第98話
「……では、あなたの記憶では騎士たちの悲鳴は一切聞こえなかったと?」
その日、ジュリエットはオスカーに改めて、自身の死の間際に起こった出来事について話していた。
室内を燭台の火がほんのりと照らす、まだ早朝の時間帯だ。
ふたりはできるだけ人目に付かないよう、そして見つかっても誤解されにくいよう、城の図書室で顔をつきあわせていた。
「はい。あれほど大勢の騎士たちがいて、突然襲撃されたにも拘わらず、わたしが耳にしたのは彼らが倒れる際の音だけでした」
「それは妙だな……そもそもあの事件自体が、妙な出来事だったのだが」
アッシェン領では日頃から、領民が安全な生活を送れるよう、騎士たちが自警団に訓練を行ったり定期的に見廻りを行っている。
また、いわゆる貧民たちに対しては職業訓練の場を提供し、気軽に利用できる施療院を建てることによって生活の保障を行い、治安維持に努めてきた。
山賊や野盗と呼ばれるような犯罪集団の噂も、ここ二十年以上アッシェンでは聞いたことがなかったはずだった。
――そう、リデルが襲撃された例の事件を除けば。
「あの野盗たちは、初めから私を狙って襲撃を起こしたようでした。お前が姫か……と言うようなことを聞かれたのを覚えています。身代金目的で、アッシェン外部からやってきた者たちだったのでしょうか」
そういえばリデルが自害する直前、彼らの頭領がやけに焦っていたのを思い出す。
身代金が目的であれば、相手に死なれたら困るという反応も頷ける。
「あなたが亡くなった後、私はすぐさま例の野盗たちを捕らえるため騎士団を差し向けた。だが……」
オスカーは少し考え込むように押し黙り、苦々しい顔をしてみせた。
「見つけた時には既に、クレッセン公が全員を処断した後だった」
「お兄さまが……?」
「あなたを死なせてしまった私には任せておけないと、彼は独自に捜査を行っていたんだ。そして私より先に盗賊を見つけて、その場で斬り殺した。結局、身代金目的のならず者として結論づけられたが――奴らがどこからやってきて、どのような目的であなたを襲ったのか。どうして護送の道程を知ったのか。本当のところは今も、わからずじまいだ」
優しかった従兄は、リデルを奪った野盗たちをどうしても赦せなかったのだろう。
本来ならばオスカーの言ったような疑問に対する調査を綿密に行い、正式に裁くべきなのだが、それすらできないほどに頭に血が上っていたということだ。
そして恐らく王家も、大事にしたくないがためにイーサンの行為を黙認したのだろう。
当時のことで何か他に覚えていることはないかと、ジュリエットは記憶を探る。
しかしこめかみに軽い痛みが走ったことにより、思考を中断せざるを得なくなった。
「大丈夫か? 顔色があまりよくないようだ」
オスカーはすぐそれに気付き、心配げにジュリエットを見やった。
「……申し訳ございません。前世のことをはっきり思い出そうとすると、頭痛が起こってしまうようで……」
以前ジュリアが夢の中で『全てを一度に思い出すのは負担が大きすぎる』というようなことを言っていた。ひとつの身体にふたり分の人生の記憶を宿しているのだから、彼女がそう言ったのもなんとなく納得できる。
――だけど、前に比べれば頭痛もだいぶよくなってきたみたいだわ。
以前は、前世を少しでも思い出そうとするだけで意識を失っていたほどだ。少しずつリデルの記憶を取り戻すことで、身体がふたつの記憶を宿すことに馴染んできたのかもしれない。
「今日はここまでにしておこう。朝食の時間まで、部屋へ戻って少し休むといい。早くに呼び立てて申し訳なかった」
「いいえ、大丈夫です。もう少し――」
「無理は禁物だ。もうすぐクレッセン公も到着することだし、体調を整えておいたほうがいいだろう」
ジュリエットとしてはもう少しオスカーと話をしていたかったのだが、そうもっともなことを言われては引き下がるしかない。
話の内容は暗く、重いものだとしても、かつてはこんなに長い間語り合うことは決して無かった。
彼に自身の正体を打ち明け、こうしてふたりきりで話せるようになった時間を惜しんでいるのは、自分のほうだけなのだろうか。
「……はい。エミリアさまの家庭教師として、お兄さま――クレッセン公に失礼のないように振る舞わないといけませんものね。それでは、失礼いたします」
少し寂しく思いながらも素直に引き下がろうと椅子から立ち上がる。するとオスカーが「そうではない」と言い、慌てたように立ち上がった。
眉間に皺を寄せ、妙な顔をしている。怒っているようにも困っているようにも見えるその表情の意図がわからず、ジュリエットは首を傾げた。
