陽炎<シミオン視点>
注いだワインの気泡が細長いグラスの中で弾けていく。
「君の中で進捗はいかばかりかな? リオン」
そう尋ねれば、リオンは少しだけ目を伏せ、グラスに口を付ける。
「私が当初想定していたものとは、手順は全く異なるものの、万事上手く行っていると言えるね。
君もよくご存知の通り、イルレアナ様が女皇になる事を決意して下さったし、リンデン殿下も屈した。これで祈りを捧げる為の皇国内の準備は整った」
「……やはり、滅びの祈りは避けられぬのか?」
滅びの祈り──女神マグダレナが、己の民が侵略された時に備えて作った祈り。大陸とその周囲のマグダレナ以外の民を全て根絶やしにする、女神の怒りだ。
この大陸に住む平民──オーリーの民が、伝承の通りなら死に絶える。マグダレナの民は貴族として長きに渡って生きてきた。
今更平民のいない生活が立ち行くのだろうか。かと言ってイリダに蹂躙される訳にはいかない。
やらねばならぬ事だ。
「そうならずに済むように動いてはいるが……どうだろうね」
「勿体ぶらずに話してくれないか。これでも多くの民を抱える領主でもある。知り得る事は多ければ多い方が良い」
リオンは困ったように笑う。
「シミオン、私は予言者ではないのだから、これから起こり得る事を言い当てるのは無理だよ?」
無論だ、と答える。
だが、ほんの僅かな情報から状況を組み立て、考え得るありとあらゆるパターンから物事を必ず己に有利に運んでいく様を長い間見て来た。
リオンは非凡だ。
その才能に衝撃を受け、己の矮小さを知った。
早い段階で己の器の大きさを知れた事は良い事だった。そうでなければ、兄のような傲慢な人間になっていただろう。
エザスナ・レミ・オットー。オットー家長男であり、私と同父母から生まれた兄。
才能も容姿も備え持っていた兄は、私の下にゼファスが生まれた事で嫉妬の塊となった。
私の母は第二夫人。ゼファスの母は第一夫人。母は本来第一夫人だった。それが、母よりも皇室に血が近かったゼファスの母君が、婚約者が亡くなった為に父と結婚して第一夫人となり、母は第二夫人に繰り下がった。
ゼファスを産んだ夫人は、そのまま還らぬ人になった。母はゼファスの母が夭逝した事を、己が身を弁えぬ嫉妬をした為だと思い病み、少しずつ弱り、流行りの風邪で呆気なくこの世を去った。
ゼファスは第一夫人の子であり、血筋としても皇室に近い。血の濃さを尊ぶ公家だ。必然的にオットー家の後継者はゼファスに確定した。
兄の認識では、ゼファスは全てを奪った憎い存在だ。
嫡子としての立場と母の二つを失った兄は、ゼファスを攻撃対象と見做した。
その上、幼くともゼファスの才能と美貌はずば抜けていた。
人のいない場所で兄はゼファスを虐めた。私は父に告げ口をした。愚かな兄は告げ口をしたのがゼファスだと思ったようだった。
それによりゼファスへの虐めはより陰湿に、狡猾に隠され、激しさを増す。
私は出来る限りゼファスの側にいた。兄と二人にさせないように。直接物を申した事もある。
"ゼファスは何一つ悪くない。兄上が向ける敵意はお門違いも甚だしい"
だが、兄は止めなかった。
異常な程にゼファスに執着する兄の事を、遊学で皇都に来ていたリオンに話したのは、何か良い案があればと思ったからだ。私自身も抑うつとしたこの状況にだいぶ参っていて、藁にもすがる思いだった。
リオンは興味を抱いたようで、ゼファスに会ってみたいと言った。
ゼファスはリオンに懐いた。
リオンもゼファスを弟のように可愛がった。
エザスナはこれまでのようにゼファスと二人きりになる事が出来なくなり、目に見えてイライラし始めた。
リオンの勧めにのって、ゼファスはマグダレナ教会に入ってしまった。
これには父も驚いてリオンを責めたが、"私を責める前に己の息子を責めたらいかがですか? 母親がいないのだから、父である公が見ないでどなたが見るのですか?"と逆にやり込められていた。
ゼファスの身体には、兄によって付けられた体罰の痕が残っていた。それをリオンによって目にさせられた父は、もはや何も言わず、兄は父から酷い折檻を受けた。そしてお前には絶対に家を継がせないと申し渡されたのだ。
それから間もなく、エザスナは死んだ。自死だった。
エザスナは皇族であり、影が付いているにも関わらず。
誰が兄に危害を加えたのかと問うと、影はこう言った。
"エザスナ様を傷付けられたのは、エザスナ様ご本人です"
そんな馬鹿なと、父は何度も影に問うたが、影の答えは変わらなかった。
リオンにエザスナの死を伝えたらリオンはにっこり微笑んで言った。
"知っているよ。私の目の前でエザスナ様は己の命を絶ったのだから"
何があったのかと問う私に、リオンは首を横に振った。
"エザスナ様は取り戻したかっただけなんだよ。
それよりもシミオン、君はオットー家嫡子になるのだから、これから忙しくなるのではないの?"
