第6話

 火曜日も雨。

 私はバスに乗り込み、二人掛けの座席の窓際に座る。ぼんやりと窓の外を眺めていると、ひとつ目のバス停でセンパイが乗り込んで来て私の隣に座った。

「あ、おはようございます」

 私は全然気づきませんでした。というフリをして挨拶をする。バスに乗り込むセンパイの姿も、座席に近づいてくるセンパイの姿も視野の端でとらえていたけれど、昨日のような恥ずかしい態度はとりたくなかった。

「おはよう」

 センパイはそう言うと、鞄からハンドタオルを取り出して濡れた肩を拭く。

「そういえば、中根(なかね)さん……えっと、しあおさん? は、学校に着いたら何をしてるの?」

「あ、しおです。中根紫蒼(なかねしお)……って、ええっ!」

 なんとなく返事をしようとしたが、異常事態に気付いて私は叫んでしまった。目を見開いてセンパイを見つめると、センパイも驚いてパチクリとしばたたかせた。

「え? 何? 私、何か変なこと言った?」

「あの、どうして……、私の名前、知ってるんですか?」

「名前? だって……」

 そう言うとセンパイは私の手元を指さした。私の手には雨傘が握られている。そして、その柄には『中根 紫蒼』というネームシールが貼られていた。母が失くさないようにと貼ってくれたものだ。

 なんだかとても恥ずかしくて顔が赤くなっているのが自分でもわかった。センパイはクスクスと笑いながら先ほどの質問を繰り返す。

「この時間に学校に着いたら、みんなが登校してくるまで一時間近くあるでしょう? 何してるの?」

「特に何も……。みんなが登校してくるのを眺めてぼんやりしてます」

 だから自転車のときはコンビニに寄って時間を潰すこともある。

「それは時間がもったいないよ」

「そう思うんですけど特にやることもないし。センパイは何をしてるんですか?」

「勉強をしてるかな。朝の誰もいない教室って妙に集中できるんだよね」

 私はポカンと口を開けてセンパイの横顔を眺めた。自主的に早朝登校をして勉強をしている人をはじめて見た。

「センパイは真面目なんですね。私、勉強をしようなんてまったく思いませんよ」

「紫蒼さんは勉強が嫌い?」

「うーん、嫌いというか、ちょっと苦手です。最近、難しくなってきたから余計に勉強したくないっていうか……」

「だったら今から勉強をした方がいいかな」

「へ?」

 私は思わずマヌケな声を上げてしまう。センパイはクスクスと笑っていた。

「今なら入学してまだ間もないでしょう? 今のうちに分からないところを克服しておいた方がいいと思うよ。二年とか、三年になってからだと大変だから」

「あ、はあ……」

 センパイの言うことはもっともだ。だけどイマイチ勉強に対するモチベーションが出ない。多分、私はこの高校に入学できたことに満足して燃え尽きてしまったのだ。

「良かったら、朝の一時間、一緒に勉強する?」

「え? でも、センパイの邪魔になっちゃうんじゃ……」

「大丈夫だよ。分からないところがあったら教えてあげられるし。嫌かな?」

「嫌じゃありません」

 なんだか俄然モチベーションが上がってきた。一応、中学までの勉強はがんばったから理解できている。要は高校に入ってからの勉強だけだ。そう考えると今は落ちこぼれかけているけれど、すぐに追いつけそうな気がした。

「じゃあ、早速今日からはじめようか。場所は学習ラウンジでいいよね?」

「ハイッ!」

 バスの中だということを忘れて、思わず元気よく返事をしてしまった。

 学校に着くと、そのままセンパイと一緒に学習ラウンジに向かう。これまでは玄関別れていたセンパイと校内を歩くのがちょっと新鮮に感じた。生徒が自習をするために設けられたラウンジに、他の生徒の姿はない。

 センパイは窓際のテーブルに鞄を置いて席に着く。その向かいの席に座ろうとするとセンパイが隣の椅子を引いた。

「そっちじゃなくて、こっち」

 他に誰もいないのにわざわざ隣に座るなんて、ちょっと照れくさい。迷っているとセンパイがさらに言った。

「分からないところを教えるなら、隣の方が教えやすいから」

 なるほど。言われて見ればその通りだ。向かいの席だと、立ち上がって覗き込まなければ教科書やノートが見えない。教えてもらうとなると二人で教科書を覗き込むから、二人とも中腰の変な体勢になってしましそうだ。センパイの言葉に納得して私は勧められた椅子に座った。

 私が座るのを確認すると、センパイはテキストを開いてすぐに勉強をはじめてしまった。おしゃべりをするつもりはないらしい。バスの中ではよく喋るのに、ここでは喋らないのかと少しだけ寂しく感じた。勉強をするために来たのだから当然のことなのに、そんな風に感じてしまう自分に少し戸惑った。

 私は鞄の中から数学の教科書を取り出す。今一番つまずいている教科だ。センパイは分からないところは教えてくれると言ったが、まず、何が分からないのかがはっきりしない。どうしようかと少し悩んでから、とにかく最初のページから順番におさらいをしていくことにした。

 学習ラウンジには、教科書をめくる音とシャーペンを走らせる音、そして二人の息遣いしかなかった。

 そんな静寂が唐突に終わりを告げる。私の隣からパタンとテキストを閉じる音がしたのだ。私は少しだけビクッとして顔を上げた。

「そろそろ時間だよ」

 センパイは少し笑みを浮かべて言う。慌ててスマホで時間を確認すると勉強をはじめてからすでに一時間近く経っていた。

「何か聞かれるかなと思ってたんだけど、私は必要なかったみたいだね」

「いえ、まだ最初の方をおさらいしてたから……」

 答えながらも、なんだかキツネにつままれたような気持ちになっていた。

「朝の一時間って、結構集中できるでしょう?」

「はい。なんだか自分でもびっくりしました」

「明日からも続ける?」

「はい。お願いします」

 今度は迷うことなく返事をする。私の返事にセンパイはうれしそうに八重歯を見せて頷いた。

「それじゃあ、そろそろ教室に行こうか」

 センパイがテキストを鞄にしまいながら立ち上がるのを見て、私は大切なことを思い出した。

「そういえば、私、まだセンパイの名前を知りません」

「え? そうだっけ?」

「はい」

「今まで知らなくても問題なかったし、いいんじゃない?」

「それはダメな気がします」

「そう? でも、普通に教えたら面白くないよね。がんばって当ててみて」

「そんな無茶を言わないでくださいよ」

 人の名前なんて無数にある。簡単に当てられるはずがない。三年の教室をくまなく調べればわかるかもしれないが、一年の私がズカズカと入り込める場所でもない。

「それじゃあ、ヒント。ホショク」

「ホショク?」

 それだけ言うとセンパイは笑みを浮かべて歩き去ってしまった。

 教室に行くとすでにほとんどのクラスメートが揃っていた。その光景も妙に新鮮に感じる。

「おはよう。今日は遅かったね」

 私の姿を見つけた桃に声を掛けらる。

「もしかして寝坊したの?」

 藤花が仲間を見付けたと言わんばかりにニヤリと笑って言った。

「いや、そうじゃなくて……」

 そう言いかけて私は口をつぐむ。なんとなく、センパイとの勉強会のことは内緒にしておきたいと思った。

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