言える、けれど決定的にただの先輩後輩ではなくなった日。

サークル終わりの飲み会、大衆居酒屋から酔っぱらった大学生の群れが、二次会のカラオケへ雪崩れ込む。絵に描いたように定番で、至る所で繰り広げられているであろう流れだったけれど、新入生の私には刺激的だった。

飲酒したところでおとがめないものだとわかってはいたけれど、プラスチックのコップで律儀に薄いウーロン茶を飲んでいた。視線を感じる。しっかりと視線が顔に当たる感触があった。ゆっくり顔を上げると、目線が合う。沙織は周囲の雰囲気に合わせた態度を取りながらも、目だけが場違いなほど真剣で、こちらを見つめていた。かち合った視線から熱を注ぎ込まれるような力強さで見つめられる。何故だろう、何故そんな目で私を見るのだろう、と思ったけれど、徐々に自分の中に入り込んできた熱に浮かされていき、そんなことはどうでもよくなっていった。

他の人がカラオケに夢中になっている一瞬、誰も私たちを見つめていない瞬間、私たちはこっそり見つめ合った。なんの曲が流れているのかわからなくなり、自分が今どこに立っているのかも忘れていき、そこは深夜2時を回った安く薄汚れたカラオケボックスではなくなった。

何故あの時あんなに見つめて来たのか。しばらく経ってから直接聞いてみたことがある。

沙織は、見つめようと思って見つめた訳じゃないんだよ。自分でもわからないんだけれど、惹きつけられて目が離せなかった。と言い、真面目な顔で私の目をのぞき込んだ。私は照れてしまって、恥ずかしさを誤魔化すように笑った。


一緒に暮らそう。沙織からそう言われた時は、びっくりしすぎて嬉しいという感情が追いつくまでに時間がかかった。

月に数回は2人で遊びに行くようになり、友達とは明らかに違う空気が2人の間に漂っていた時期。表情はクールに見えるのに、そこだけ浮いたように温度の違う真剣な目が「わかるでしょ」と言っているようだった。

これは「付き合おう」と同義なのかな、と思いながら、「はい」と答えた。

女性と付き合ったことはなかったけれど、沙織は恋人だったら絶対にいいだろうな、と思える相手だった。出で立ちや立ち振る舞いがスマートで、人としてかっこいい沙織。相手をかっこいいと思うのに、自分の性別は関係ない気がした。事実、沙織にただの先輩や友人とは違う種類の好意を持っていることは、自分の中でもう否定のしようがない事実だった。沙織がもともと一人で暮らしていた古いけれど広めのアパートに、転がり込むようにして同棲が始まった。


一緒に暮らし始めてから初めて行ったデートは水族館だった。リニューアルされた水族館をテレビで見て、行きたいと私から誘った。子どもの頃家族と行ったときは古くて人もまばらだったけれど、久々に行ったその水族館は格段にきれいになり、完全に過去の思い出の面影は消え去っていた。カップルや家族連れがひしめく人並を縫うようにして、手を繋ぎ2人で魚を眺めた。沙織の細く長い指の骨張った感触が、指に心地よかった。

沙織は、南国のカラフルな魚たちが入り乱れている水槽を前にして「キャンディみたいだね。美味しそう」と言った。その時の彼女の口調が、幼稚園児のように純粋な響きだったので、とても神聖なものを見ている気分になった。

私がシロクマ好きなのでわくわくして水槽まで行くと、おしりを向けていてあまり良いポーズは見られなかった。残念だったね、でもお尻も可愛いね、と言い合いながら、お土産屋さんでシロクマのぬいぐるみを2つ買って帰った。目をつぶっていて、両手で抱きかかえられるくらいのサイズ感の、おおきなシロクマだ。私たちは帰りの電車で、そのぬいぐるみもろともぎゅうぎゅうに押しつぶされた。シロクマたちは私たちの布団の側で、2匹寄り添ってすやすやと眠っていた。


あのシロクマは、名前もなくてどちらのシロクマがどちらのものかわからなかったけれど、片方のシロクマを自分の家に送る段ボールに詰めながら「これはきっと沙織の方のシロクマだ」と思った。彼女のシロクマを私は持って行こうと信じ込んだ。

物がすべてダンボールに仕舞われた部屋は、がらんとして、ついこのあいだまでこの部屋に充満していた2人の生活の痕跡まで片付けられてしまったようだ。リビングに物がないぶん、思い出だけが浮かび上がってくるようで、なんだかいたたまれない気持ちになり、近くにあった椅子に腰掛けた。


年上だからなのか単に性格からなのか、普段沙織はあまり弱みを見せようとしなかった。どこか無理をしているんじゃないかと心配になったけれど、どう声をかけていいのかわからなかった。