リオンの言葉に驚いた。
血統的にゼファスがオットー家の正当な後継者だ。ゼファスが継がないとしても、兄がいた。私は自分が後継者になる事など、僅かにも考えた事がなかったのだ。
ゼファスに家に戻るようにいくら言っても聞かなかった。
兄が死んだのは私の所為だからと。
そうして、私はオットー家の嫡子となった。己が子を見ていなかったから起きた事だと、思いの外あっさりと父はゼファスを許した。
「リオン、あの時、兄に何が起きたのか、そろそろ教えてくれても良いのではないか?」
必死に学んだ。エザスナに劣ると言われないように。
ゼファスがいつ戻っても良いように。
「それに、あの時から君の謀は始まっていたんだろう?」
私には確信があった。
人にさして関心を抱かなかったリオンが、突然ゼファスに興味を抱いた事。
ゼファスを守り、兄が死ぬように仕組んだ事は全て、リオンの企みなのだと。
「そうだよ」
思いの外あっさりと、肯定が返って来た。
「皇宮図書館に入りたかった私は、エザスナのアンクを拝借した。知れば知る程、エザスナは邪魔でしかなくてね」
ふふふ、とリオンは笑った。私がエザスナの死を伝えた時と同じように、にっこり微笑んで。
「ゼファスの為にも、私の願いの為にも、不要な駒だった。我ながらあの頃の策は粗が多くて、今思うとよく上手くいったなと思うよ」
私はかなり早い段階からリオンの企みに加担していた。
だが、この発言から、私のまだ知らぬ事があるのが透けて見えた。
「……殺す必要はなかったのではないのか?」
「アレがいたら、君がオットー家の嫡子にならなかっただろうし、ゼファスはもっと壊れていただろう。あれでも救うのが遅すぎたぐらいだと思うよ」
「オットー家を継ぐべきはゼファスだった」
「君だから良いんだよ」
思いがけない言葉に面食らっていると、リオンはグラス越しに私を見つめた。
「君はオットー家の役割、守護者に適任な気質だ。ゼファスは優秀だけど、守護者向きでは無いからね」
……この期に及んで、リオンの考えが分からない。
「その時が来れば分かるし、シミオンにとっても悪い話ではないから、安心すると良いよ」
「その言葉、信じるぞ?」
勿論だよ、と答えてグラスのワインを口にする。
「皇国は問題無いとして、イリダの方は?」
うーん、とリオンにしては珍しい反応が返ってくる。
「ト国からの報告書にね、興味深い記述があってね」
失態を犯した燕国だけの報告を鵜呑みにしたりはしない。
イリダと交易をするのは燕国だけではないのだ。
ト国にも探らせていた。
無論、この報告はルシアンにも届いている。
入れ替わりにルシアンから届いた報告書を見比べて、リオンはこの反応なのだ。
「まだ分からない事が多いと言う事か?」
「ルシアンが潜入して来たオーリーから聞き出した内容と、燕国からの報告、ト国からの報告に基本的に矛盾はない。イリダやオーリーの構造は大筋掴めてきているよ。
ただね」
そこでリオンは言葉を切った。
「オメテオトルと言う名の王族は存在しない」
……どういう事だ……?
ルシアンからの報告書では、オーリーの間者達はオメテオトルに命じられた者が少なからずいた。
それなのに、そのような名前の王族はいない?
「隠された王族とか、本当は上級国民だったとか、偽名を使っていると言う事か?」
リオンはふふふ、と笑った。
「面白いだろう? あちらの企みの中心にいる人物が、存在しないだなんて」
「黒幕はその身を隠すものだ。なんら不思議はない」
「一般的にはね」
「そうではないと?」
空になったフルートグラスに、発泡性のワインを注ぎ足されていく。
「違和感だよ、シミオン。王族を騙るのはどんな国とて重罪だろう。騙るなら匂わせる程で十分な筈だ。それが、皆一様にオメテオトルは王族であり、その中でも高位に位置すると言う」
確かに、おかしい。
「オメテオトルは存在する。王族なのも確かだ。だが、その名の王族は存在しない──」
謎解きでも始まったかのようだ。
「面白いね」
そう言ってリオンは笑った。
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