第36話 涙と本音

 ナミは思わず声を出しそうになるのを、間一髪で堪えた。

(どういうこと……!?)

 心の中ではそう叫んでいた。

 ナミはごくりと唾を飲み込むと、ヤヒリの隣にしゃがんでユイカの前に座った。

(痛々しい……)

 何をしてこうなったのか。傷の様子を見ようと腕をよく見ると、そこにはいくつか歯形が付いていた。

 ナミは頭の中で色々なことが巡る。

 何故歯形が腕についているのか。

 血が出ているのはどういうことなのか。

 こんな時どんな言葉を最初に掛けてあげたらいいのか。

 痛みについて聞けばいいのだろうか。 

 とにかくほんの一瞬で、ユイカに対してどうしたらいいのか色んなことを考えたが、最終的に行きついたのは、名前を呼ぶことだった。

「ユイカ」

 精一杯の優しい声で呼ぶ。ユイカは青い瞳を大きく開いてナミを見ていた。

「一人にしてごめんね。寂しかったよね。ごめんね。さあ、帰ろう」

 ユイカはじっとナミを見ていた。そして、ゆっくりと口を開く。

「……怒って、ないの?」

 ナミは何度か目を瞬かせると、首を強く横に振った。

「怒ってないよ。ユイカに対して何も怒ってないよ」

「ほんと?」

「本当。ユイカは何も悪いことしてない。悪いのは私なの。キャンディー、苦しい思いさせてごめんね」

 すると、ユイカは泣きじゃくる。

「ナミさん、ぼくのこと、きらいになったんじゃないの?」

 ユイカの瞳に涙が溜まってくる。それを見ていると、ナミも泣きだしそうだった。

「どうして? 私はユイカを嫌いになることはないよ」

「だって、手……にぎってくれなっ……なかっ……たし、どこか行っちゃった……ナミさん……どこかに……、どごがに行っちゃったもん!」

 その瞬間、ナミは強い罪悪感に襲われた。

(ああ、なんてことをしてしまったんだろう。周囲の人たちの視線が怖くて、責められていることが恐ろしくて、責任から逃れようとしていた。

 私の子じゃないもの、私が見るべき子じゃないもの、と。

 でも、この子にとって今頼れるのは私だけだったんだ。それなのに、私はこの子の手を離した。離してしまったんだ……!)

 ナミは看護師に言われたように平静を装えなかった。彼女は笑顔を保とうとしながらも、ぽろぽろと涙を零していた。

「ナミ、さん……?」

 それを見たユイカは驚いていた。彼にとって大人が泣いている姿を見るのは、これが初めてだったから。

 ナミは溢れ出す涙にも構わずに、ユイカに語り掛けた。「責任」なんて言葉は難しくて分からないだろう。だけど、精いっぱい本音を伝えようと思った。

「ごめんね。ユイカをあんな目にあわせたのは、私の不注意のせいなの。私が歩きながらキャンディー舐めちゃいけないよって言えばよかったの。それなのに、できなかったから……ユイカに苦しい思いをさせちゃった。ごめんね。きっとユイカのお母さんだったら、こんなことにならなかったかもしれないのに」

 その瞬間、ナミは自分の心に気が付いた。

(そっか……私は、ユイカの母親にも嫉妬していたんだ……)

 ちゃんとしている人なんだろうと思った。

 綺麗に畳まれた洋服。

 6歳なのに、あまりにもしっかりしているユイカ。

 そして、キャンディー。彼がキャンディーを舐めていいかいつも聞いていたのも、母親がこういう事態にならないように気を付けていたからだ。

 それなのに、自分はできなかったと思いたくなかったのだ。

(なんて馬鹿なんだろう)

 ナミは泣きながら、微笑んだ。

「ユイカ、私のこと嫌いになっちゃったかな?」

 ユイカはその言葉の意味を理解するのに時間を要したが、ナミは待っていた。すると、彼はふるふると首を横に振った。

「ううん……」

 そして彼は、ナミに飛びついた。

「ううん! 嫌いになんてならない! ならないよ!」

 ナミは両手を広げてユイカを受け止めると、ぎゅっと抱きしめた。

 ユイカが再び泣き出した。しかし、今の涙は悲しみではないことはナミにも分かった。彼は安堵したのである。ようやく、行きつくべき場所に辿り着いたというように。

 ユイカは絶対に離さないように力の限りナミの服を掴んだ。そして、彼女の胸の中で思い切り泣き叫ぶ。

「ユイカ、ごめんね……! 本当に、ごめんね! 今度は絶対に寂しい思いをさせないから!」

 気が付くと外は夕方になっていた。

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