「私の言い方が悪かった。そういうことではなくて……」
冬色の瞳が視線を捕らえ、大きな掌が手首を掴み、ジュリエットをその場に押しとどめる。
掴まれた手首が、ひどく熱く感じられた。
「――クレッセン公に対する礼儀などではなく、単純に、あなたのことが心配なんだ。前世のあなたはとても病弱だったし、〝ジュリエット〟も幼い頃はとても身体が弱かったとご両親が仰っていた」
彼の口調はいつもより少し早くて、掠れている。
そういえばジュリエットがエミリアの家庭教師になる前、オスカーが実家まで挨拶に来た際、両親がそんな話をしていた記憶があった。
オスカーの心には今も、伏せってばかりいたリデルの儚げな姿が強く残っているのだろう。だからジュリエットに対しても、少し過保護なほど心配してしまうのかもしれない。
「今は元気ですから、大丈夫です。昔と違って馬にも乗れますし、木登りもできます」
「リデル……」
「でも、嬉しかったです。旦那さまに心配していただけて」
昔であればきっと聞けなかったであろう、意地も見栄も建前もない彼の素直な言葉。
心配だというただそれだけの言葉がこんなにも嬉しくて、自然と微笑みが零れる。
その表情に、虚を突かれたようにオスカーが目を見開いた。そして眩しげに、その目を細める。
「あなたの笑顔をもう一度見られたことは、奇跡だな」
「わたしも、旦那さまとこうして話せていることを奇跡だと思います」
若く未熟で不器用だった夫婦は、かつて言葉どころか微笑みを交わすことさえできなかった。
そんなふたりが今、顔を見合わせ笑い合うことができている。
それがどれほど尊いことなのか、オスカーとジュリエットは身をもって知っていた。
「……もう少しだけ、話そうか。今度は、エミリアが小さかった時の話でも」
「ええ、ぜひ。聞いてみたいです」
かつては望めなかった穏やかな光景が、そこにはあった。
§
小さく千切ったレタスに、薄切りにしたトマト。ゆで卵にハム。そして手作りのマヨネーズ。
それらを挟んだパンを丁寧に三角型に切り、バスケットに詰めていく。
仕上げに、空いた場所へ果物を詰めれば完成だ。
「やったぁ! 見てみてジュリエット、上手くできたわ!」
「すごく美味しそうです。上達なさいましたね、エミリアさま」
授業の合間にサンドイッチ作りの練習を始めて数日。
最初の頃はぎこちなかったエミリアも徐々に上達し、今ではほとんど手伝い無しで全ての行程をこなすことができるようになってきた。
「卵を爆発させたり、トマトを上手く切れずぐちゃぐちゃにしていた時はどうしようかと思ったけど ……。でも、これならお父さまに美味しいサンドイッチを食べてもらえそう」
「きっとアッシェン伯も喜ばれますわ」
「そうだといいなぁ。あ、そうだ。せっかくだから味見してみてくれる?」
エミリアが少し背伸びをして、手にしたサンドイッチをジュリエットに差し出してくる。
ジュリエットは身を屈めて、大きくひとくち分を頬張った。
よくトーストされたサクサクのパンに、トマトの甘酸っぱさとレタスのシャキシャキした食感。ゆで卵とマヨネーズのまろやかさに、ハムの塩加減が絶妙な味わいを作り出している。
「ん、とっても美味しいです!」
「よかったぁ。後でロージーやミーナにも食べてもらおうっと」
上機嫌にそう言ったエミリアだったが、ふと、ジュリエットを見ながら不思議そうに小首を傾げた。
「あら? ジュリエットの目の色って、近くで見ると少し青色がかってるのね」
「――え?」
「光の加減かしら。ずっと焦げ茶色だと思ってたけど、その色も素敵ね」
言って、エミリアは後片付けをするため流し台のほうへ足を向ける。
ジュリエットは思わず、側にあった窓ガラスに目をやった。
そこに映っている自分はいつもと変わりないように思えたけれど、よくよく見れば確かに、目の色が以前より薄くなっているような気がしないでもない。
(自分では全然気付かなかったけれど……)
前からこうだったのだろうか。自分の目をじっくり観察したことなどないから、よくわからない。
(そういえば以前、誰かと話している時に、光に翳すと目の色が違う風に見えると思ったことがあるような…。あ、そうだ。ライオネルさんだわ)
彼も確か、光の加減で緑の目が青紫に見えることがあったから、そう珍しいことではないのだろう。
そう結論づけ、ジュリエットはエミリアの手伝いをするため自身も流し台へ向かうのだった。
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