第10話
家族で父の実家に旅行に行き、藤花や桃とも何回か遊んだ。その間、やはりセンパイからのメッセージは届かなかった。
センパイはメッセをするつもりがないのだ、と諦めかけていた八月の半ばにようやくそれが届いた。
『月曜日、学校に行きます』
新規のID。名乗ることもなく、唐突に用件を伝えるメッセージに、驚きと喜びが込み上げる。登録名が『センパイ』となっていることに苦笑する。
『メッセありがとうございます! 月曜日、私も学校に行きますね』
ベッドに寝転がっていた私は、飛び起きて正座で返信を打った。誰にも見られていないので、ニヤける顔を我慢する必要もない。
私からのメッセージに既読マークがついてから十分以上経って、センパイから返事が来る。
『学習ラウンジ 十四時』
『はい! 会えるの楽しみにしています』
私が返したメッセージに既読が付いてから、センパイからメッセージが届くことはなかった。
センパイがメッセを苦手だと言っていた理由がよくわかった。友だち同士で、こんな業務連絡のようなメッセのやり取りしたことはない。けれど私は大満足だった。どんな絵文字やスタンプで飾られた言葉よりもうれしく感じた。
それに恐らく今センパイのメッセに登録されているのは私だけだ。ただそれだけのことでセンパイにとって特別な何かになれたような気がした。
約束の日。ゆっくりと支度をしたけれど、落ち着かなかったので早めに家を出ることにした。少し早く着いたとしても勉強をしながらセンパイを待っていればいい。
鞄の中には勉強道具と旅行先で買ったセンパイへのお土産が入っている。
駅からは自転車ではなくバスを利用した。雨は降っていなかったが、夏の真昼の太陽の下で自転車を漕ぐ気になれない。というのは理由のひとつに過ぎなくて、センパイにバスでも会えるかもとか、勉強が終わったらセンパイと一緒に帰れるかも、なんていう気持ちもあった。
バスではセンパイに会うことができず、ささやかな目論見は空振りに終わる。よく考えたら約束の時間よりも早いから当然だ。
夏休みの学校は思ったよりも静かだった。もっと運動部の子たちが練習をしていると思ったがその様子もない。炎天下での練習を避けているのだろう。
玄関に入って直射日光は避けられたが、暑さはほとんど変わらなかった。早くエアコンの効いた学習ラウンジに待避しようと、速足で廊下を進む。
校舎の二階にある学習ラウンジを目指して階段を上り切ったところで、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「おー、内田(うちだ)。調子はどうだ?」
なんとなく覗き込むと声の主はやはり桜ちゃんだった。そして桜ちゃんが話し掛けていた相手はセンパイだ。どうやらセンパイの苗字は内田というらしい。期せずしてセンパイの名前に一歩近づけた。
「準備は進んでるのか?」
「はい。夏休みの前半に下見をしてきました」
センパイが夏休みは忙しいと言っていたのは本当のことだったようだ。でも下見とは一体何だろう。
「内田は真面目だし、ずっと前からコツコツ準備してたから、そんなに心配してないけどな。でもまぁ何か困ったことがあったら言えよ? って、私じゃ頼りにならないか」
桜ちゃんがガハハと豪快に笑う。
「いえ、そのときは相談させてもらいます」
なんだかセンパイと桜ちゃんの話を盗み聞ぎしているようで居心地が悪い。だけど桜ちゃんの声は大きいし、静かな学校の廊下では会話がよく響く。
それに今更顔を出すのもタイミングが悪いような気がした。
「しかし海外の大学かぁ、思い切ったよな。私が高校生のときは、そんなこと想像すらしたことないよ。すごいな、内田は」
「いえ、そんなことはないですよ」
心臓がバクバクと暴れはじめる。何の話をしているのか考えることを脳が拒否しているように、耳から入る言葉が零れ落ちていく。
「親御さんは心配しているんじゃないのか?」
「ウチは放任主義なので、多分、気にしていないと思います」
「それは、内田を信用しているからだろう?」
桜ちゃんの大きな笑い声が耳障りだ。何か考えなくてはいけないような気がするのに頭が働かない。
少しして「じゃあ、がんばれよ」という桜ちゃんの声がして、足音が近づいてきた。私は咄嗟に階段を駆け降りて玄関まで戻った。
急に足の力が抜けて玄関の端に座り込む。心臓の動きが異常に速い。視界もぼやけて息がうまく吸えない。
センパイは三年生だ。あと半年ほどで卒業することは分かっていた。勉強会でセンパイが優秀だということも知っている。冷静に考えれば、地元には残らず遠くの大学に進学する可能性の方が大きい。
