第8話
その日も、いつものように学習ラウンジでセンパイと勉強をしていた。私はいつもより少し早い時間で勉強を切り上げてセンパイに声を掛ける。
「あ、あの、センパイ」
「んー、なに? 分からないところがあった?」
「いえ。そうじゃなくて……」
私は鞄から成績票を取り出してセンパイに見せた。センパイはしばらくそれに目を落とすと八重歯を見せて笑う。
「すごい! がんばったね」
「センパイのおかげです。ありがとうございます」
「私は何もしてないよ。紫蒼さんががんばったんだよ。自信を持っていいと思うよ」
成績を見たとき確かにうれしいと感じたけれど、センパイにそう言われてますますうれしくなった。顔がニヤケてしまいそうになるのを必死にこらえる。
「紫蒼さんががんばったから、何かご褒美をあげなきゃいけないかなぁ」
センパイは人差し指をあごに当てて考える仕草をする。
「あ、それなら教えてほしいことがあるんですけど……」
私は思い切って口に出した。私には知りたいことがある。
「名前なら教えないよ」
「え? あ、そうなんですか……」
一カ月以上センパイと一緒に勉強をしているのに、私はいまだに名前を教えてもらっていない。普段は「センパイ」と呼ぶから特に困らないのだけれど、やっぱり知りたいと思う。
もちろん、これまで何度も先輩から名前を聞き出そうとしてきた。ただ、その度にヒントを出されるだけで答えを教えてもらえないのだ。
「ホショクってなんですか? ホショクじゃなくて、ホソクですか? 何かを足せばいいんですか?」
「ホソクじゃなくて、ホショクだよ」
「それじゃ分からないので、もうちょっとヒントをください」
「んー、紫蒼さん」
「私? 捕食?」
「私が捕まって食べられちゃう感じ?」
するとセンパイは少し頬を赤くしてクスクスと笑った。
「なんで笑うんですか?」
「意味分かってる?」
私が首を捻ると、センパイはますます楽しそうに笑った。
また別の日に出して貰ったヒントは「お気に入り」だった。
「センパイのお気に入りって……私?」
「うわっ、びっくりした」
「じょ、冗談です」
「確かに紫蒼さんはお気に入りの後輩だけど、紫蒼さんじゃないんだな」
「それじゃあ、バス?」
「バスは別にお気に入りじゃないよ」
「あ、ハンドタオルだ!」
私がそう言うとセンパイはニッコリと笑う。それが正解だということだろう。
「ハンドタオルが名前? え? タオル? 手拭い?」
「私、手ぬぐいなんて名前じゃないから」
センパイはお腹を抱えて笑っていた。
さらに別の日に出たヒントは「シール」だった。私の傘のようにネームシールでも貼ってあるのかと思って色々と探したけれど見つからなかった。
それまでに出たヒントを並べると『ホショク』『私』『お気に入り』『シール』だ。ヒントが出る程、名前から遠ざかっていくような気がした。センパイはわざと分からないようにヒントを出しているのではないかと疑いたくなる。
センパイからのヒント以外にも、センパイの名前を知る方法はある。
例えば教室に戻るセンパイの後を付けて、センパイの教室の周辺で聞き込みをする。先生や友だちに手あたり次第に聞いてまわる。桜ちゃんは三年生の授業も受け持っているから、聞けば知っているかもしれない。あとはセンパイの持ち物を漁って記名されているものを探すなどだ。
だけど、なんとなくそうした方法をとりたくなくて、結局名前が分からないまま今日まで来てしまった。
センパイの名前は知りたい。すごく知りたい。だけど、テストのご褒美に教えてもらおうと思ったものはそれではない。
「知りたいのは、センパイの名前じゃなくて……」
そこまで言うとセンパイは「知りたくないの?」と悲しそうな声を出した。頑なに教えないくせにわがまますぎる。
「いえ、知りたいです。知りたいですけど、テストのご褒美なら、メッセのIDを教えてほしいです」
私は一気に言った。
雨の日にバスで出会ってから、学校のある日は毎日顔を合わせている。色々な話もした。センパイと仲良くなれたと思うし、センパイのことも色々知ることができた(名前はまだ知らないけど)。
センパイは朝の勉強会で英語をしていることが多い。学校の教科書ではなくて、なんだか難しそうなテキストをやっている。
