#55:自覚する/させる
病院の屋上への扉は、普通施錠されているものだと思っていた。もしくはエレベーターにロックを掛けて屋上階には止まらせないようにしてあるとか。
……その、良からぬことを考えてしまう患者も中にはいるだろうから。いや、かなりの頻度でいると思われるだろうから。
と、危惧していたが、すんなり、最上階のエレベーターから最上階に降り立つことが出来た。そう言えば、前にも(そんな前でもないか)、シンヤに車椅子を押されるようにして、来たことがあったっけ。
「シンヤに押されていた」……実際は、自分の手で車輪を回していたのだけれど。まあでも、つまりは、シンヤの意志ということだ。
シンヤは俺に何を伝えたかったんだろう? もともとは、「恵一くん」(ずっと頑張ってくれていた、彼のことだ)が記憶を取り戻すのを妨げるストッパーとしての役目を担ってもらっていたはずだった。
実際、当初シンヤは、恵一くんとめぐみとの接触を避けようとしていた。しかし、途中からは、どうも恵一くんを試すような言動を繰り返し、その記憶回復状況を、確かめようとしていたふしがある。それは、俺自身の逡巡だったのかも知れない。
最終的に、俺の意志を汲んだシンヤは、恵一くんと融合し、さくらを喪った事実を閉じ込めたまま、まがいものの「柏木恵一」として甦ろうと行動した。そしてそれを見破った「恵一くん」に最後の最後は同調し、自らの記憶の全てを明け渡して、共に消滅した。
いや、消滅はしていない。今も、二人とも、俺の心の中で息づいている。
きっとシンヤも分かっていたんだろう。さくらさんの記憶が抜けた「柏木恵一」など、まるっきり意味の無いものだということを。それこそ、がらんどうのニセモノだと。
-柏木恵一ぃ、やっと気づいたのかい?
……きっと奴ならそう言うのだろう。心の中で、シンヤの真似をしてみる。家族を喪った過去から逃げ出すために、無理矢理に充実して見せ、軽薄になりきろうとしていた自分を、さらにカリカチュアライズしたかのような奴だが、何だか、憎めない悪党になった気分だ。悪くない。
「……」
屋上へと出るガラスの扉を、松葉杖で体を支えつつ、苦労して肩で押し開ける。今日は風が強いが、金属の網に囲われた、ほとんど何も無い屋上の空間に、陽の光は暖かく降り注いでいる。
何も無い……いや、違った。
金網のそば。白衣を羽織った後ろ姿。その人影が、こちらをゆっくりと振り向いて来る。
……さくらさん。やはり、いてくれたのか。俺に呼びかけていてくれてたのか。
「……柏木さん。気分はいかがですか?」
にこりと笑みを見せてくれたのは、しかし、さくらさんでは無かった。佐倉めぐみ。俺を呼び戻してくれた、俺の、かけがえのない人のうちの一人だった。
「……女性の顔をじろじろ見るのは、よくないことですよ?」
笑顔は確かに似ている。だが、どう見てもさくらさんとは別人だ。当たり前か。別の人間なのだから。それでも、俺の迷走していた脳には、めぐみが、さくらさんに映っていた。
きっと、そう思いたかったからに違いない。
さくらさんは、今でもこの世界にいて、言葉を発し、俺に触れてくれる存在なのだと。
そう考えなければ、記憶も何も、全てがぐちゃぐちゃに崩れ去ってしまいそうだったから。
めぐみは、そんな俺の考えを察して、よりいっそう、さくらさんらしく振舞おうと考えたんだろう。
自分の母親の振りをして、自分の父親と接する。
そして、過去の出来事をトレースした。
……さくらさんのこと、覚えてもいないくせに、何で、そんなに上手だったんだ?
「……」
目の前で微笑む、めぐみは、黙って俺の目を覗き込んでくるだけだ。
……きっと、さくらさんが、娘の体に乗り移りでもしたんじゃないか、と思ってみる。
ふがいない俺を見かねて、さくらさんが降臨してくれたんじゃあないか? 確かに、俺はさくらさんを、めぐみの中に感じていたのだから。
「……」
俺も、こらえきれずに、つい笑顔になってしまう。顔の傷がひっつれて、痛さで、そう、その痛みによって……思わず涙も出てしまったが。
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