そんな沙織も、飲み会帰りの酔った状態では、いつも出さないような声を出し猫のようにすり寄って甘えてきた。沙織はウィスキーが好きで、度数の高いそれを家でもよくロックで飲んでいたし、一度も潰れたのを見たことがない。だから、本当はお酒には強いはずで、飲み会帰りの甘えは酔っていることをただ口実にしているだけなのかもしれなかった。

由香ぁ、と、語尾を伸ばして名前を呼ぶ。普段とのギャップに、胸がじりじりと焦げる。私はより近い距離で彼女に触れたくなって、パジャマのボタンを外してから抱きつく。身体のなだからなカーブが重なり合い、肌が密着してお互いの熱が境界線を溶かしていく。彼女と肌を合わせるとリラックスして落ち着いていく。腕の中でもぞもぞとしていた沙織がうぅーと低い声で唸る。獣のようにもただをこねる子どものようにも見える。

「由香は普通の子なんだから、私から解放してあげないと…」

脈絡もなく、口から言葉がこぼれ出た。私に向かって言っているようで、言い含めるような口調は自分自身に言い聞かせているようだった。


私は今月で大学を卒業して、就職をする。就職先はここからより、実家からの方が近い位置にある。けれど、私はここから引っ越す気はなかったし、このまま沙織との暮らしが続いていくのだと、疑うこともなく信じ切っていた。けれど、その言葉に身体が貫かれる。「普通の子」。それが恋愛対象のことを指していることは汲み取れた。

男性と結婚して生きていくのだろうと、恋愛もしたことがないのに漠然と思い描いていた中高時代を思い出す。現在はそんな未来を思い描くことはほとんどなくなっていた。しかし、沙織と一生一緒に生きていくイメージも、思い描けずにいたのは確かだった。結婚という形が取れないから、どこに向かって進んでいけばいいのかという想像が出来ないままでいた。

私はこのまま彼女の側にいていいのだろうか。好きだけで一緒に居て、一緒に生きていっていいのだろうか?彼女に不安や重荷を背負わせているのではないか。もっと彼女にはふさわしい相手がいるのではないか、その人との出会いを自分が潰してしまっていないだろうか・・・

お酒の匂いのする彼女は、眠そうに瞼をぱしぱしとさせている。きっと今言った言葉を明日の朝には忘れてしまうだろう。心の底で思っているだけで、あまり意識に上がっていない言葉なのかもしれない。

自分の意に反することでも、彼女の心にわだかまりの残る選択をさせたくないと漠然と思っていた。彼女の思いを受け入れて、お別れした方がお互いのためなのだろうか。行き場のない思いが胸に充満し、心を圧迫する。どうしたらいいか、心細い気持ちになり、腕の中の彼女の存在を確かめるようにぎゅうときつく抱きしめる。


■□■□■□


脱いだパンプスをきっちりと玄関に揃えてから沙織は、再びただいまとまっすぐに通る声で告げた。

食事は沙織の帰宅に合わせて私がこしらえた。よく作って飲んでいた野菜たっぷりのコンソメスープや、沙織の好きなラタトゥイユなどを作った。沙織は私の好きな唐揚げを、帰りの駅ナカのデリで買ってきてくれて、テーブルに袋ごと載せた。

繰り返し囲んだ食卓。一緒に食べてお互いの身体になっていった料理。お互いの好物ばかりが並ぶ食卓は、いつもならとても嬉しいものだけれど、今日ははっきりと寂しく目に映った。何を話したらいいかわからない。無言のままカチャカチャと食器とスプーンが当たる音が、いやに耳に響く。自分でも気付かないうちに、器に溜まっていった感情が溢れ出した。


「あたし、やっぱり、これで終わりには出来ないよ…」

楽しいこともそうでないものも、いろいろな記憶が滴に乗って顔からこぼれ落ち、両手で受け止めようとするが、すり抜けてテーブルにぼたぼたと落ちていく。

何故、好きあっているのに、離れないといけないのだろう。先のことは私にはわからない。本当は誰にだってわからない。先のことなんてどうでもいい、今目の前にいるなら、と思える相手と、何故今ここにない未来のために離れないといけないと思うのか?それは今を生きる私たち2人にとって、とてつもなく不誠実な気がした。


カーテンの取り払われた窓ガラス越しに、街の明かりがいくつもきらめいている。

そのすべてに誰かの暮らしがあるだなんて、想像するだけでくらくらする。

礼儀正しくお皿たちが並ぶテーブルの向こう側に佇む彼女は「でもきっと、この日もいつか思い出になるよ・・・」と言って、微かに微笑んだ。シンと冷え切った夜の空気ごと結晶になりそうな、そんな微笑みだった。

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