第123話
ミーナが去って数日後。
ジュリエットは自室で慌ただしく、メアリと共に荷造りをしていた。
「衣類はこっちの茶色い鞄で、それ以外の細々した物はあっちの緑色の鞄ね」
「かしこまりました。教本やノートなどはどうされますか?」
「そうね……」
エミリアを教えるために買いそろえた教本や、苦手科目の対策のために書き綴ったノート。
ここ半年の間に随分と使い込んだそれらを見つめ、ジュリエットは懐かしさと、ほんの少しの寂しさを覚えながら微笑む。
「それは置いていきましょう。わたしがいなくなった後も、少しでもエミリアさまの助けになるかもしれないから」
§
ジュリエットが自らアッシェン城を去る決意をオスカーに伝えたのは、イーサンによる誘拐事件の一週間後の事だった。
「二、三日中にエミリアさまの家庭教師の任を辞し、実家に帰らせていただきたいと思います。ジョエル王子の誕生日会まではまだ一ヶ月ある中、本当に申し訳ございません。ですが今のエミリアさまならきっと大丈夫ですわ」
「いや、そのことはいいんだ。ただ、あまりに急なことで……」
そんなことを告げられるとは予想もしていなかったのだろう。ジュリエットの言葉を聞いたオスカーは右目を大きく瞠り、珍しくうろたえた様子を見せていた。
「ご両親が心配なさっているのだろう。すまない。本来なら私のほうから、真っ先に事件の経緯の説明と謝罪をしなければならなかったのに……」
「いいえ。旦那さまはクレッセン公の尋問や王都への移送で忙しくなさっておいででしたから。両親も、そのことは理解しております」
二日前、アッシェン城には事件の噂を耳にしたジュリエットの両親が急遽駆けつけていた。
知らせをを受けたジュリエットは、大事になるのを避けるため正門前まで出て行って両親に顔を見せることにした。
そうしてひとしきり娘の無事を喜んだ両親は、「すぐに家に帰ろう」と、半ば強引にジュリエットを実家へ連れ帰ろうしたのだ。
おかげで正門を守っていた騎士たちには、ジュリエットの本当の身分が発覚してしまい、その後話を聞きつけた使用人たちの間でちょっとした騒ぎが巻き起こった。
それはそれとして、当時は城内が事件の事後処理で慌ただしく、ジュリエットも聴取への協力などをしなければならなかった。
そのため大人しく両親について行くわけにもいかず、その場はなんとか収めたのだが――。オスカーも当然、その一件については誰かから報告を受けていたようだ。
「もちろん、心配だから帰ってこいとは言われましたけれど……。でもこれはわたしの、自分自身の意思です」
「ならば尚更、なぜなんだ? エミリアは君に懐いているし――いや、そのエミリアのことか」
その言葉に、ジュリエットは静かに頷く。
ジュリエットだって、アッシェン城を去ると決めたことになんの迷いもなかったわけではない。
できればこの先もずっと、エミリアやオスカーと笑って過ごしたかった。
エミリアの側にいて、彼女の成長を見守りたかった。
だからこの十日間、ずっと悩みに悩み抜いた。どの道を選ぶのが自分たちにとって一番いいのか考えて、考えて――そうして選んだのが、オスカーとエミリアの元を去ることだった。
もしジュリエットがここに残れば、ジュリエットはほんのひとときだけ幸せになれるかもしれない。
あるいはオスカーの後妻として、今度こそ彼と添い遂げる未来が待っているかもしれない。
けれどそのせいでエミリアは、父の幸せを願う気持ちと母を慕う思いの間で、ずっと葛藤することになってしまう。
イーサンの策略によって、エミリアの心にはジュリエットに対する不信感が芽生えてしまった。
人の心に植え付けられた悪意の種は、きっとどうあがいても消せはしない。何かの折りにふと顔を出し、その人のことを苦しめるだろう。
エミリアは優しい子だ。
どんなに苦しんだとしても、きっとその不満をジュリエットにぶつけることは、もう二度としないだろうと容易に想像できた。
「わたしが側にいることで、エミリアの幸せを犠牲にすることになるのなら……。わたしには誰より大切なあの子をこれ以上苦しめ、傷つけることなんてできません」
ジュリエットの言葉に、オスカーははっと息を呑んだ。
ジュリエットにとってこれが容易な決断ではなかったように、オスカーにとってもまた、簡単に納得できる話ではないのだ。けれど彼もまた、ジュリエットと同じくらいエミリアを大切に思い、心から愛する父親だった。
長い、長いため息をつき、苦しげな顔をしながらジュリエットの両手を取る。
「――ようやく、貴女にまた出会えたのに」
その言葉だけで、ジュリエットは彼が自分の考えに同意してくれたのだとわかった。
「わたしも、旦那さまとまた出会えてとても嬉しかったです。だけど、わたしたちは本来なら結ばれなかった者同士。そろそろこの夢をおしまいにしないと、天罰が下ります」
本来なら起こりえるはずのなかった、転生という奇跡。それはきっとスピウス女神が、悲しい運命に引き裂かれた哀れな夫婦に見せてくれた、一時の夢だったのだ。
「……本当に、夢ならよかった。夢だったら、目覚めた時にあれは現実ではなかったのだと諦めがつくから」
「泣く子も黙る元騎士団長さまが、子供みたいなことをおっしゃらないでください」
オスカーの手を握り返しながら、ジュリエットは精一杯の強がりで笑ってみせた。そうしなければ、今にも泣いてしまいそうだったから。
「わたしたち、きっとどうしても結ばれない運命だったんだと思います」
「ああ……そうかもしれないな」
オスカーも、どこか無理をしたような笑みを浮かべて頷く。
ふたりの手は堅く繋がれたまま、ただ互いのぬくもりを伝え合っていた。
「わたし、フォーリンゲンに戻ったら今度こそ
口を閉ざしたままのオスカーに、あえて軽い調子で告げる。
けれど、ジュリエットは分かっていた。この先どんなに長い人生を送ったところで、きっと彼以上に好きだと思える相手に出会えることなどあり得ないのだと。
だからジュリエットはそこで言葉を切り、改めてオスカーの目を見つめる。
リデルの大好きな氷色の目が少し潤みを帯びながら、ジュリエットをまっすぐに見つめ返した。
「――そしてジュリエットとしての人生を終えて、もう一度生まれ変わったら……。また、わたしを見つけてくださいますか?」
「ああ……当然だ。たとえ貴女がどんな姿に生まれ変わろうと、どれほどその見た目が変わろうとも、もう一度探し出して妻にする」
リデルとは全く違う姿をしたジュリエットに出会い、前世の妻だと気づいたように。きっと彼はまた、ジュリエットを見つけてくれるだろう。
たくさんの花が咲く花畑の中から、たった一輪、朝露に濡れた白薔薇を見つけるように。
どんな愛の告白よりも深い想いが込められたその言葉に、ジュリエットは胸がいっぱいだった。
その言葉だけで、これからの人生を彼なしで生きていけると思えた。
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