第20話

 学校がはじまると、冬休み前までと同じ毎日に戻った。

 朝、一緒に勉強して、放課後は自転車の練習をする。もう練習の必要もないくらいセンパイの自転車は上達していたけれど、センパイは練習を止めるとは言わなかった。

 センパイと過ごす時間が一日ずつ減っていく感覚に胸が苦しくなったけれど私はそれを口にしなかった。そしてそれはセンパイも一緒だった。

「自転車、買ったよ」

 センパイがそう言ったのは、明日が最後の登校日になるという日の朝だった。

「買ったんですか?」

「うん。アルバイトで貯めたお金で買った。バンクーバーに持って行く」

「えっと、調べてみたら、バンクーバーって坂が多いみたいですよ。だから自転車はキツイかも……」

「知ってる。だけど、持って行く」

 センパイのその言葉がなんだかとてもうれしくて泣いてしまいそうになる。

「それでね、明日はいいお天気みたいなの」

「そうなんですね」

「だから明日は自転車で一緒に登校しよう」

「本気ですか?」

 センパイは自信に満ちた笑みで力強く頷いた。



 翌日の朝、私はいつもの通学路を少し逸れてセンパイの家まで行った。センパイはピカピカの自転車にまたがってスタンバイしていた。

 センパイの自転車は、私の自転車よりもかっこいいシティサイクルだった。私の自転車がザ・ママチャリなら、センパイの自転車はオシャレサイクルといった感じだ。

「おはよう」

「おはようございます。なんか自転車かっこいいですね」

「でしょう?」

「ちょっと悔しいんですけど……交換しません?」

「イーヤッ!」

 センパイはケラケラと笑う。

「本当に学校まで、大丈夫ですか?」

 確かに自転車には乗れるようになった。だけど学校までの距離はまだ走ったことがないはずだ。

「大丈夫だよ」

 センパイは自信にみなぎった声で答えた。そして「それじゃあ、出発!」と大きな声で言ってペダルを強く踏み込む。

 風になびくセンパイの髪を見ながら、私はセンパイの後ろを走る。普段より少し遅めのペースだけど順調に前に進んでいく。

「センパイ、ゆっくりでいいですからねー」

 大きな声でセンパイに声を掛ける。

「はーい」

 振り向くことなくセンパイが返事をした。そして「自転車、楽しいね!」と言って強くペダルを踏み込んだ。

「センパイ、そんなにがんばるとパンツ見えちゃいますよー」

「えっちー」

 センパイは笑いながらさらにペダルを踏み込む。

 センパイのペースに合わせたので、いつもより時間がかかったはずなのに、学校まであっと言う間に着いてしまったような気がした。

 自転車を置いて一息つくと、センパイがクスクスと笑いだした。

「楽しかったね」

「そうですね。でもセンパイ、鼻もほっぺも真っ赤ですよ」

 するとセンパイは私の顔を見て「紫蒼さんも同じだよ」と言うと、手袋をはめた手で私の頬を挟んだ。

「ありがとね」

 聞きたくない。咄嗟にそう思った。

 センパイが別れの言葉を言おうとしていると分かった。背を向けて走り出したかった。だけどセンパイから目が離せない。

「私、明日からは学校に来ないから」

「自由登校ですもんね」

「そうじゃなくて、準備が終わったらすぐに発つから……。卒業式も出ない。だから、今日が最後」

「そんな……」

 もうすぐ時間切れだと覚悟していた。だけどこんなに急だなんて聞いていない。

「本当にありがとう。振り回して、ごめんね」

 センパイはそう言って私の頬から手を離した。

「そうだ。私、センパイに渡したいものがあるんです」

 私は鞄の中から小さな包みを一つとりだしてセンパイに差し出す。センパイは黙ってそれを受け取ると包みを開けて中を見た。

「青色のハンドタオル?」

「はい。夏休みに友だちと遊びに行ったときに買いました」

「ありがとう」

「それから、これは夏休みに家族旅行に行ったときのお土産です」

 もう一つの包みを渡す。センパイは包みの中から紫色のハンドタオルを取り出した。

「青と紫……紫蒼さんの色だね」

「はい。向こうで使ってください」

「ありがとう。大事にするね」

「でもセンパイは、お気に入りのものはひとつじゃダメなんですよね? だから、えっと、勉強を見てもらったお礼と、クリスマスのプレゼントと、あと、なんか、とにかくお礼です」

 そう言って紫と青のハンドタオルがいくつも入った包みをセンパイに押し付ける。

「もし、足りないならもっと買ってきます。だから代わりに、センパイが使っていた、黄色のタオルを私にくれませんか?」

「キイロのタオル?」

「はい。黄色のタオルです」

 するとセンパイは笑いを堪えるようにして下を向く。そして鞄からいつも使っているタオルを取り出した。

 センパイは私の方にそのタオルを差し出そうとして手を止める。

「もう一回言って」

「え?」

「何が欲しいの?」

「その黄色のタオルです」

 するとセンパイは頬を赤くしてクスクスと笑った。

「呼び捨てにされた」

「え? あ、いや、違いますよ。センパイの名前じゃなくて、色のことで……」

 言いかけて思い留まる。本当は『黄色のタオル』が欲しいんじゃない。私が欲しいのは『希彩のタオル』だ。だから間違っていない。

 ひとしきり笑って涙目になったセンパイは、「はい」と『希彩のタオル』を渡してくれた。

 希彩のタオルを握りしめて、私はセンパイに問う。

「センパイは、私のことが、好きですか?」

「それは……、教えてあげない」

「どうしてですか?」

「どんな答えでも悲しくなるだけでしょう? だから紫蒼さんの気持ちも聞かない」

 聞かなくてもお互いに分かっている。きっと間違っていない。

 言葉にしなければ、その気持ちが無かったことになるわけではない。そんなことはセンパイも分かっているだろう。それでもセンパイはその言葉を口にしないし、私にも望まない。

「いつになったら、教えてくれますか?」

「そうだね……。紫蒼さんが卒業するころ、まだ聞きたいと思ったら……」

「わかりました」

 私はそう答えてから一歩踏み出した。そしてセンパイを抱きしめる。

「寒いので、ちょっとだけ」

 センパイは何も言わず、私の背中に手を回した。

「長い休みでも、日本には帰ってこないと思うから、待たないでね」

「はい。待ちません」

 いつか私が会いに行きます。

「紫蒼さんからのメッセージ、待ったりしないから」

「はい。待たないでください」

 待つ暇がないくらい毎日メッセージを送ります。


 そうしてセンパイは、卒業式を待たずにバンクーバーへと飛び立った。

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