だけど私はそのことを全く考えていなかった。今が楽しくて、センパイがいなくなるなんて想像できなかった。
しかも、ただ遠いだけではない。センパイは海を越えたところに行ってしまう。勉強会のとき英語の勉強をしていることが多かったのもそのためだったのだ。
しばらくして呼吸が落ち着いてきた。私は立ち上がって職員室を目指す。
そっと職員室の中を伺ったが桜ちゃんの姿はない。私は少しだけ考えて音楽室に向かった。桜ちゃんの担当教科は音楽ではない。だけど時々音楽室でピアノを弾いているのを知っていた。
音楽室に近づくとピアノの音が微かに聞こえてきた。ドアから覗くと、やはり桜ちゃんがピアノを弾いている。こうして見ると小さなころに憧れたやさしいお姉さんの姿が思い出される。
静かにドアを開けて音楽室にはいる。それに気付いた桜ちゃんはピアノを弾く手を止めて私を見た。
「お、紫蒼、どうした?」
「桜ちゃん、またサボってるの?」
「三上先生だ。それと、サボってるんじゃなくてリフレッシュだ」
私は笑みを浮かべて見せたが、うまく笑えている自信はなかった。
「そういえば、さっきウチダセンパイと話してたよね?」
「ん? 内田希彩(うちだきいろ)のことか?」
ウチダキイロ。心の中で、はじめて知ったセンパイの名前を繰り返す。ようやく知ることができたセンパイの名前だけど、私には他にもっと知りたいことがある。
「うん。ウチダセンパイって、海外の大学に行くんだよね? 私もちょっと興味があって……」
「紫蒼が? なんか意外だな」
「まだ、選択肢のひとつってくらいだけどね」
「そうだな、興味があるなら、今から色々調べておいた方がいいかもな」
桜ちゃんは私の言葉を信じてくれたようだ。
「でも海外っていっても色々あるよね。どこがいいんだろう。確か、内田センパイはアメリカだっけ?」
「いや、バンクーバーだからカナダだよ」
「あ、そっか、バンクーバーってカナダだったんだ」
「おいおい、それで海外って大丈夫なのか?」
桜ちゃんは苦笑いを浮かべた。それから少し話をして、お礼を伝えてから音楽室を出た。
私はとりあえず自分の教室に行って席に着くと、スマホでバンクーバーを検索した。
サマータイムがあり夏期の時差は十六時間。冬季の時差は十七時間。日本から飛行機で八~九時間。雄大な自然と都会的な街並み。
画面に映し出される写真はどれも日本のどの場所とも似ていない。当たり前だけれど、そこは日本ではないのだと思い知らされた。
学習ラウンジに着いたのは、約束の時間を三十分以上が過ぎてからだった。
「遅くなってすみません」
私が声を掛けると、センパイがゆっくりと顔をあげて笑みを浮かべた。
「来られなくなったのかと思った」
机の上のテキストの横には、普段は鞄の中にしまってあるスマホが置かれていた。それを見て胸の奥にチリリとやけどしたような痛みが走る。
私はいつものようにセンパイの隣の席に座る。
「教科書に貼ってあるシールの色」
唐突な私の言葉に、センパイは少し首をかしげて私を見た。
「お気に入りのハンドタオルの色」
続いた私の言葉にセンパイの表情が和らぐ。
「私の名前、紫蒼の色……青紫(あおむらさき)」
センパイは私の言葉にひとつずつ頷く。
「あとは、青紫の補色……センパイの名前は内田希彩ですよね」
「正解」
センパイはチラリと八重歯を見せて笑いながら軽く手を叩いた。
「あのヒントじゃ分かりませんよ」
「でも正解できたじゃない」
「カンニングです」
私は笑顔を作って頭を掻く。
「本当に偶然知っちゃったんです。あ、あと、バンクーバーの大学に行くことも」
できるだけ明るい声で、軽い調子で言う。するとセンパイは少し寂しそうな顔をした。
「そっか、バレちゃったのか」
「なんかスゴイですよね。外国なんて」
「そうでもないよ」
「夏休みに忙しいって言ってたのも、だからなんですね」
「下見を兼ねて、短期でホームステイに行ってたから」
「うわー、すごいなぁ」
いつものように明るく話そうとすればするほど、胸の奥のやけどのような痛みが広がっていく。ジワジワと広がり、いつか全身を焼き尽くしてしまいそうだ。
「あ、そうだ。宿題で分からないところがあったんですけど、聞いていいですか?」
私は鞄から教科書を取り出して付箋を貼ったページを開く。センパイは何か言おうとしたが、それを止めて教科書に目を落とした。
そこからは、留学のことには一切触れず、ただ、いつものように勉強をして、それぞれに家路についた。
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