第2話

 家から最寄り駅までは徒歩で約五分。そこから電車に十五分揺られて、下車した駅から自転車で約三十分走る。これが私の通学ルートだ。

 片道一時間近くかかる高校に進学したいと両親に話したとき、近場にもいい高校があるじゃないかと言われた。だけど私は志望校を変えるつもりはなかった。この高校に入るために勉強だってがんばった。

 この高校を選んだ理由は、私にとっての『高校』とはこの学校だけだったからだ。入りたい部活があったわけではない。魅力的な校風があるわけではない。興味深い授業があるわけでもない。というか、実際にどんな学校なのかは入学してから知ったくらいだ。

 だから、校風とか偏差値とか通いやすさとか、様々な視点から総合的に検討すればもっといい高校はあったはずだ。けれど私の意思は揺らがなかった。そもそも検討するつもりがなかった。

 まだ私が小学校低学年だった頃、隣に住んでいた桜(さくら)ちゃんがこの高校に通っていた。いつも笑顔でやさしくしてくれた桜ちゃんのことが私は大好きだった。そんな桜ちゃんの姿こそが、私の理想の高校生だったのだ。大好きな桜ちゃんのようになるにはあの高校に行かなければいけない。幼い私はなぜか頑なにそう思い込んでいた。

 それでも中学生くらいになればちょっとは周りが見えてきて、それが思い込みでしかないと気付きそうなものだ。それに桜ちゃんが通っていた頃は女子高だったが、私が中一のとき共学に変わった。桜ちゃんが通っていた頃とは雰囲気も校風も変化したはずだ。

 共学になったと知って確かに少しだけ気持ちが揺らいだ。共学が嫌だったわけではないが、憧れていた高校が違うものになってしまったような気がしたからだ。だが三上(みかみ)のおばさんから、桜ちゃんがあの高校の先生になったと聞いて、私は進学の意思を完全に固めた。

 単純というのか、純粋というのか。私は幼い頃の憧れと思い込みを貫き通して、見事に合格してみせたのだ。



 入学できたのは良かったけれど私は早々に壁にぶつかった。片道一時間という通学時間については覚悟していたのだが、ラッシュ時の混雑については少しも予想していなかったのだ。

 私は電車の十五分でノックアウト寸前に陥っていた。電車を降りて駅のベンチで少し休んでいると「どうした? 具合が悪いのか?」と声が掛けられた。

「あ、桜ちゃん」

「三上先生だ」

「まだ、学校じゃないもん」

 私が言うと桜ちゃんは小さく息を付いて隣に座る。

「どうした?」

「電車がすごく混んでて、なんか、もうダメって感じで」

「あー、慣れるまでは大変かもな」

 桜ちゃんは腕を組んで言った。桜ちゃんは高校を卒業して実家を出たのでずっと顔を合わせていなかった。高校に入学して久々に会った桜ちゃんは幼い頃に抱いていたイメージとは違っていた。

 昔は、桜ちゃんのことをかわいくて、やさしくて、おしとやかなお姉さんだと思っていた。けれど今の桜ちゃんは、サバサバしてて、ズケズケものを言う、なんというか、お姉さんというよりは姐さんみたいな感じだ。

「慣れるなんて無理だと思う。もう学校に通えないかも……」

「おいおい、諦めるの早すぎないか?」

 桜ちゃんはガハハと豪快に笑う。

「今日は電車だけだからいいけど、雨が降ったらバスもあるんだよ」

 天気のいい日は学校まで自転車で行く。だからラッシュに巻き込まれることはない。だが雨の日はバスを利用する。電車は十五分だがバスは三十分だ。耐えられるとは思えなかった。

「うーん、そっか。それなら時間をずらすっていうのはどうだ? 一本ずらすだけでも混雑具合は違うぞ」

「そうなの?」

「ああ。失敗するとさらに混んでるかもしれないけどな」

「げっ」

「朝早くても大丈夫なら、もう少し早い時間に登校すればいい。早い時間なら空いてると思うぞ」

「じゃあ明日は早く登校してみる」

「さて、そろそろ行くか」

 桜ちゃんがそう言って立ち上がるのを見て私も学校に向かった。



 桜ちゃんの言葉を信じて翌日は一時間以上早く家を出た。早い時間の電車は昨日乗った電車とは全く違った。車内の奥へ奥へと押し込まれることもなかったし、何より普通に呼吸ができる。

 桜ちゃんの言葉を信じてよかった。

 学校にも早く到着してしまうので、みんなが登校してくるまで時間を持て余すことになるだろう。だが混雑する電車やバスに乗るよりもずっとましだ。

 私は今後も早い時間に登校することに決めた。そして週末には美容院に行って中学時代に伸ばした髪をバッサリと切った。早起きはそれほど苦ではなかったけれど、髪が短い方が朝の準備を短くできると思ったからだ。

 長い髪に思い入れがあったわけではないが、急に短くなったことに幾分か寂しさを感じる。だがその夜のシャンプーとドライヤーが驚くほど楽にできたことに感動して、寂しさなんて一気に吹き飛んだ。むしろ、なんで伸ばしていたんだろうと思ってしまうほどだった。

 月曜日、登校したとき、仲良くなったばかりのクラスメートの野井藤花(のいとうか)と仙道桃(せんどうもも)が駆け寄ってきて、短くなった髪の理由を根掘り葉掘り聞いてきた。

 本当の理由を伝えているのに「失恋したの?」とか「辛いことでもあった?」と聞かれてびっくりした。

 確かに失恋して髪を切るという話を聞いたことはあるけれど、自分がそんな風に見られるとは思っていなかったので、ちょっとびっくりして、ちょっと面白かった。

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