同じ鍵 だから 信じている

fujimiya(藤宮彩貴)

第1話 出発/羽田空港①

  九月中旬の、暑さもすこしやわらいだ平日。木曜日。

 シバサキファニチャー函館新店見学の、日帰り弾丸ツアー当日。

 朝八時。


 柴崎(しばさき)さくらは、ひどく緊張していた。昨夜はよく眠れなかったし、どきどきが止まらない。


「私、飛行機に乗るの、初めてなのに」


 そして、ちょっと機嫌も悪い。

 年下の夫である、類(るい)が留守番を選んだからだ。三歳五ヶ月になった娘のあおいと、生後半年を迎えた弟の皆(かい)のお世話をするという。


「やっぱり、類くんも来てほしい! ねえ、今からでもあおいと皆くんも、みんなで行こう?」


 淡ピンクの長袖シャツにブラックジーンズの類は、さくらの身体を車内に押し込んだ。

 元モデル・『北澤(きたざわ)ルイ』だった類の、すらりとした長身に、さくらはぎゅぎゅっと、強くしがみついた。


 チェックのシャツにモスグリーンのカーディガン、濃紺の七分丈パンツ姿のさくらは、シートの上にごろんと転がりそうになった……のだが、途中で類が腕を引っ張って、支え直してくれた。


「無理、言わないの。飛行機が怖いだけでしょ、さくら。頼りになるぼくと、一緒にいたいからって。わがまま言わないの。指、冷たいなぁ」


 顔がくっつきそうなぐらい至近距離でささやかれると、反論できない。


「う……うぅ」

「がんばってきて。緊張、ほぐしてあげるね」


 さくらは、類にやさしくキスされた。ちゅっと。


 甘い、あまーい激励だった。


 思わず、身体が類に応えてしまう。ずっと、このままで、こうしていたい……!

 軽いはずだったキスは、やがてとろけるような味に変わり、類の手がさくらの身体を包み込むように抱き締める。さくらも、類のやわらかい髪をそっと撫でるようにして触れた。


 離れたくない。離れられない。


 物語冒頭から、しかも朝なのに、こんな場面でいいのかな……読者さんたち、ドン引きしていないかな……さくらは頭の片隅でそう思いながらも、類の唇に溺れていた。


「またちゅーしてる、ぱ・ぱ・ま・ま!」


 娘の鋭い突っ込みに、ぱぱまま……類とさくらは、あわてて身体を離した。あぶなかった、もう少しで官能の味になってしまうところだった。類は、とても手が早い。


 エンジンをかけ、類の運転する車は羽田空港へ向けて軽快に出発した。


「だいたい、齢二十三にもなって、飛行機に一度も乗ったことがなかったってどういうこと」


 バックミラー越しに、類がちらっとさくらの顔を見た。

 返せることばがない。


 父子家庭で育ったさくらは、ほとんど旅行をいうものをしたこともなく育ち、学生結婚したらすぐに娘に恵まれ、世間一般のレジャーとは縁遠かった。


「ぼくはね、数えきれないほど乗ったよ。ほとんど、仕事でだけど」


 類は、母の聡子が経営する会社・シバサキファニチャーに入社する前、長らくモデルとして活躍していた。

 アイドル的な超人気で、さくらとの結婚には多くの障害があったけれど、乗り越えてここまでやってきた。結婚生活も、そろそろ五年目になろうとしている。


 さくらと類は、かつて『きょうだい』だった。さくらの父・涼一と、類の母・聡子が再婚してふたりは出逢った。不思議な縁である。


「でも、一日に二回も乗るなんて」


「だいじょうぶだって。さくらは心配性だなあ」


 東京から、北海道新幹線で行く案もあった。しかし、片道四時間以上かかるということで、残念ながら却下された。弾丸ツアーにはふさわしくない。


「そもそもこの企画、さくらが言い出したんでしょ。だったら、みんなの先頭に立って乗らないとね」


 函館ツアーを提案したのは、総務部に勤めているさくら自身である。七月にオープンした、函館店を見学するための社内イベントだ。


シバサキの直営店は、本日全店臨時休業。社員がツアーに参加しやすいよう、配慮された。


 吉祥寺店で働く類も、今日はもちろんお休みなのだが、類はツアーを遠慮した。意外だった。函館店を見学したいと言っていたのは、そもそも類だったのに。


「今朝、母さんの具合がよくないみたいだし、仕方ないよ。おちびさんもいるし、残ってよかった」

「うん。それは、そうだけど……助かるけど」


 類の車は空港を目指しているが、まずは聡子と弟の皆を乗せる約束をしていた。

 車だと、五分もかからない場所に両親は住んでいる。


 実は、二か月ほど前までは、同じマンションの別フロアに住んでいた。

 しかし、自立するという理由で、さくら一家は少し離れた場所に部屋を借りた。高級マンションは快適だったけれど、親離れ・子離れしなければならない。しばらく距離を置きたいと、類が宣言した。


