第118話

「私は……かつて己の過ちで、何より大切だった姫さまを失いました。もう二度と、大切な方を傷つけさせたりはしない!」

「ミーナ……」


 確かに彼女は罪を犯した。後悔しても、亡くなった人々が帰ってくるわけではない。

 それでも、きっと彼女がリデルを大切に思う気持ちに嘘はなかった。ふたりで共に過ごした時間は、築いた絆は、本物だったのだ。

 激痛に顔を歪めながらも決して臆すことなくイーサンを睨み付けるミーナの姿に、ジュリエットの胸が熱くなる。


 だがイーサンは、そんなミーナの勇気さえ嘲笑った。


「ははっ。弱い者ほどよく吠えるというが、まさにそうだ。実際にお前は、私にかすり傷程度しか負わせられず、こうして地に伏していることしかできていない。力なき者が語る理想論ほど反吐が出るものはない」


 そう言うと、彼は腰に佩いていた剣を抜き、ミーナの上に狙いを定めるように掲げた。

 銀色の刀身が月光を弾いて、冷たく禍々しい光を放つ。イーサンの瑠璃色の瞳はそれ以上に冷たく、残虐な光を宿していた。

 もはや彼はその剣でミーナの命を奪うことに、何の躊躇いも抱いてはいなかった。


「お前はもう用済みだ。死ね」

「やめて、お兄さま――!」


 手を伸ばしたジュリエットの視線の先で、勢いよく剣が振り下ろされる。もはや誰にも、イーサンの凶行を止めることはできないだろう。

 そんな絶望が胸をよぎった、その時。大地を蹴る蹄の音と馬のいななきが、遙か遠くから近づいてくるのが分かった。


「なんだ……?」

 

 イーサンが剣を振り下ろす手を止め、いぶかしげに目を細めたほんの一瞬のことだった。

 鋭く空気を切り裂くような音と共に、一条の矢が彼めがけてまっすぐに飛んできたのは。


 矢はそのまま、イーサンの身体に突き刺さるかと思われた。

 しかし、彼の反応速度は恐ろしく素早かった。すぐさま剣の角度を変え、身を翻しながら剣で矢を弾いたのだ。

 キン、と無機質な金属音が響き、勢いを失った矢が地に落ちる。


 ジュリエットは思わず、矢の飛んできた方角に目をやった。

 馬の姿は遙か遠く、まだかろうじて輪郭が見えるほどだ。それなのにこの矢は、あれほど離れた距離から的確に、イーサンひとりを狙って飛んできた。

 付近の村の自警団では、まずありえない腕前だろう。


 ジュリエットの胸に、一筋の希望の光が差す。

 しかし、ただ安堵してばかりもいられなかった。


「閣下! ご無事ですか!」

「うるさい、騒ぎ立てるな! それより急いで守備を固めろ! 私は今すぐ、彼女を連れてここから離れる」


 無事を確認する護衛たちに声を荒らげたイーサンが、大股でジュリエットのほうまでやってこようとする。腕を捕まれそうになったその時、突如として大声を上げたミーナがイーサンの左足にしがみつき、彼の動きを阻んだ。


「行かせない……! 確かに、私は何の力もない愚か者です! だけどたとえこの命を失っても、姫さまは絶対にあなたになんか渡さない!」


 先ほど踏まれた時に折れたのだろうか、片方の手は真っ赤に腫れ上がって痛々しかった。


「姫さま、どうかお逃げください! 今度こそ、生きて……!」

「ミーナ、もうやめて! わたしは大丈夫だから……っ」


 苦痛に呻きながら祈るようにそう言うミーナの姿に、ジュリエットは涙を流しながら首を横に振る。自分が逃げたら、今度こそミーナは殺されてしまう。それが分かっていて、彼女をこの場においていけるはずがない。


「この……邪魔だ、離せ!」


 イーサンはいつになく苛立った様子で、何度も何度もミーナの身体を足蹴にした。やがてとうとう腕に力が入らなくなったのか、ミーナの手がするりとイーサンの足から離れる。

 彼はもはや用なしとばかりにミーナを捨ておくと、今度こそジュリエットの腕を強引に掴み上げた。


「さあ、おいでリル。誰にも邪魔されない場所へ行くんだ」

「いや……っ!」


 痛い。怖い。おぞましい。

 恐ろしいほどの執着と狂気にとりつかれた彼は、もはやジュリエットにとって怪物も同然だった。

 イーサンの拘束を懸命に振り払おうとするジュリエットを嘲笑うかのように、彼は腕を掴む手に更に力を込める。


「どうしてわからないんだ! 私なら君を世界一幸せにしてやれると言っただろう! 私なら全部君に与えてあげられる! ドレスも宝石も美味しいお菓子も、共に過ごす時間も、何に怯えることもない平穏な時間も! 全部全部、愛する君のためなら――」

「クレッセン公。私の領地で、私の大切な人を誘拐するおつもりですか」


 氷でできた刃のように冷たい声が、その場に響いた。

 いつの間にか、馬はジュリエットたちの目と鼻の先にまで迫っていた。

 真っ白な毛並みをした、美しい馬。その上には、白い外套をはためかせながらこちらを見つめているであろう騎手の姿がある。


 風に乗って、懐かしい香水の匂いがする。


 逆光で顔は見えない。

 けれどそれが誰かなど、考えるまでもなかった。


「旦那さま……!」

「アッシェン伯――!」


 ジュリエットとイーサンの声が、ほぼ同時に重なった。

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