第41話 疎遠

「本当ですね」

 それから彼女は店内をゆっくりと眺める。

「どうかした?」

「いえ。久しぶりだなあ、と思って」

「そうなの?」

「はい。高校生の時はよく来てたのに、社会人になった途端ほとんど行けなくて」

「忙しい?」

 尋ねられて、ナミの脳裏にララの顔が浮かんだ。今思うと、ララは自分のことを心配してあんなことを言ったのだということが分かる。それ故に、胸が痛かった。

「いえ……」

 ナミは平静を装って言った。

「今の仕事は、そこまでもないですけど……」

「そっか。でも仕事をしていると、中々こういうところに行くのが疎遠になりがちだ。休日は家で寝てたり、逆に遠出したり」

「レノさんは、遠出する方ですよね。だって休日はカイル君たち連れてどこかに行ってますし」

「体力あるからな」

 ナミはふふっと笑う。

「レノさんらしい」

「そうかな?」

「そうですよ」

 すると、レノはこんな質問をした。

「高校生の時はしょっちゅう来てたってことは、この場所がお気に入りだったとか?」

 ナミは目を細めると、徐にグランドピアノを見やった。

 今は誰も弾いていないが、ナミの頭の中ではピアノの前に人が座り、演奏をしている音が聞こえていた。柔らかくて、時には涙が出そうになってしまうほど、心に響く優しい音色だ。

「お気に入り……そうですね。勉強しやすい環境だったというのもあるんですけど、ここでピアノを弾く人と仲良くなったからかな」

「ここで演奏するくらいだから、その人はピアニストなのかな?」

 ナミは微笑んだ。彼女の脳裏に、その当時の記憶が色鮮やかに蘇ってくる。

「いえ、違います。ピアニストを目指して、挫折したって言ってました。でも、とても上手で、どうしてそんなに上手いのに諦めたのかなって、いつも疑問に思ってました」

 するとレノは、ピアノの演奏を想像するようにうっとりしながら尋ねる。

「へえ。いいなあ、俺もその人の演奏聞いてみたいなあ。なんて名前の人?」

「えーっと、確か――」

 ナミは遠い記憶から、その演奏家の名を思い出す。

「『ルーシュ』さんです。でもこれ、呼び名なんです。本名は私たちだけの秘密。あ、言いたくないってわけじゃないんですよ。その人との約束なんです。言わないでって言われてたから」

 レノは「そっかあ」と微笑みながら頷く。

「すごく仲が良かったんだね」

「はい」

「『私たち』ってことは、よく誰かと一緒に来てたのかな?」

 レノの質問に、ナミは少し悲し気な表情を浮かべる。

「友達と――……」

 そう。友達と来ていた。いや、友達よりもずっと大切な存在とここに来て、大切な時間を過ごしていたのだ。

「そっか。とてもいいね」

「……はい」

 ナミは笑みを浮かべたが、それは作った笑顔だった。折角楽しい話をしていたはずなのに、ここに一緒に来ていた「友達」のことを話した途端、彼女の表情に影が落ちた。

(何か嫌なことを思い出させちゃったかな……)

 だが、ナミは優しい子だ。彼女が作り笑いをしたのは、無意識にレノに気を使わせないようにしてのことだろう。

 それはジェシカと共に、普段からナミと関わっているからこそ分かることだった。

(一人にさせた方がいいかな)

 レノはそう思うと、立ち上がってナミに言った。

「ナミちゃん、俺ちょっとトイレに行ってくるね」

「え?あ、はい……」

 レノが笑顔で席を離れていくと、ナミはじっと水の入ったコップを眺めていた。そのうちに、自然と当時のことが思い浮かんでくる。

(ユイル)

 ナミは心の中で彼の名を呼んだ。優しさのない、強い言い方だった。

(ねえ、なんであの日、私をここに連れて来たの?)

 あの時だけ。ルーシュこと「スバル・ライト」がいた三か月間だけ、ナミはほとんど毎日ユイルと過ごしていたのである。

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