***


「うわあ。母さん、顔色悪い……なにそれ」


 母の姿を見た類が、引きまくった。


 マンションのエントランスを出てきた、グレーのスーツ姿の聡子は、今にも倒れそうだった。

 急に痩せた様子だし、顔が青ざめている。メイクでも、ごまかせないほどに。

 本人も自覚しているようで、顔色をごまかそうと、ふだんよりもやや厚塗りになってしまっているところが、いっそう痛々しい。


「おはようございます、お母さん。皆くん、だっこしますね」

「おはよう、さくらちゃん。ごめんね、お願いできる?」


 弟の皆……は、さくらと類の弟である。ふたりの娘のあおいよりも、年下の弟である。生後半年を過ぎ、いっそう重くなってきた。だっこするたびに、ずっしりくる。


「かいくーん、きょうもかわいいねっ。おはよう」


 皆のことが大好きなあおいは、大喜びである。

 類の車の後部シートに倒れ込むように座った聡子は、はあぁと大きくため息をついた。


 車はゆっくりと空港へ向かって、再び走りはじめた。


「行くの、やめなよ今日。無理だよ、その身体じゃ。みんなに迷惑がかかる」

「うーん。でも、ツアーのサブタイトルが『聡子社長と行く』って、なっているのに。『みんな大好き☆アイドル社員』の類も不参加じゃ、参加してくれた社員たちに申し訳ないわ」

「また、企画すればいいじゃん。はい、今日はお休み。ぼくが面倒見てあげるから」


 返事がないな、と思って様子を見たら、聡子は寝ていた。浅い呼吸を繰り返している。


「珍しいな。いつも元気いっぱいなのに」


 バックミラー越しに、類が聡子を確認した。


 さくらは聡子の身体にブランケットをかけてやった。お肌が荒れていた。お化粧ノリもよくない。しかも、顔のラインが細くなってしまっている。


「病気とかじゃ、なければいいけど……」


***


 平日だからと甘く見ていたら、空港の駐車場にはほとんど満車ランプが点灯していた。


「やっべ。空いているとこ、探さなきゃ! さくら、車を出発ロビーの階にいったん停めるから、母さんを支えて降りて」

「うん、分かった」


 弾丸ツアーなので、荷物が少ない点はよかった。


 車を停めて聡子を降ろしていると、声をかけられた。


「さくらさん、お手伝いしますね」


 声の主はさくらの上司、総務部の高尾壮馬(たかおそうま)マネージャーだった。


「壮馬さん! おはようございますっ」

「そろそろ、到着するころかなと思って待っていました。朝、社長より連絡を受けて……相当、しんどそうですね。ツアー同行は、遠慮していただきましょう」


 いつもはオールバックにしている前髪を、今日は下ろしている。なんだか、かわいい。若く見える。はじめて見る私服も新鮮。カジュアルな麻製のベージュ色ジャケットに、インディゴブルーのラフなパンツ姿。


「壮馬さん、おはようございます」


 運転席から類も出てきて、事情を説明した。


「社長に、息子のルイさんがついていてくださるなら、安心です。どうしても、あいさつと指示出しをしたい人がいるようなので、その間だけ、いったん、社長をお預かりします」

「ぼくも車を停めたら、すぐに集合場所へ向かいます。ただ、小さい子ふたり連れなので」

「承知しました。安全運転で、お子さん優先。どうか焦らずに。フライトまであと一時間以上あります。参加社員も、まだほとんど集合していません」


「実はうちの妻が、この歳になって飛行機に乗るのが、今日はじめてなんです。少しでいいので、気にかけてやってください」

「かしこまりました、それはさぞ不安なことでしょう。差し支えのない範囲で、さくらさんの心を和らげるよう、尽力します」


 ……はー。

 相変わらず、てきぱきしていて頼りになるけれど、終始落ち着いていて、かっこいい。オトナだなあ。さくらは壮馬に憧れた。


 そんなさくらを見た、類がひとこと。


「さーくーら。よそ見、禁止!(怒)」

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