第16話
センパイは、古い心の傷についてゆっくりと話してくれた。
その人と出会ったのは、センパイが高校一年の頃だった。陸上部に所属する二年生。朝練でグラウンドを走る彼女の姿を見るために、センパイは朝早く登校するようになった。誰もいない教室で教科書を広げながら、グラウンドを走る彼女を眺める。それがセンパイにとってとても幸せな時間だったという。
だけど幸せな時間はそう長くは続かなかった。彼女は思うように記録が伸びず、苛立ちを募らせていった。さらに一年生にも記録を破られたことで焦りがピークに達したのだ。そしてセンパイは見守ることしかできない自分の無力さに悲嘆していた。
だから彼女が「逃げたい」と言ったとき、先輩は迷わずにその手を取った。計画性なんて全くない逃避行だった。駆け落ちするつもりでもなかった。ただ、それで彼女が苦しみから逃れられるのなら、その隣にいたいと思ったのだという。
「本当に子どもっぽい思い込みだよね。それで救われるはずなんてないのに」
センパイは自嘲気味に言った。
ハヤシライスの皿が空になり追加でジュースを注文する。
「逃げたっていっても、たった二日だったんだけどね」
たった二日だったが家族や学校はかなり大騒ぎをしたようだ。そのため多くの生徒がセンパイと彼女のことを知ることになった。それから二年が経ち、知っている生徒は三年生だけになったけれど、あの事件が忘れられたわけではない。
私とセンパイが文化祭で手をつないでいるのを見た三年生の誰かが、当時のことを噂したのだろう。それが藤花の耳に入ったのだ。
センパイが付き合っていた彼女は練習環境を変えたいという理由で、逃避行から程なく別の学校に転校した。「離れてもずっと好きだからね」別れ際のその言葉を信じて、センパイは届かないメッセージを毎日待っていたのだ。
「センパイがメッセを止めたのはそれが理由ですか?」
センパイは小さく頷く。
「それで私、何もかもから逃げたくなったの。腫れ物に触るような家族からも、好奇心と嘲笑しかない学校からも、彼女がいる日本からも」
「それで海外の大学に?」
「そう。だから全然すごくない。ただここから逃げたいって思ってるだけ」
グラスの中で溶けた氷がカランと鳴った。
「逃げたいって思ってたのに、私をナンパしたのはなぜですか?」
「ナンパ?」
センパイはちょっと目を大きくして私を見た。
「ナンパですよね?」
「えーっと、うん、まあ、そうだよね」
センパイは少し笑うとジュースを一口含んだ。
「バスから自転車に乗ってる姿を見たの。すごく強い向かい風の日だったんだけど、ものすごい形相で必死に自転車を漕いでるのが面白くて」
「げっ、そんなところを見られてたんですか?」
「うん。それから毎日のように見掛けるようになって。今日は機嫌よく歌ってるなーとか、なんだか元気がないけど何かあったのかな? とか、すごくニコニコしながら走ってるなーとか」
「ちょっと待ってください、すごく恥ずかしい感じなんですけど」
私は思わず頭を抱える。
「どんな子かなってずっと思ってたから、バスで会ったとき、どうしても話し掛けてみたくなったの」
「話してみて、どんな子でしたか?」
「すごく、いい子だった」
私の胸の奥のやけどがまた少し広がる。だけど痛くはない。
センパイが海外の大学に行くと知って悲しかった。センパイと一緒にいると楽しいけれど胸の奥が苦しかった。
昨日、藤花の言葉を聞いて腑に落ちた。センパイと一緒にいて、うれしくて楽しいのに、悲しくて辛くなるのは、センパイのことが好きだったからだ。
そして今、センパイの話を聞いてそれが確信に変わった。
そう自覚してしまえば、理由が分からず痛みしかなかった胸の奥のやけどすら心地良く感じる。これは恋の痛みだ。
だけどセンパイが一緒に逃げようと言ったら、昔のセンパイのようにその手を取れるだろうか。多分、私にはできない。
「センパイは私のことが好き、なんですか?」
センパイはじっと私の顔を見る。
「それは、教えてあげない」
そんなの答えを言っているのと同じだ。だけど「好き」とも「好きじゃない」とも答えられないセンパイの気持ちも分かる。
私は逃げたいというセンパイの手を取れないし、センパイは私に一緒に逃げようとは言えない。
「センパイは付き合ってた彼女のこと、今でも忘れられませんか?」
「それは……多分、一生忘れないと思うよ」
それはセンパイの深いところに刻まれた傷だ。それは消せないし忘れさせることもできない。
だったら私はどうだろう。センパイは私のことを「一生忘れない」と言うだろうか。ほんの少し肩を並べて勉強した一年生のことなんて、きっとすぐに忘れてしまう。
「センパイは勉強がすごく忙しいっていう訳じゃないんですよね?」
「え? ああ、うん」
「だったら放課後、少し私に時間をくれませんか」
「時間?」
「はい。自転車の練習をしましょう」
センパイは私の提案に首を傾げた。
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