センパイが自転車に乗れないのは、練習をはじめたばかりの頃、盛大に転んで大きな怪我をしたから。今でも額の隅に小さな傷が残っている。だからおでこを出すのは好きじゃない。
センパイは八重歯があんまり好きではないらしい。いつかお金を貯めて治そうと思っている。私が笑ったときに見える八重歯はかわいいと思うと言ったらしきりに照れていた。
センパイは雨の日に濡れた肩を拭いているハンドタオルをとても気に入っている。なんと同じ柄を三枚も持っている。好きなものには徹底的にこだわってしまうタイプみたいだ。
センパイには、今は付き合っている人がいない。でも「今は」ということは、以前はいたということかもしれない。それを詳しく聞く勇気はなかった。
センパイには一つ違いの妹がいる。別の高校に通っていてあまり仲が良くないらしい。私には四つ年上の兄がいる。仲良しとはいえないけれど、仲が悪いということもない。もしもセンパイが私のお姉ちゃんだったらと考えたら、センパイの妹さんが少しうらやましくなった。
これほどセンパイのことを知ることができたのに、私はセンパイの連絡先を知らない。学校やバスで顔を合わせるから連絡先を聞くチャンスが無かった。
だからセンパイの連絡先が知りたい。純粋にそう思っているのだけれど、実はそれだけではない。メッセの登録名から必然的にセンパイの名前を知ることができる、という算段なのだ。
天才的なヒラメキに悦に入っていたのだが、センパイは申し訳なさそうな顔をして「ゴメン……」と言った。
私は一気に落胆する。メッセのIDくらい気軽に教えてもらえると思い込んでいた。それくらいには仲良くなれていると思っていた。それは勘違いだったのだろうか。
肩を落として俯く私に向かってセンパイが言葉を続けた。
「私、メッセやってないんだ」
「へ?」
予想外の返事にマヌケな声を出してしまった。私たちの年代でメッセをやっていない人なんて知らない。携帯の電話番号を知らなくてもメッセは知っている、そんな友だちもたくさんいる。
「やってないってどうしてですか? 不便じゃないですか?」
「んー、そんなにやり取りする友だちもいないし。私、ちょっと苦手なんだよね」
「苦手?」
「うん。どんな言葉を送っていいか、よく分からないんだよね」
「そう、ですか……」
苦手の意味がよくわからない。もしかしたら教えたくないから、そんな風な言い訳をしているのだろうかと勘繰ってしまう。
「どうしてメッセを交換したいの?」
センパイが小首をかしげて私に聞いた。交換したい理由なんて今まで聞かれたことなんてない。普通は挨拶代わりに交換する程度のものだ。
「えっと、もうすぐ夏休みじゃないですか。そうすると、こうして会えなくなるし……えっと、宿題とかで分からないところが出てきたときとか。あと、もしも時間があったら、ちょっと会ったりとかできないかなーって。夏休みはやっぱり忙しいですよね?」
必死に理由を紡ぎ出すとセンパイは小さく笑みを見せた。
「夏休みはちょっと予定があって、あんまり時間ないかも」
「そりゃ、そうですよね。私なんかと会う時間なんてないですよね……でも、それでもいいので……」
自分の言葉になんだか泣きたい気分になってくる。
「メッセはね、前はちょっとやってたんだよ。だけど届かないメッセージを待つのが寂しくて止めちゃったんだよね」
その言葉に、誰かからのメッセージを待つ寂し気なセンパイの顔が脳裏に浮かんだ。なんだかとても心の奥がムズムズする。そのムズムズが気持ち悪くて、それを吐き出すように頭に浮かんだ言葉を口に出していた。
「私は、センパイに寂しい思いをさせません!」
その直後に後悔した。ものすごく恥ずかしいことを言ってしまったような気がする。だけど今更取り消すことはできない。それに恥ずかしくはあるけど嘘ではない。
センパイは少しびっくりした顔をしてちょっと俯いた。
「それじゃあ、紫蒼さんのIDを教えてくれる? 会う時間がつくれそうなら、私からメッセージを入れるから」
私は頷いてノートの端にIDを書いてセンパイに渡した。
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