第110話

 ガタゴトと、馬車が大きく揺れるのを感じる。


「奥さま、長時間座りっぱなしでお疲れでしょう。そろそろ休憩にいたしましょうか」


 懐かしいアーサーの声がして、ジュリエットはこれが夢だと気づいた。

 だけど、ただの夢ではない。


(これは過去の……わたしリデルの記憶……)


 薄い膜を通したかのように、ジュリエットは第三者の視点でその光景を眺めている。


「さあ、おふたりとも。外にお出になってください。ずっと馬車の中では気詰まりでしょう?」


 馬車が止まり、窓の外からアーサーが促した。ミーナの手を借りて外に出たリデルが、青々とした草花の空気をいっぱいに吸い込む。

 エンベルンの森。ここを抜けていくつかの町を通り過ぎれば、目的地である別荘に辿り着く。

 長い旅路に休憩は欠かせない。

 騎士たちも、周囲を警戒しながらも伸びをしたり、水分をとったりとつかの間の休息を楽しんでいた。


 リデルもまた、ミーナの用意してくれた敷物の上に腰を下ろし、城から持参した水を飲んで乾いた喉を潤す。

 そんな時だった。一旦馬車の中に引っ込んだミーナが、大きなバスケットを手に戻ってきたのは。


「そういえば道中のお供にと、料理長から差し入れを預かっていたのでした」


 バスケットの中身はクッキーだった。旅の疲れには甘いものが一番だと料理長が言っていた――ミーナはそんな風に語って、全員にクッキーを配っていた。


「あら? 数が足りないみたい……私と奥さまの分がありませんね」

「いいのよ。大変な任務についている騎士の皆さんに差し上げて」


 途中で数が足りないことに気づいたミーナと、そんな会話を交わしたことを思い出す。

 騎士も、準騎士も、そして御者も、そのクッキーを食べた。リデルとミーナ以外、皆。


 そして、

 それから、

 騎士たちは死んだ。


 精鋭であるはずの彼らが、たかが野盗の襲撃で全滅させられた。

 悲鳴すら上げることなく。

 剣を振るうこともなく。


 ――……思い出した?


 どこか遠くで、声がする。


 ――あなたはきっと、思い出したくなかっただろうから、記憶を封じ込めていたけれど。でも、それ、、が真実。もう、わかるでしょう?


 ジュリアの声だ。

 耳を塞ぎたい。すべてを忘れてしまいたい。けれど、もう二度とそうするわけにはいかない。


 ――起きて、ジュリエット。目を覚まして、あなたの大切なものを守るの!


 意識がゆっくりと浮上する。

 次に目を開けた時、ジュリエットの目の前にはミーナがいた。


「お目覚めになりましたか」

「……ミーナ」


 窓の外に目を向けたまま、ミーナは気配だけでジュリエットが目覚めたことを感じ取ったようだった。

 その横顔は一見、とても落ち着いているように見える。しかし、膝の上で忙しなく組み替えられる手を見ていれば、彼女の心中が穏やかでないことは明らかだった。


「手荒なまねをして申し訳ございません。ですが、こうするほかなかったのです」

「エミリアはどこなの? 無事でいるの?」

「エミリアさまはご無事ですよ。ただ、少しばかり人目に付きにくい場所で過ごしていただいておりますが」


 言葉を交わしながら、ジュリエットは注意深く周囲の様子を窺う。

 窓の外は暗くてよく見えず、車輪の音が邪魔して他の物音も聞こえない。

 ただ時折、御者台に付けられたランタンの明かりが揺れ、木々の輪郭を照らすことから、どこかの森の中であろうことが窺えた。


「あの子を、誘拐したの……?」

「協力はいたしましたが、エミリアさまを連れ去ったのは私ではございません」

「誰の――いいえ、クレッセン公ね」


 確信を持って告げた言葉だった。

 ミーナも元より、隠す気はなかったのだろう。少し驚いた顔をしながらも、素直に頷く。


「クレッセン公はどういうつもりなの?」

「理由はわかりません。ですが、イーサンさまはエミリアさまを使ってジュリエットさんを浚うようにと……。そして、自分のところへ連れてくるようにと仰せになりました」


 淡々と告げながらも、ミーナの声には迷いが感じられた。

 それは幼い頃から彼女とずっと一緒に過ごしてきたリデルでなければ、きっと見逃していたであろう小さな違和感だった。

 だからジュリエットは、あえて彼女を揺さぶることにした。


「そうしてまた、わたしを殺そうとするの? ……騎士たちに薬を盛った、あの時のように」

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