第44話 演奏者

「ここはね、紅茶が美味しいんだよ」

 ユイルは何事もなかったかのように、メニューを彼女に差し出して見せた。

「ふーん……」

「ふーんって。何でそんなに興味なさそうなの」

「じゃあ、聞くけど。ユイルは私に、ここの紅茶を飲ませたくてここに連れて来たの?」

「それもそうだけど、会わせたい人がいるんだ」

「会わせたい人?」

「そう。ちょっと待ってて」

 そう言うと、ユイルは席を立ちあがってカウンターの方へ行き、マスターと何かを話す。注文をしているようでもあったが、それにしては少し長かった。

「今来るって」

 ユイルは席に戻ってそう言うと、カウンターから通路を挟んだ壁際にある扉から一人の女性が現れた。

 身長の高い人で、黒いドレスを纏っていた。骨格がしっかりとしている顔には、まるで普段の顔を見せたくないかのように、はっきりとした化粧がされている。ナミは単純に「美人だ」と心の中で思った。

 お客が、ナミとユイルの他に一組のカップルしかいなかったせいかあまり盛り上がらなかったが、多くの観客がいたらきっと大きなざわめきが起こったに違いない。

 ナミは自然とその人に釘付けになった。

 女性は慣れているのか、さっとピアノの前に座ると軽く音階を奏でる。

(わあ、滑らかな音……)

 そして、その音階の余韻が消えたと思うと、彼女は再びそっと鍵盤に手を置き、音楽を奏で始めた。

 柔らかな音色が店内に響く。ナミは音楽の知識をあまり持っていなかったので、これがどういう曲なのかは知らない。しかし、うっとりと聞き入ってしまうような旋律だった。

 学校帰りの午後。少しずつ日が傾いてきて、夕方になろうとしている。久しぶりにユイルと一緒にいることも大きいが、この空間に特別な時間が流れているようにナミは感じた。それはきっと、ピアノの音色のお陰もあるだろう。

 その人は、五分足らずの曲を弾ききると立ち上がってお辞儀をした。ナミは勿論、ユイルもカップルも惜しみない拍手を送った。

 彼女はにっこりと微笑むと、再び出てきたドアから奥へ行ってしまう。たった一曲弾くだけのために出て来たのだろうか。

 ナミがそんなこと考えると、ユイルがまるでそれを読み取ったようにこう言った。

「ピアノの演奏は夜しかやっていないんだ」

「そうなの?」

「だって、こんなに観客が少ないのに弾くなんて勿体ないだろ?」

「だったら、何であの人弾いてくれたの?」

「それはもう少ししたら教えるよ」

 そう言って、ユイルが理由を教えてくれるまでに頼んだ紅茶が来た。紅茶は美しいルビーカラーをしている。また一緒に添えられていた数枚のクッキーが、鳥の形をしていて可愛らしかった。

 しかしユイルはそれでも話さず、自分は喫茶店に置いてあった本を読み始めてしまう。ナミは仕方なく鞄からテキストを出して宿題をし始めた。

 そのうちに、お店にいたカップルが出て行った。外が本格的に日の入りに近くなってきたころ、先ほどピアノを演奏した女性が戻っていたドアから、スーツにベストを来た男性が出てきた。すると、ユイルが手を挙げて彼を呼ぶ。

「スバル」

 男性は微笑んでナミ達の元にやって来た。

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